パーサッシャ著『美食日々』
少年が連行された場所は小綺麗な娼館であった。
前を堂々と歩く女性はいかにも支配人ぽい服装を着た淑女で、荷物を運んでいた男たちによって建物の中に押し込まれると、そこからは屈強な男に背中を押されるようにして廊下を歩かされた。
太い腕をした大男は、この店の用心棒か何かであるのは間違いなく、女性の指示に従って少年を奥の部屋まで、なかば強引に連れて来たのである。
その部屋は豪華な長椅子や机が置かれた部屋だった。
女性は少年を長椅子に座らせると、自分は机の椅子に腰かけ、そんなに緊張しなくても平気だと少年に言った。
「あなた、料理人なのかしら?」
唐突に彼女は言った。
「え、ええ……そうですが。なぜそのことを?」
「さっきあなたが落とした本。──あれは『美食日々』でしょう? グルーザフ・パーサッシャの」
「グルーザフ?」と、少年は首を傾げながら口にする。
「この国の言葉で『美食家』を蔑む言葉よ。……だいたい『食事に金を浪費する愚か者』程度の意味」
そもそも「美食」という考えがこの国にはないの。と──彼女は口にしたが、彼女自身は美食というものに興味があるらしい。決してパーサッシャを悪く言うつもりはなさそうだ。
「私は彼の──美食に対する熱意を尊敬しているわ。けれどこの国では、食事に質が求められることはほとんどないの。貴族ですら食事は味よりも量を求める連中がほとんどね」
彼女はそう言いながら机に肘を突き、あごを手の上に乗せて少年を見る。
「それで、あなたは──その本に書かれた料理を作れるのかしら?」
何やら腹の中に隠した様子でそう口にする淑女。
窓から差し込む光に照らし出された彼女は、厚い化粧で若作りしていたが、おそらく五十代手前の年齢だろう。
「作れます」
「どの料理を?」
即座に問いかけてくる女。
「それは──いちおう全部作ってみたことがあります」
そう少年が言うと、彼女は満足げな笑みを浮かべる。
「あなた、ここで働きなさい。大事な葡萄酒を台なしにした罰よ」
「そんな!」
反論しようとした少年をじろりとにらみつけ黙らせる。
「何年も働けだなんて言わないわ。賠償が済むまでよ。──実は、少し前に雇っていた料理人に不幸があってね、人材不足なの。パーサッシャの料理が作れる料理人なら間違いないわ。──まずは今晩の夕食に『カルティナ風牛肉の葡萄酒煮込み』を作ってちょうだい」
──こうして少年は強引に、娼館の料理人として働かされることになってしまったのである。
少年の名はティート。
いくつもの国を渡り歩き、さまざまな文化から生まれた料理を研究する、先進的な感性と行動力を持った若き料理人である。
その日の夕食前にまず彼がおこなったのは、献立を決めることでもなく、当然下ごしらえでもなかった。
まず彼は気持ちを落ち着けようと瞑想し、現在の状況と、どのようにしてそこから解放されるかを考えた。
彼はもともとユフレスクの出身で、あの国は魔法についての教育が盛んにおこなわれている。ティートもまた、魔法を学ぶ学校に入学していた。──が、彼はろくに魔法が使えなかったのである。
彼には魔力があったが、魔法を操作する技術における才能が、まったくと言っていいほど無かったのだ。──そのために彼は魔導具に頼らざるをえないのだった──
だが彼がここで考えていたのは、何も魔導具を使って逃げ出そうと考えているのでもなく。あるいはこの娼館の女主人を排除してしまおう、などと考えるほど、彼は非情にもなれない男だった。
彼がおこなったのは瞑想による内省だった。
魔法を学ぶ過程で古い魔術師の精神状況を管理する技術について学んだ彼は、瞑想によって波立つ精神に落ち着きを取り戻す、という手法を学んだ。
効果はほとんどなかったが、気休めにはなった。
どちらにしても、ここから抜け出したあとのことを考えないと、脱走のあとの仕打ちが怖そうだ、とティートは震え上がった。
この街から外に出るときにも身分証を提示しなければならない。──奴隷が逃げ出そうとしても、逃げられないようにするためだろう──娼館の女主人はそのことに触れ、ティートの名前を門番に知らせていると言っていた。
もし脱走するならば、正規の方法ではこの街を出ることは難しいだろう。
