少女アルテリス
その日は失意と不安の中で眠ることになったティート。
彼の寝泊まりする部屋が与えられ、娼館で暮らすことになってしまったティート。
危険な街の、そこそこ高級な娼館で、料理人として働くことになったティート。
彼はその日、めずらしく悪夢を見た。
うなされながら起きた彼は、すっかり打ちのめされていた。
この部屋には気の休まる要素が何もない。
鬱屈とした、まるで牢獄のような部屋。
粗末な寝台に小さな棚、それとテーブルと椅子が二脚。それだけだ。
窓も付いているが鉄格子がはめられ、それが余計に牢獄を思わせた。
彼は目が覚めると朝食のしたくに取りかかった。
自分の分だけではない。
娼館で働く小間使いや、娼婦たちの分も作らなければならないのだ。
調理場におもむく足が重い。こんなことははじめてだと、彼の気持ちはさらに沈んだ。料理をするのがおっくに感じるなど、いままでなかったことだ。
まさか賠償のために働かせられるなど、そんなことになるとは夢にも思わなかった彼。
みじめな気持ちを追い払おうと、彼は両手で顔をはたき、気合いを入れなおす。
調理場に向かうと、何やら少し騒々しい。
調理場のとなりにある食堂に、人が集まっていたのだ。
「ああ、きみが新しい料理人? やだ、すごく若いじゃない」
化粧をしていない娼婦らしい女がティートに声をかけてきた。
「きのうの料理、すごくおいしかった。今日の朝食も期待しているからね」
数人の肌の露出の多い女に囲まれ、ティートはわたわたと調理場に逃げ込んだ。
さすがにそこにはだれも入って来ない。──調理の邪魔にしかならないからだ。
朝早くから起きている娼婦は休日の女たちか、あまり人気がなく暇な者。もしくはこれから寝る者のどれかだ。
娼館の中は決まりきった時間など存在しない。
少年のついた仕事は「適当」に。──何ごとも適当に、なのだ。
ともかく料理に集中し、簡単な朝食用の献立の中から、いまある食材を考慮して、塩漬け豚肉の燻製と卵を使った料理。茹でた根菜に酢と香辛料を使った調味料をかけ、あとは焼いたパンを出した。
娼婦たちが食事を終えると、今度は小間使いの料理を出すティート。
彼女たちはすばやく食事を食べ終え、食器を召使いの小男に任せ、洗濯や掃除に向かって行く。
皿洗いは召使いの仕事だった。
自分の分の料理を用意していると、あとからやって来た一人の女が食堂に入って来た。
化粧を落とし、普段着の格好でいる女だったが、たいへん美しく、人目を引く薄い褐色の肌をした、容姿の整った美女だ。
「あ~、あなたが新しい料理人の人ぉ?」
その女は眠そうに、あくびを手で隠しながら言った。
少し湿った感じのする緋色の髪は肩まで伸び、湯浴み後の彼女からは、香油のほのかな香りがしている。
「朝からお風呂ですか」
ずいぶん贅沢なことだと思い、ティートは座った彼女の前に皿を出しながら言う。
「あはは、ちがうちがう。これから寝るの」
つまりこれは夕食になるのか? 少年は考え、もう少し皿を追加したほうがいいかと尋ねる。
「え? いいの? 助かる──。できれば魚介類がいいなぁ」
女はさらに注文までつけてきた。
「魚介……魚は──塩漬けのマスか、アジの干物くらいしか無かったですね」
「う──ん、じゃあ塩漬けマスで。そのまま出さないで、何か工夫してね?」
さらに美女は注文を付け足した。
この国の人間ではないせいだろう。彼女は料理にも美味しさを求める類型のようだった。
「あたし、サラシェルル。サラかシェルって呼んでね」
「ぼくはティート」
サラの自己紹介に答えると、すぐに調理にかかる少年。
食堂から見ていたサラも驚くほど手際よく魚を捌き、開いた身に卵や小麦粉を付け、フライパンに油を引いて揚げ焼きにする。
「ロイセン風衣焼きか──」と、食堂から声をかけるサラ。
「よくご存じで」
「まあね──」
二人が仲良くしていると、食堂の入り口が開き、例の少女──アリスが顔を見せた。
「あ──おはよう、アルテリス」
「お、おはようございます……」
少女はびくっと体をすくめ、小声で返事をする。
「アルテリス?」
少年は準備していた卵黄と酢を使った調味料を皿に添えて、焼き上げた魚料理をサラのもとに運ぶ。
