1 晴れ、ところにより白いパンツ
佐藤航は高校生だ。
友達はたくさんいるし、身長が低いところを除けば顔立ちも整っていて容姿も悪くない。勉強もスポーツもそれなりにできた。
ここにもう一つある要素が加われば、世間でいうところのリア充になるのかもしれない。
リア充。つまり、リアルを充実させるために航に足りていないのは彼女だった。
航も高校生なので気になる女の子ぐらいはいる。航のクラスには美人が多かったが、その中でも特に航の目を引く美人がいた。
笹山千春。航の隣の席に座る千春は、雑誌のモデルをするほどの美人だった。おまけに千春は性格もよかった。休み時間になれば千春の周りには自然と友達が集まってくる。
仲良く友達と笑う千春は明るく元気で、控えめに言って最高だった。
休み時間が終われば、次の化学の授業は理科室で行われる。
航は理科室に向かうための階段を友達と一緒に上っていた。
航の前には千春がいて、千春も階段を上っている。千春はいつものように仲の良い友達に囲まれていた。
「俺も階段になって笹山に踏まれてぇ」
航の隣を歩く友人が呟いた。
「おい、声に漏れてるぞ。その気持ちは胸にしまっとけ。いつか捕まるぞ」
航は小さな声で友人をたしなめた。
類は友を呼ぶ。ことわざは本当だった。
スカートの中が見えるかも。
淡い期待を胸に階段を上っていた航だが、まさか本当に見えるとは思わなかった。
千春のパンツは白だった。白い足は芸術的な曲線を描いており、この世のどんな芸術よりも航の心を震わせた。
しかし芸術に浸る時間はなかった。なぜなら千春のパンツが見えたのは千春が階段でバランスを崩したからで、千春が今まさに航に向かって落ちてこようとしていたからだ。
そのとき航に思いついたのは2つの選択肢だった。
一つは落ちてくる千春を避けること。
もちろん航が避けた場合は、千春は階段の下に落ちてケガをするだろう。
もう一つは――
考える時間なんてなかったに等しい航がとっさにとった行動は、落ちてくる千春を受け止めることだった。
しかし残念なことに航は細身で筋肉質ではなかった。身長だって背の高い女子と同じぐらいしかない。
千春は女子にしては身長が高いほうで、ほとんど航と同じぐらいの身長だった。体重だって航とそう違わないだろう。
だから航が落ちてきた千春を受け止めて、自分も落ちないように階段で踏ん張るなんて芸当は、質量保存の法則だか落下の法則だかが許しはしなかった。
航は受け止めた千春もろとも落下した。千春からはふんわりと良い匂いがして、つかの間、航は自分が落下していることを忘れそうになった。
千春の下敷きとなって階段の下に落ちた航は、頭を強く打って意識を失った。
航が目覚めると、その視界にまず真っ先に飛び込んできたのは白い天井だった。
床に打ちつけた後頭部がズキズキと鈍く痛む。
上体を起こして辺りを見回すと、航は自分が保健室のベッドの上にいることがわかった。
ベッドの隣にある丸椅子に女子生徒が座っている。スカートから伸びた白い足には見覚えがあった。
航が起きたことに気づいて、女子生徒がスマホから顔を上げる。やっぱり千春だった。
「だいじょうぶ?」
千春に尋ねられて、航は小さく頷いた。大きく頷くと後頭部の痛みがぶり返しそうで怖い。
「なんで俺は保健室にいるんだ?」
航が尋ねると、千春が説明してくれた。
階段から落ちて頭を打った航は意識を失ってしまった。そんな航を、航の友達が保健室に運んでくれたらしい。
「なるほど。それでなんで笹山も保健室にいるんだ?」
あんまりジロジロ見ると問題になりそうなのでやめておいたが、航が見たところ千春にケガはなさそうに見えた。
保健室の壁にかけられた時計の針は、すでに次の授業が始まっていることを指し示している。
千春は柔らかくほほ笑んだ。
「佐藤が心配で付き添いしてたんだ。ねぇ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、質問してもいいかな?」
「いいけど、なに?」
「佐藤は階段から落ちてくる私を助けようとしたの? それとも落ちてくる私を避けられなくて下敷きになっちゃったの?」
航は瞳を閉じて意識を失う前のことを思い出してみた。
千春を助けようとした気がする。でもそれを千春に伝えると、なんだか恩を着せようとしているみたいでダサい。
そこで航は千春に嘘をついた。
「避けられなくて下敷きになったんだと思う」
千春は、ふーん、と航の真意をたしかめるように航の瞳をのぞき込んだ。
こうして面と向かいあっていると、千春の顔の造形の素晴らしさがよりはっきりとわかる。
美人は見ているだけなら楽しいが、見つめられると緊張してしまう。
見つめあうことに耐えられず、航は千春から目を逸らそうとした。
そんな航に向かって千春が拳を突き出してきた。
航はとっさに顔を逸らしたが、そうする必要はなく、千春は拳を寸止めしていた。
驚いた航はしどろもどろになる。
「い、いきなりなにすんだよ! 俺が笹山を助けようとしなかったことが、そんなに悪いことなのか?」
「ちゃんとかわせるじゃん」
千春は目を細めて疑うような目で航を見ている。
「さっきの私のパンチに反応できるんだったら、階段から落ちてくる私を避けることもできたんじゃない?」
「それは……」
航はどう答えていいかわからず口ごもった。
そんなに「千春を助けようとした」と言って欲しいのか?