彼女はこの街で、かなりの地位にある女であると思われた。
「ああ、やはりこんな街、来るんじゃなかった」
彼の後悔は、この街流に言うのなら「売春宿に行ってからインキンを気にするようなもの」であった。
ともかく彼は、女主人から指定された料理と、そのほか十数名いる売春婦と、館で働く小間使いに対する食事を用意しなければならなくなったのだ。
食料庫を見ると女主人が言ったとおり、よそでは見られないような品質の良い食材が集められていた。
「こんなクソみたいな国でも、ちゃんとした食材が流通しているんだな」
彼は料理人として、もっとも口にしてはいけない言葉を使ってブラウギールという国に悪態をつく。
働くにあたって女主人は、いくつかのことを彼に約束させた。
「いい? 逃げようなんて思わないことね。この街ではあなたのような異国人を追跡するなんて、目の見えない男ですらできることよ」
娼館の女主人──メビル婦人──は、その冷たい声で少年の心を萎縮させると、つぎににっこりとほほ笑む。
「大丈夫。約束しましょう。新たな料理人を見つけるまで、あなたには一月ほどここで働いてもらいます。給金も出しましょう。──もちろん葡萄酒代分は引かせてもらいますけれどね
あなたの望む物はなんでも──食材以外にも、調味料に酒類、紅茶でも。──そうね、女が必要だというのなら、それも手配するわ」
彼女はいかにも娼館の女主人らしい冗談を口にし、唇の端を歪ませる。
「そしてもう一つ。ここには何人かの少女もいます。その子たちにも食事を用意してほしいの。──できれば彼女たちには立派な淑女に育ってほしいから、美味しいもの、お菓子なんかも作っていただけるなら助かるわ。
──ああ、くれぐれも、その子たちには手を出さないでくださいね? ほかの女であれば、相手の許可があれば許します」
少年はその言葉をげんなりとした気分で聞いていた。だれが淫売を相手にするか──といったことではなく、彼は初心な質だったので、とてもではないが、商売女を相手にする度胸はなかった。
食材に関しては、正午前に館の裏口から訪れる商人から購入しなさいと言われ、お金は館のほうで精算すると教わった。
「裏庭にある畑にも、いくつかの野菜は植えてあるから、それらも使うといいわ」
メビルはそうも言っていた。
ともかくティートは夕食のために気持ちを整えると、食材を食料庫から集め、調理場へ運んだ。
そこには一人の召使いらしい小男がいた。その男はティートが調理場に入って来ても一言も声を出さず、目配せだけをして軽く頭を下げる。
調理を補助する者がいると聞いていたが、あまりあてにはならなそうだ。彼はそう考えると、まずは女主人メビルの注文どおりの品を作る下ごしらえに入った。
牛肉を葡萄酒に漬け、香草とたまねぎなどの各種野菜を刻んだものも加える。
牛骨から取った出汁を用意しつつ、ほかの料理の準備もするティート。その手ぎわの良さに、召使いの小男はまったく手を貸す暇がない。
実際のところ、彼が手を貸したいと思っても、ティートは下がっているように言っただろう。
こと料理に関して少年は、まったくぬかりがないのだ。
どんな環境でも食材と調理器具さえあれば、全力で美味しい物を作り出すための開閉器が入る。
その働きは三人の料理人がやる仕事を、たった一人でこなしているのと変わらなかった。
調理場から建物の外にまで、香ばしい匂いがただよっていた。
一階にいた娼館で働く者たちが調理場に集まって来ていた。その中にはまだ年端もいかない少女も数名顔を覗かせている。
「いいにおい……」
開いたドアから調理場を覗き込む女たち。
料理人は彼女らのことなど気にもせず、小さな鍋葡萄酒に漬け込んだ肉を煮込みはじめる。
すばやい手ぎわで大きな鉄鍋をかき回し、火加減を調節すると、べつの浅鍋を取り出し、数十個分の卵をかき混ぜながら焼いていく。
そんな具合で数十分もすれば、調理場の上にはいくつかの料理ができあがったのである。
美食家パーサッシャは『魔導の探索者レギの冒険譚』にも登場しました(かなり異質な形で)。
この物語の中でもいくつもの細かな伏線があり、幾人かの思惑が絡み合って物語の終局に向かいます。
だれがこの街に災いをもたらすのか? そのあたりも楽しんでいただければ……