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蛇は卵を呑む  作者: 荒野ヒロ


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8/23

アリスの変化、災いの予兆

 翌日、朝食を用意し、昼の下ごしらえをかねた作業をおこなっていると、皿を下げにアリスが調理場にやって来た。

 少女はいつもと同じく前髪で目が隠れていたが、その様子を一目見ただけで少年は、何か奇妙な違いに気がついていた。──だがそれがなんなのかは、このときの少年にはわからない。


(なんだろう? 機嫌がいいのかな?)


 少女の様子がいつもよりも明るい気がしたのだ。


「おいしかったです。ごちそうさま」

「ん? ああ、うん」

 皿をかたづけた少女がいつの間にかそばに来ていて、びくっと体をこわばらせる少年。

「えへへ──」

 少女は愛想よく笑いかけてきて、少年は驚いた。いつもはびくびくしながら足早に去って行くのに。

 すると少女は甘えるみたいに彼の体に抱きついてきた。

 そのとき最初に感じた違和感に気づく。


(そうか、体の汚れがないんだ)


 髪はいつもよりも綺麗になっていて、湯浴みをしたあとのようだった。


「どうしたの? なんか……機嫌がいいね」

「うん」

 少女はまだにこにこと笑っている。

 その様子に彼は、少女の豹変ぶりに気味の悪いものを感じた。──()()()()()()──少年はそう感じていた。


(いや──、まさかこの子……)


 ティートには彼女の変貌に思いあたるものがあった。


「きのうのお菓子、おいしかった──」

「あ、あれね。うん、ベグレザで習ったフェルテ・ビスカ(ジャム入り焼き菓子)っていうお菓子なんだ」

「ベグレザ? ふぅん……そうなんだ」

 抱きついている少女から離れようと、ティートは彼女の小さな肩をつかむ

「これから下ごしらえしなきゃ」

「そう……またね」

 少女はそう言って、去りぎわに手を振って調理場を出て行く。

 なにやら色っぽく手を振って。


(もしかしてあの子は……)


 彼女は明らかに()()()()()()()()()()だった。

 そうした人格の変貌について、少年はかつて魔法を学んだ学校での授業を思い出す。




 それは魔術について講義していた講師が、人間の精神──霊的現象の一つとして説明していた──の変容について説明していた記憶。



「人間の魂には、本人の意思とは異なる、べつの人格が宿ることがある。それは高度な魔術師が、その被術者を対象にした魂の転移や、転生などが影響しているとされる場合もあるが、こうした魔術の力がなくとも、一人の人間の中に複数の人格が生まれるということは十分にありえる。

 錬金術師にして霊学の先駆者レァミトゥス(ラミテウス)によれば、凄惨せいさんな体験をした人間──とくに幼少期にそうした体験をした者には、いくつかの人格が内在しているような『魂の分裂』とでも言うべき状態になることを実例を挙げて説明している」



 少女の変貌ぶりがなんなのか正確なことはわからない。しかしティートは先ほどの少女の様子を見て、得体の知れない不安がわき起こり、心がかき乱されるような気持ちになったのである。

 少女が凄惨な体験をした可能性はある。彼女は娼館で働く──あるいは奴隷として売買される存在なのだ。

 アリスと呼ばれるしょうじょには、よからぬうわさもつきまとっていた。その本当のところはわからない。──しかし、少年の心に飛来した不安は、彼の洞察力がそのうわさを「真」だとしている。

 あの少女の変貌ぶりは──まさに、べつの人格が現れたのだと感じていたティート。


「アリス……きみは──」


 少女が去って行ったドアを見ながら、少年はつぶやいていた。


 彼女の中に生まれた人格──それが発生した理由を想像すると、彼の心は苦悩にさいなまれた。

 どんなつらい思いをすれば、自分の心を守るために複数の人格に分かれるというのだろうかと。

 魔術師ではない彼には、それ以上の判断はできなかった。本当に少女の中にべつの人格があるのかも、彼の感覚が「そうだ」というだけであって、事実ではないかもしれない。




 昼になるとメビル婦人が娼館に帰って来たという報告があった。──商人が裏口から来食材やパンを受け取り、次回に届けてもらう食材を注文しているときのことだった。


 婦人はだいぶいらついている様子で、周囲の護衛たちも迂闊うかつに対応できないほど荒れていたらしい。

 これは近寄らないほうがよさそうだ、そんなふうに考えていたティートだったが、彼女からお呼びがかかってしまう。

 少年は恐る恐る彼女の部屋に行き、護衛の横を通り過ぎて部屋の中へと入って行く。


「なんでしょうか」

 少年はびくびくしながら相手の様子をうかがったが、話に聞いていたようなぴりぴりした様子はない。

「今日の昼食はいらないわ。夕食は『孕み鶏米詰めベレトゥアリ風』を作ってちょうだい。鶏肉はこちらで用意した物があとで届きます」

 そう言うと彼女は「焼き菓子ありがとう、美味しいわ」と付け足した。


 指で焼き菓子をつまみながら言った婦人。

 その様子から、彼女はかなり──隠してはいるが──ご立腹なのだと感じた。


 ティートの洞察力は、相手のちょっとした身振りで感情がわかるくらいには精度が高い。なんなら体調すらも把握してしまうくらいだ。

 女主人の怒りが何に対する怒りなのかはわからないが、少年は黙って部屋を出て行き、昼食のしたくをするために調理場へと戻ることにしたのである。

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