2 一本!
体育の授業が終わり、鈴木寛は更衣室で体操服から制服に着替えていた。学校で過ごす時間のうち、この時間は寛にとって2番目に苦痛な時間だった。
他の男子生徒が寛に気づかれないように、寛の体にできた青あざを盗み見ていた。虐待、いじめ……彼らが寛の体を見てなにを想像しているのかわからないが、気持ちの良い想像ではないだろう。
入学してから1か月ほどしか経っていないのに、寛にとって学校はもはやストレスを溜める場所でしかなかった。
中学生の頃から柔道を始めた寛だが、その腕前はインターハイに出場するほどだった。高校でも同じく柔道部に入部したのだが、そこでは寛の強さが災いした。2年生も3年生もみな寛に敵わず、その強さに対する嫉妬が生まれてしまった。
3年生は練習だといって寛のスタミナが切れても試合形式の練習を寛に強制させた。いくら寛が強くても、疲労した状態では満足に体を動かすことはできない。寛は何度も3年生に投げられた。その結果として寛は体中があざだらけになってしまった。
寛は幼い頃から体が大きく、ガキ大将だった幼少期には同い年の子供をいじめていた。年齢を重ねるとともに寛の心も成長して、他者をいじめることはなくなったが、まさか逆に自分がいじめられる立場になるとは思わなかった。一対一ならいじめなどに屈するつもりはなかったが一対五はひどすぎる。勝てるわけがなかった。
いっそ柔道部をやめたほうがいいかもしれない。近頃ではそんなことまで考えるようになっていた。
部活動に対する熱意は失せ、やがて部活動以外でも寛は無気力になっていった。教室でクラスメートに話しかけられてもいい加減な返事ばかりする寛のもとには、友達と呼べるような存在はいなくなっていた。
しかし、そんな寛を気にかけて話しかけてくるクラスメートが一人だけいた。
更衣室から教室に戻る廊下で、周囲に聞かれぬように声を落として、そのクラスメートは寛に話しかけてきた。
「鈴木って体中あざだらけだけど、それって部活動でできたのか?」
寛が虚ろな目で見下ろすと、そこには同じクラスの佐藤航がいた。女性のような顔に低い身長と、高身長で男臭い顔つきの寛とは対極に位置するような男だった。
「ああ、そうだ。うちの柔道部は練習が厳しいんだよ」
柔道部のことは話したくないし考えたくもない。寛はその話題はそれきりにしたかったのだが、航は追及の手を緩めなかった。
「お前まさか柔道部でいじめられてるわけじゃないよな?」
寛は自分がいじめられているという事実が恥ずかしかった。頭に血が上って、航の襟首を握っていた。
「妙なこと言うんじゃねぇよ! 俺を舐めてんのか?」
怒気を込めた寛の言葉に意外にも航は怯んだ様子を見せず、逆に踏み込むような鋭い視線を返してきた。
「もし困っていることがあったら言ってくれ。力になる」
寛は航の瞳を見つめた。航の瞳は鋭いが、それは寛に対する敵意ではなく、寛の背後にあるなにかを敵視しているようだった。
こいつ、悪いヤツじゃないな。
航のような人間が柔道部にもしいたら、もう少しマシな事態になっていたのかもしれない。
同級生も2年生も寛が3年生にいじめられているのに、それを見ないふりをしている。別に彼らを責めようとは思わない。寛を助けに入れば、今度は彼らが火の粉を被ることになるのは目に見えているからだ。
「別に困ってねぇよ。まぁ、心配してくれたことは感謝する」
寛は航に対して礼を言ったが、本当のことを話す気には到底なれなかった。
自分よりもはるかに弱そうな航になにかできるとは思わなかったし、航を巻き込みたくはなかった。
寛が航の異変に気付いたのは、ちょうど航が妙な探りを入れてきた日あたりからだったと思う。気づけば航の体に青あざがあって、日を追うごとにあざは増えていった。最初はどこかにぶつけたのかとでも思ったのだが、いくらなんでも徐々に増えていくあざは不自然すぎた。これではまるで俺と同じじゃないか。
今日も先輩にさんざんしごかれてようやく部活が終わり、更衣室で柔道着から制服に着替えていると、寛は先輩に後ろから声をかけられた。
「鈴木、クラスメートの佐藤くんは元気か?」
「佐藤? なんで先輩が佐藤を知っているんですか?」
先輩は寛の反応を楽しむようにニヤニヤと笑っている。
「いや、ちょっとな。ああいう友達は大事にしなきゃいけないぞ」
先輩は寛の肩をぽんぽんと叩くと更衣室を出て行った、
その先輩の言葉によって疑問は核心へと変わった。
航は寛の問題に関わってきていて、そのせいで先輩になにかされたのだ。
翌日、寛は体育の時間の着替え中に航に声をかけた。
「おい、そのあざはなにがあった?」
航はニヤリと笑った。
「鈴木のあざがどうしてできたのか教えてくれたら、俺のあざについて教えてやってもいいぜ?」
寛は舌打ちをする。こいつ、俺に話す気はないな。
「お前に話すことなんてない」
寛は更衣室を後にした。
寛は航の様子をよくよく観察してみた。すると航がリュックを背負って昼休み中にどこかに出かけていることに気づいた。
寛は航に気づかれないように注意して航の後をつけた。航が向かったのはなんと柔道部の部室だった。
柔道部の部室では3年生が昼ご飯を食べていることがある。寛にとっては行きたくない場所だった。なんでそんな場所に佐藤が?
