失神
「すばらしい料理だった」
ブロッソン伯爵は満足そうにティート話しかけた。
少年は食後の乾酪と葡萄酒を伯爵に、アリスには少女のために特別に用意した果物を使った生菓子を出した。
ティートが皿を少女の前に差し出すと、意外なことに少女はにっこりと親しげにほほ笑み、彼を驚かせた。
(──そうか。「希望」が表層に出てきたのか)
少年はその振る舞いからそう考えた。
怯えていたアリスが、いまではどこか堂々としているようにさえ見えたのだ。
「ありがとうございます」
ティートは伯爵の賛辞に応えながら、伯爵が何を持っているかを探り、これから何をするつもりなのかを、その示唆となる情報を得ようと観察していた。
「その若さでこれほどの料理が作れるとは。いやはや、メビルの言うように優れた才能をもっているな」
「もったいないお言葉です」
少年はこんなときに返す常套句を口にしたが、本心はまったく違うことを心に思い描いていただろう。
ぶくぶくと太った者の味覚が、濃い味付けと脂さえ入っていれば、旨いと錯覚するのを何度も見てきたからだ。
「ぜひうちの料理人として雇いたいところだ」
「お言葉はありがたいのですが、私はこれから別の領地へと向かわなければなりませんので」
そんな具合に伯爵の言葉をなんとか、やんわりと回避する作業がしばらくつづいた。
嘘を並べ立てたのではなく、彼の目的が大陸中の料理を調べることにあったのだから。旅をつづけることに意味があるのだ。
すると伯爵は何かを思い出したらしく、それ以上ティートに迫るのを止めた。
伯爵の豹変ぶりに不気味なものを感じた少年だったが、彼もその反応に自分のやるべきことを思い出し「調理場に戻ります」と、頭を下げて食堂を出て行く。
地下室を確認し、もし伯爵が危険な魔術の準備をしているようなら、なんとか逃げ出さなくてはならないのだ。
ティートは焦っていた。
すぐにでもこの館を出て逃げ出したい気分だった。
少年の直感が、伯爵が危険な人物であると警告している。
できるならアリスの手を引いて食堂から出て行き、そのまま館からも脱出したい気持ちだった。
彼はその気持ちをぐっと抑え、まずは階段横にあった鉄の扉を調べてみることを考えたのである。
破滅的な予感に彩られた廊下を歩き、ティートはひっそりと階段横の扉の前に来た。
手には小さな角灯。
背中には鞘に収まった刃物を隠し持った。
小さな刃が果物の皮をむく以外になんの役に立つかはわからなかったが、少年はそんな小さな刃物を頼りにするくらいに、この場所を恐れていたということだろう。
扉には鍵がかかっていなかった。
これからすぐに使う予定があるということなのか。
鉄の扉は見た目ほど重くはなく、音もなく開いた。
少年は角灯に火を点すと、狭い階段を下りて行く。
扉のすぐ先は下へ向かう石の階段と壁に囲まれていた。
冷たい空気が下に向かうほど強くなり、圧迫感から息が苦しくなる。
少年は暗い地下室にたどりつくと、その先にある金属製の扉を見つけた。
「空気が……重い……」
角灯の明かりのせいか、扉の表面が濡れているみたいにいくつもの色に変化し、少年の恐怖をあおる。
鍵のかかった扉だったが、小さな部屋の中を探ると、壁に小さな鍵がかけられており、それで扉の鍵をはずすことができたのだった。
少年は意を決すると扉を押し開け、暗い部屋に足を踏み入れた。
そこは天井も高い奇妙な場所。
石床をじりっじりっと歩き、角灯の明かりで周囲を照らしながら慎重に進む。
数歩進んだ先にそれはあった。
黒い塗料で描かれた魔法陣らしきもの。
ティートが魔法学校で学んだ魔法陣よりも遥かに細かく文字が書かれ、謎の呪文といくつもの交差する線を囲む複数の円。
「やっぱり……」
少年は気づかなかったが、その黒い塗料と思っていたものは、血が乾燥し、黒くなったものだったのだ。
間違いなく伯爵は邪悪な魔術に手を染めているようだ。
「逃げなくちゃ」
禁制品だという短刀にどれだけの力があるか知らないが、少年はこの場にただよう異様な臭いから逃げようと、扉のところに戻り──そこで後頭部を殴られた。
少年はがっくりと前のめりに石床に倒れ、手にした角灯の硝子が割れて火が消えた。
痛みよりも恐怖を感じていたが、角灯の火が消えるのを見つめながら、彼の意識もまた、暗闇の中へと落ちていったのである──
次話から急転。
ティートの運命が荒波に飲み込まれてゆく。