「この子の名前──あっ、ごめんねぇ。その名前はメビルに禁止されてるんだった」
どうやらアリスの本名がアルテリスというらしく、その名前はなぜか人前で使うなと厳命されたらしい。
「アリスの食事も用意するから、少し待ってて」
ティートはそう声をかけると、少女の分もすぐに皿によそった。
そこでパンが無くなりそうだと気づき、どうしたらいいんだと、改めてこの職場の不便さに思い至る。
「正午前にいろいろな食材が届けられると思うよ。そこで欲しい食材を伝えておけば、早ければつぎの日には届けられるの」
サラは調理場のことについても知っていた。
彼女はその年齢に似合わず、この娼館のことを熟知しており、何より一番の稼ぎ頭でもあった。
「う──ん、おいしい!」
ロイセン風魚の衣焼きを口にしてサラは声を上げる。
幸せそうにほおばる彼女を見て、アリスは物欲しそうにしていたのだろう、サラはにっこりとほほ笑むと少女の分だと言って、魚の切り身を半分わけてあげたのだった。
そんな二人と共に食事をするティート。
サラから娼館の構造や、関わる人々について話を聞き、娼館の外部とやりとりする人も定期的に館を訪れるので、酒や嗜好品などもそうした人とのやりとりで手に入れるといい、と説明を受ける。
「ママから食材のお金をもらえるから、つぎも美味しい料理をよろしくね」
彼女はそう言うと少年のほほに口づけし、笑顔で立ち去って行く。
華やかな娼婦の口づけにどぎまぎしながら彼は、アリスが食べ終えた食器と共に自分の皿もかたづけ、洗い物を召使いに任せると、裏庭に出てみることにした。
少女は美味しい朝食に感謝すると、部屋に戻って行く。──その後ろ姿がどこか寂しげに見えたティート。
彼女の秘密の名前といい、周囲のいろいろな評判といい、あの少女には謎がつきまとっていると感じ、少年は言いようのない不安にかられてしまう。
この悪徳の街ではあのような少女ですら、男たちの慰みに使われるのだと考えると、この街の男に嫌悪を覚えるのであった。
調理場の裏口から出ると、敷地の外へとつづく道と、裏庭へとつづく簡素な石畳があり、少年は裏庭へ向かって歩いてすぐのところに井戸があるのを見つけた。
ほかにも野ざらしの桶や鍬なども壁に立てかけられていたが、収穫用の籠が無いのに気づくと、調理場の裏口横から、手提げの付いた編み籠を手にして、さっそく畑へと向かう。
畑にはトマトやレタス、タマネギやニンジンなどの野菜が植えられ、細々とした畝の様子を見ながら、収穫と水やりをおこなった。
こうして午前中は昼餉の準備のために畑仕事と、下ごしらえをすることになったのである。
その日の正午前に、調理場で下ごしらえをしていたティートのもとに、娼館の女主人メビルがやって来て、彼にこう告げた。
「いいかしら。──今日も商人が食材を持って来るから、そのときに料理に使う食材を好きに購入しなさい。お金はこちらからまとめて支払うから平気よ。
ただ、無駄づかいはしないようにね。調味料も──胡椒などは高いから、頻繁には買えないわ。一グラム四千テジン、それを五グラムまでなら許可します」
そう言うとメビルは少年にテジン銀貨を数枚手渡し、商人から購入できない物は、商店通りで買うようにと言った。
「あまり外をうろつかないほうがよろしくてよ。この街はあなたのような子供にも容赦を知らないのですからね」
そう脅すのも忘れずに、彼女は小さな紙切れをテーブルの上に置いて行った。
そこには希望する料理の名が記されており、どうやら彼女はパーサッシャの考案した料理に相当の思い入れがあるらしい。
「そのためには、いまある食材では作れないな」
それを理解していたからこそ、彼女は最初の食事に「カルティナ風牛肉の葡萄酒煮込み」を頼んだのだろう。
彼女はかなり『美食日々』を読み込んでいると思われた。
欲深い娼館の女主人は、館を訪れる男たちの欲望を満たし、そしてそこから得た物で、自らの愉楽を欲しいままにしているのだ。
この街の恐ろしさについて語られる言葉は千とも万とも数えられるほどに、多くの人々の口から語られ、またある人物は、ここで経験したことを紙に記したのである。
その一つを紹介するならば『エフトス神官の慚愧』が適しているだろう。