航は部室の中に入っていった。寛は部室の裏手に回ると壁に背を貼り付け、中の会話に耳を澄ませた。
「おお佐藤くん、今日も来てくれたのか! じゃあ、さっそく今日の勝負を始めようか」
上機嫌な先輩の声が聞こえる。寛をいじめるときに出す声とよく似ていた。
「よろしくお願いします」
「佐藤くんは昼ご飯はもう食べた?」
「食べてないです」
「そりゃ良かった。この前みたいに畳の上でリバースされたら困るからね」
先輩たちの笑い声が聞こえる。佐藤が吐いたのか? こいつら佐藤になにをしたんだ?
部室を出た航と先輩は柔道場の隣にある更衣室で柔道着に着替えると、柔道場に入っていった。
寛は先輩たちに見つからないように柔道場の中をそっとのぞき込んだ。
「それじゃあ佐藤くん、いつでも来ていいよ」
「お願いします」
航が先輩に向かっていく。先輩は航の襟と袖を取ると航をたやすく投げ飛ばした。航の体が宙を舞い畳に叩きつけられる。受け身もとれない航は畳に叩きつけられると表情を痛みに歪めた。
わっと先輩たちの笑い声が起こり、寛の心がざわついた。
航の相手をしている先輩が航に手招きする。
「まだ勝負は始まったばかりだ。来なさい」
「はい」
柔道場に航が投げられる音が響く。投げられても投げられても、航は立ち上がって先輩に向かっていく。
「そろそろ俺にも代わってくれよ。俺にも佐藤くんを投げさせてくれ」
「お前は弱いから佐藤くんに投げられないか心配だな」
「さすがに佐藤くんには負けないわ」
先輩たちは楽しそうに笑い声をあげている。
寛にとっては気持ちの悪い時間が過ぎていった。
「じゃあ、俺たちはそろそろ帰るから。佐藤くん、また勝負したくなったら遠慮せずにいつでも来てね」
「ありがとうございます」
寛はいったん柔道場を離れて物陰に隠れ、先輩たちが去るのを待った。
先輩たちが柔道場から出ていったのを確認した寛は柔道場に駆け込んだ。
おそらく先輩から借りたと思われる古い柔道着を着た航が、壁に背を預けて座り込み休んでいた。はだけた柔道着からは、ついさっきできたばかりのあざが見えた。
寛は航の柔道着の襟を掴むと、航に噛みつくように聞いた。
「ここでなにをしている? その恰好はどういうことだ?」
「どうやらもう言い逃れはできないみたいだな」
航はこの状況を楽しむように笑っている。なにがおかしいのかわからない。こいつは頭がいかれてる。
「恰好つけてないで、なにが起こっているか話せ」
そして航から聞かされた事実に、寛は驚きを通り越して呆れた。
寛を心配した航は他の1年生の柔道部員に聞き込みまでして、寛が3年生にいじめられていることを調べたらしい。そして、いじめをやめてもらうために3年生に直談判にいった。
すると3年生は航に勝負を持ちかけてきた。もし航が3年生を一度でも柔道で投げることができたら、寛をいじめることをやめる。
航は寛をいじめから解放するために3年生に勝負を挑み続けているが、今のところ一度も3年生を投げられていないらしかった。
「お前馬鹿だろ。なんで俺のためにそこまでする?」
「鈴木のためじゃない。俺のためだ。俺はああいうカスがムカつくんだ」
「俺から見たら先輩よりお前のほうがどうかしてるぜ」
航は嬉しそうに笑った。気持ちの悪いヤツだ。なぜだかおかしくて寛は航につられて笑った。笑ったのはいつ以来だ?
