アーヴィスベルを語る二つの文書
アーヴィスベルに関係する時代の異なる文書から、街の実態がそれとなく伝われば。
『エフトス神官の慚愧』とは、ある実在したレファルタ教の神官を題材にした戯曲だと言われている。
この戯曲の主人公はエフトスとなっているが、現実にいた人物の名は「ローレン」とされている。
もちろん戯曲内の宗教も、その神官の名前も、すべて実在しない名称に変更されて発表されたのである。
だがアーヴィスベルでは、この「神官の堕落」に関する話は、公然の事実として知られている。
哀れな神官の名誉を踏みにじるような話を事細かに語るのはやめにして、簡潔に、率直に語られていることを説明しよう。
それは十数年前のこと。
血気あふれる経験豊富な神官がアーヴィスベルにやって来た。彼はここ悪徳の街に教会を建て、不純な人々に悔い改めるよう訴えて、法の神への真実の信仰に導こうという、熱い想いにかられていたのだ。
彼は小さな教会を建てた。──それは、ほったて小屋よりはいくぶんかマシ。程度の物だったらしい──
そこで説法を説こうとしても、だれも彼の教会を訪れない。……当然だった。この街のだれが神というものをありがたがるだろうか。
弱い者を踏みにじる連中の集まる場所で、踏みつけにされた者が──。その理不尽を受け入れてしまった者が。神などという偽りを信じるはずがなかった。
ローレン神官はきづいた。
彼らと同じような振る舞いをしてなお信仰心に導かれる、彼の高潔な魂を見れば、愚かな行為にふける彼らも心を入れ替え──法の神という、神聖にして完全無欠な魂の幸福を与えてくれる神を信仰するに違いないと。
彼はその日から、街のあらゆる住人と積極的に会話し、彼らの日々の生活行動をまねた。
月に数回開かれる闘技場での殺し合い。──そこでおこなわれる賭けごと。
裏でおこなわれる闘技での賭けにも参加した。──そこでは非公式ゆえの残酷な、凄惨な戦いがおこなわれることもあったという。
売春もおこなった。
気づけば麻薬にも手を染めていた。
安酒と危険な薬と、女と──ときには少年を相手にもした。
ローレン神官はもう──わからなくなっていたのではないだろうか。
自分が何を信仰していたのかを。
腐敗したこの街で、その営みの真実を飲み込んだ神官。
彼はこの街に来る前に、こんな言葉を同僚に話していたという。
「たとえどのような悪が待ちかまえていたとしても、私の信仰の炎で必ずや、その悪を打ち負かしてみせましょう」と。
いつの間にか、彼が建てたはずの教会は燃えていた。
火の手が上がったときに、教会からはだれも出て来なかった。
火の手がどこからあがったのか、それはおそらく神官がつけた──燭台の蝋燭からだろう。
しかし、教会が燃え落ち、中にいるだろうと思われた神官はいなかった。
燃えた瓦礫の中からは、だれの死体も見つからなかったのである。
ローレン神官の姿は、その後だれも見ていない。
この街に関する言葉でもっとも古いと思われるものに、スコービム卿の言葉がある。
彼は四十以上年も前に、この街の管理を任されていたシャルディム国の貴族だ。
その当時からこの街は、悪徳と享楽の街として栄えており、歪な形を形成しながら発展していく様は、奇形を持って生まれた人体に喩えられられることもあった。
この街の外壁は三度にわたって造り替えられており、そのたびに壁が取り壊されたり、あるいはそのまま残されたりもした。
そうした街の構造を「奇形」と称した人物こそ、スコービム卿だったのだ。
戦争状態にあったブラウギールの領地を奪い、一時的にアーヴィスベルを統治、管理していたシャルディム軍の英傑スコービム卿は、この街についてこう言っている。
「肉体的奇形に罪はないが、精神的奇形とは、ぬぐいようのない悪である」
それはつまり、この街を造り変えるほどの権力を持った──街の支配者と呼べる人物が、彼以外にいた、という事実を物語っていると言われている。
精神的奇形という言葉は、街の住人のことを指していると同時に、それらを取り仕切る者の存在を案に示している。と考えられているのだ。
ディブライエとゼーア、二つの国へとつづく街道につながる場所にあり、海から遠い場所に位置する街。アーヴィスベルは、他国からの物資を流通する拠点として栄えた過去がある。
二つの隣国から外国人を誘致し、甘い誘惑と罠を用意している危険な街。それは多くの弱い人のみならず、各国の貴族すらも虜にする魅力があるのだろう。
ディブライエとゼーア以外からも足しげく通う貴族もいたくらいだ。
破滅的な享楽に溺れた者たちがどうなったか、それについては多くを語るまい。
そのような愚か者がなくなることはない。
どこの国であっても、どの時代でも、決してなくなることはないだろう。
それが人間の中にひそむ「悪」の証明だ。
恐るべき悪は人間の精神の中に根を張り、絶えることがない。
それは欲望の炎を燃やして人を傷つけ、やがては自分自身をも殺してしまう。
そのような仕組みによって人は生かされ、互いに憎み合い、殺し合う。
それを具現したのがアーヴィスベルという街だった。
スコービム卿が、この街の統治者としての立場を引退するときに言った言葉がある。
それはつぎのような言葉だ。
「アーヴィスベルは毒蛇のようなものだ。あらゆる卵を飲み込み、無駄にしてしまう。この街から生まれるものは邪悪なものであり、結果として災いしか残らない」
卵とは、これから生まれ、育っていくあらゆるもののことだ。
それを食べてしまう蛇はあらゆる生き物にとって危険で、邪悪な存在だと言える。
スコービム卿が言いたかったことは、卵のように蛇に飲み込まれたくなかったら、この街には近づくな、ということであったのだろうか。