賢人
そうして三日が経った。
そのあいだ娼館は静かだった。
毎食の食事当番をこなし、食材や調味料を発注し、たまに街に出て買い物をする。──そんな生活を送っているティート。
悪名高きアーヴィスベルの街にも慣れ、少年はいくつかの店に出入りするほどになったが、危険な裏通りを使うことは決してない。
娼館の使いとして行くときはメビルの護衛を一人、つれ立って歩くこともあった。
路地を歩く者たちすべてが悪人というわけではない。
むしろ大通りを歩く者の多くは、アーヴィスベルの外部の人間で、ここでしか手に入らないような品物を求めて来る者。もしくは特別な娼館や売春宿を目的とした旅行客であり、それぞれの欲望を満たすために訪れた人がほとんどだ。
娼館で料理人として働くのが残り一週間を切ったころ、新しい料理人が調理場にやって来た。
メビル婦人がこの街のつてを利用して雇った人物だった。
彼は三十代なかばの男の料理人だったが、料理の腕も、料理に対する情熱も──ティートには遠くおよばない人材だった。
それでもメビルはこの料理人にある程度の調理技術を学ばせてほしいと訴えたので、少年はなんとか彼に、粗末な食材でもそこそこ美味しくなるような工夫について教えることにしたのである。
──しかし、自分より若い少年に教わるのが気に入らなかったのであろう、男はしだいにティートの指示に反発するようになっていった。
少年は忍耐強く、冷静に対処していたが、しだいにこの男の態度につきあいきれなくなり、メビルに実状を訴えて、男に料理を教えるのは困難なことを伝えた。
するとメビルは男に料理をさせ、その腕前をはっきりさせると言い出した。──娼婦に二人の料理をふるまい、どちらの料理が美味しいかを比較させたのだ。
結果はティートの圧勝だった。
この結果についてメビルは痛烈に男を非難し、まずは料理人としての技術を少年から学ぶよう厳命したのである。
こうしたごたごたもあったが、新たな料理人に調理の基礎を学ばせるくらいのことはできた。
そうして新たな料理人が訪れてからさらに三日ほど経ち、いよいよブロッソン伯爵の屋敷へ行き、料理を提供する日にちがメビル婦人から告げられたその日。
昼食を娼婦や小間使い食べさせたあとで、アリスが調理場にやって来た。
「やあ、今日は遅かっ……」
少女の様子を見て、その一目で異変に気がついたティート。
そこに立っている人物は、少女の姿をした──別の何かだったのだ。
「こんにちは。やっと会えましたな」
少女の声なのに、どこか威厳を感じさせる雰囲気がある。
少年はそれが「賢人」と呼ばれるアリスの人格だと、すぐに理解した。
「さてさて──いったい、何から話せばよろしいか」
少女の言葉には不思議な響きがあり、それが聞く者の心に浸透するみたいな効果を発揮する。
「賢人、あなたに聞きたいことがいくつかあります」
そうティートが言うと、少女の中の「彼」が「ほっほっほ」と、老人のように笑う。
「そうですか。『希望』が言っていたとおり、あなたも特殊な『目』をお持ちのようだ。一目見て相手の内面を見透かすような──。ああ、そういえばあなたは、魔術の知識があるのでしたな」
少年はすぐに二人分の食事を用意した。
食堂に皿を運びながら、どうしたらアリスを救う手助けができるか、賢人はどのような考えを示してくれるのか、そのあたりを尋ねようと考える少年。
「ありがとう」
料理を差し出された賢人が言った。
彼は紅茶を用意し、フォークやスプーンも用意している。
二人は向かい合って席に着き、食事をはじめた。
外側がカリッとした円筒型のパンを焼き、真ん中をくり抜いた部分に細かく切った腸詰めやタマネギなどを入れ、小麦を加えて牛乳と牛酪で味付けした物を注いで天火で焼いた料理など、一風変わった料理を食べると、二人は同時に紅茶を飲み、食堂は不思議な緊張感に包まれた。
「美味しかった」
賢人はそう言って、にっこりとほほ笑む。
少年は重々しく頷き、アリスについてどんなことを聞けるのかと身構えている様子を見せる。
「アルテリスは」と賢人は、前置きもなくしゃべりはじめた。
「アルテリスは本当に不憫な子供だ。かつては多くの仲間とともにすごしていた北の地から、このような場所につれ去られ、奴隷として買い手がつくのを待っている状態なのだから」
いったい何があったのか、ティートは自然とそう尋ねていた。
「彼女は大陸人からキオロス島と呼ばれる場所に住む、少数民族の出だ。雪深い山脈に多い場所に生まれ、海と山脈に閉ざされた土地に住む小さな集団の長。その娘の一人だった。
彼女には姉がいたが、海から奴ら──奴隷を捕らえる目的でやって来た連中に追われ、その途中ではぐれてしまったのだ」
アリスは奴隷商に捕らえられ、船で大陸につれて来られたのだと言う。
彼女がアーヴィスベルに来るまでにも、少女にとって過酷な状況がつづき、傷ついた彼女の中にはすでに多くの人格が生まれ、傷ついたアルテリスの意識は表面に出ることなく、眠りについたままだという。
「あまり多くは話せないが、アルテリスの中には危険な二つの人格が息づいている。それは実際のところ『魔女』に関わるもので、この人格は──アルテリスの出自に関係する、民族的な血筋の影響を強くもった人格と言っていい。
彼女の生まれたファナルーンという民族は、かつてキオロス島で猛威を振るった妖術師の子孫であり、島の南方にある緑地から追放され、北東部にある山岳地にまで追い立てられたのだ」
アルテリスの中に生まれた「魔女」は、そうした因縁から作られた人格ではないか、と賢人は説明する。
「魔女」は魔法を扱える人格でもあるらしい。
アルテリス自身はこどもゆえに魔法も魔術も使えないが、魔女はこうした技術にも精通し、その力はまだまだ弱くとも、危険な存在には違いないと言う。
「『鬼子』はそんな魔女の断片みたいなもので、アルテリスに危険が迫ると防衛本能が作動して、外敵を排除しようとする」
魔女と鬼子──この危険な人格はそれぞれの力で他者を支配したり、殺したりするのだと賢人は言い、どちらも警戒するよう言った。