ひとしきり二人で笑った後、先に口を開いたのは航だった。
「鈴木、頼みがある」
「頼み? なんだよ?」
航の頼みを聞いた寛はニヤリと笑った。これはおもしろいことになりそうだ。
寛は柔道場の壁に張り付いて耳を澄ました。
「佐藤くん、いつも以上に体調が悪そうに見えるけどだいじょうぶ?」
先輩が楽しそうに航に聞く。航が体調を崩しているのが楽しいのだろう。本当にカスだ。
「だいじょうぶです。今日もよろしくお願いします」
「おい、佐藤くんを壊すなよ。大事なおもちゃなんだからな」
「わかってるよ」
寛はそっと柔道場をのぞき込んでみた。
航は柔道経験者ではなく、おまけに身体も小さい。
柔道はボクシングのように体重でクラスが分けられており、身体の大きい者が有利なスポーツだ。航に勝ち目は万が一にもなかった――普通ならば。
この前と同じように航は一方的に先輩に投げられた。
「よし、次は俺だな」
航の相手が変わる。その相手は航よりかは体が大きいが、3年生の中では一番小柄な選手だった。実力も先輩たちのなかでは一番劣っている。
航はその先輩にも容赦なく畳に叩きつけられた。
寛は航に受け身を教えていない。もし航が受け身をすれば、先輩たちは不審に思って警戒するだろう。だからあえて寛は航に受け身を教えなかった。そのため航は畳に叩きつけられた衝撃を逃がすことができず、まともに衝撃を受けていた。
寛は歯を食いしばって怒りを堪えた。すべてたった一度のチャンスを生かすためだ。
倒された航がよろよろと立ち上がる。先輩は獲物を投げ飛ばすのが待ちきれないとばかりに、警戒心もなにもなく踏み込み、航の襟を取ろうと不用意に右腕を出した。
ずっとその瞬間を待っていた航が、その大きな隙を見逃すわけがなかった。
航は寛に教えられたとおりに一本背負いを繰り出す。先輩の右腕の袖を左手で取ると、体を沈めつつ先輩に背を向け、右腕で先輩の右腕を抱える。
航がなにをしようとしているか先輩が気づいたときには、すでに先輩の両足は宙に浮いていた。
先輩の体は宙を舞い、畳に背が落ちた。審判がいたら一本と宣言したに違いない見事な一本背負いだった。
「おい田中! お前、なに投げられてんだ!」
「いやだって、こいつがこんな技を隠し持っているなんて知らなかったんだ!」
先輩たちが航を睨みつける。
「お前ハメやがったな!」
「俺は先輩を投げました。約束通り鈴木にはもう手出ししないで下さい」
「1年が調子にのるなよ!」
先輩たちが航に掴みかかろうとした。
恐怖に抑圧されていた寛の中の怒りが、ついに限界点を突破した。
寛は柔道場に走り込み、先輩の腕をとった。
「鈴木、なんでお前がここに?」
先輩はちらりと航を見てから、寛に視線を戻す。
「そうかそういうことか。佐藤に一本背負いを教えたのはお前だな」
「先輩、佐藤は先輩を投げました。約束は守ってください。守ってくれないなら、俺ももう大人しくしていられません」
「どういう意味だ?」
「俺のこの身がどうなろうが、先輩の腕の一本や二本はもらいます」
先輩の腕を握る寛の握力が増す。
先輩は苦痛に顔を歪め、寛の手を振り払おうとしたが、寛の手はビクともしない。
覚悟を決めた寛の危険な眼差しに、先輩はごくりと唾を飲み込んだ。
「わ、わかった。落ち着け。もうお前には手を出さない」
「佐藤にも手を出さないと約束してくれますか?」
「もちろんだ。だから手を離してくれ」
寛は先輩の真意を測るように瞳をのぞき込むと、先輩の手を離した。
「おい、行こうぜ!」
先輩たちは逃げるように柔道場から去っていった。
寛と航だけが柔道場に残される。
「俺の一本背負いどうだった?」
航が寛に尋ねると、寛は柔道場に寝転んだ。
息を吸い、寛は天井に向かって叫んだ。
「一本!」