「そんなの別にどっちでもよくないか?」
うやむやにしようとした航に、千春は唇を尖らせた。
「だって、『ありがとう』か『ごめん』か、どっちを言えばいいのかわからないんだもん」
ありがとう? ごめん? なにを言ってるんだ?
首をひねる航を見て、千春は子供に話すようにゆっくりと説明する。
「もし佐藤が私を助けようとしたのなら、『ありがとう』って言うのが正解でしょ? もし避けられなくて私の下敷きになったのなら、『ごめん』って言うのが正解じゃない?」
航はふむと頷くと、顔の前で指を2本立てた。
「だったら、『ごめん』を2回だな。さっき俺を殴ろうとしたフリを含めて2回謝ってくれ」
「本当に『ごめん』でいいの? 『ありがとう』の場合は特別なお礼もしてあげるんだけどなぁ?」
「特別なお礼?」
「そっ。お・れ・い」
千春がにやにやした顔を、航の顔に寄せてくる。明らかに千春は航をからかっていた。
航は千春から距離をとるために後ろへ下がった。
「近づいてくるなよ!」
「近づかないとお礼できないでしょ?」
だからなんなんだ、そのお礼って?
後ろに下がった航の後頭部が壁にぶつかる。階段から落ちて痛めたところに鈍い痛みが蘇った。
「ごめんごめん、だいじょうぶ?」
心配した千春が、頭を抱えて痛がる航の顔をのぞき込む。
「だいじょうぶだから近づいてくるなって」
航は千春の肩にそっと触れると、近づいてくる千春を優しく制した。
「本当にごめんなさい」
すまなそうに謝る千春の気持ちは本物のようだ。航としても別に千春に対して怒ってはいない。
千春はよく人をからかうが、それは人をバカにするようなからかい方ではなくて、イタズラ好きの子供がするようなからかい方だった。からかわれても別に腹は立たない。
「もういいよ。3回も謝ってもらったから、もう十分だ。それより笹山のほうはケガはなかったのか?」
千春が元気よく頷く。
「うん、佐藤のおかげでね!」
ここまで素直に感謝されると照れてしまって、どう返せばいいのかわからない。
保健室のドアが開き、保健室の先生が入ってきた。先生は航と千春の顔を交互に見ると、意味深に笑った。
「あら、お邪魔だったかしら?」
「その発言が邪魔です」
航が素早く切り返すと、先生は急に保健室の先生の顔になった。
「頭を強く打ったみたいだけど、その様子だとだいじょうぶみたいね。笹山さん、後は私が見ておくから、笹山さんは教室に戻ってくれてかまわないわよ」
「わかりました」
千春は軽快な足取りで保健室を出て行こうとしたが、保健室のドアの前で足を止めた。それから振り返って航の顔を見る。
「ありがとう!」
笑顔で航に言ってから、千春は保健室を出て行った。
千春がいなくなると保健室は急に静かになった。
「……だから感謝される覚えはないのに」
呟いた航の言葉を先生は聞き逃さなかった。
「いやいや感謝されて当然でしょ。佐藤くんが笹山さんを助けたんだから」
「俺は別に笹山を助けてないですよ。笹山が階段から落ちてきたけど避けられなかっただけで」
真顔で応えた航を見て、先生は噴き出した。
「あなた覚えていないの? 笹山さんから聞いた話だと、佐藤くんが笹山さんを助けようとしたことは明白だけど」
航は首を傾げた。
「笹山はどんな話を先生にしたんですか?」
「佐藤くんが落ちてくる笹山さんを受け止めた。佐藤くんは左腕で笹山さんのお腹を抱いて、右腕で笹山さんの頭をかばって、階段の下に一緒に落ちたって。あなたが笹山さんを助けようとしたのは明白でしょ?」
航は舌打ちをした。
笹山のヤツ、知っててからかってたのか。ていうか、俺はそんなキモいことをしたのか。
先生が意地悪く笑う。
「佐藤くんも頭を打ったかいがあったんじゃない? 学園のマドンナの笹山さんを一瞬とはいえ抱きしめられたんだから」
「あいにくその記憶がなくて、残ったのは頭の痛みだけなんですけどね」
航はため息を吐いた。
そこで、はっと思い出す。
いや待てよ。そういや俺は笹山のパンツを見た。
よし。今日はこれで決まりだな。