「希望の子」の願うこと
ティートは考え込んでしまった。
アリスのことをよく知るには「賢人」との対話が一番いいはずだが、その賢人がいつ現れるかはわからない。
「賢人」は表に出ることも少ないのだと「希望」は言った。
紅茶を用意し、二人はそれを口にする。
「とにかくわたしは、アリスの自我が傷を受け入れ、元の状態に戻ることが一番だと思っています。けれど、それにあなたを巻き込みたくはありません。
──鬼子や魔女が外に出る危険がある状況で、まただれかが傷ついてしまったら……アリスもよけいに苦しむでしょう」
少年は頷きながら自分はどうすべきかを考えたが、答えなど簡単には出せるはずがない。自分の身さえ守れるかどうかわからないときに、他人を助ける余裕などありはしない。
少年はなんとかアリスの力になってやりたいと思っていたが、同時に恐ろしくもあった。
凶暴な人格が暴れ回る──狂性月なる現象についての報告を思い出し、彼は体を震わせた。
この少女が客にしたように、いきなり刃物で斬りかかってくる姿を想像すると、とても恐ろしくなる。──あの無表情な顔に、焦点の合わない目。またあのような状態になって、自分に斬りつけてくるかもしれない。少年ははっきりと恐怖を感じ、怖じ気づく。
「わたしはあなたのおいしい料理が好き」
希望の子はそう言ってほほ笑んだ。
「臆病なアリスも、おいしい食事のおかげで元気になれます」
それで十分だと彼女は言った。──弱々しい笑みを浮かべて。
そう話していると、裏口から召使いの男が調理場にやって来た。
アリスはすっと下を向くと、急にわたわたとあわてた様子を見せる。
「わわっ、わたし──?」
どうやら人格が入れ替わり、臆病な子が出てきたらしい。
「ごめん、食事はまだなんだ。食堂で待つ?」
ティートが優しく言うと、少女は首を横にぶんぶんと振って、調理場を出て行ってしまう。
その後ろ姿を見送った少年は、すぐに調理に入った。
「おはようございまーす」
「今日の朝食はなーにかな」
アリスが出て行くと、食堂のほうに娼婦が数名入って来て、お茶を用意したり皿の準備をし、朝食ができるのをいまかいまかと待っている。
朝食は豆を入れた卵焼きや、燻製肉に香草を使った蒸し焼き料理などが出された。
外国の一風変わった料理に舌鼓を打つ娼婦たち。
入れ替わり立ち替わりで娼婦が食事を食べ、小間使いと召使いが食事を食べ終わったあとに、アリスが恐る恐る食堂に顔を出す。
「ここで食べていくでしょ?」
ティートはそう声をかけたが、少女は首を横に振る。
「じっ、自分の、部屋で……」
彼女はそう言ってもじもじと体の前で手をにぎりしめる。
緊張しているらしく、少女はすぐにでも部屋へ帰りたそうにしている。
「そう──わかった。ちょっと待って」
ティートが気の毒に思うほど、少女は取り乱しているかのように見える。
客を斬りつけたことを覚えていないアリス。
しかし、心のどこかでは──彼女は「覚えている」のだ。
彼女の中にある人格。それらについて臆病な彼女は何も知らない様子でいるが、自分の記憶の欠落と、不可思議な感覚など──不規則なものが自分の中にある、と感じているはずだ。
少女の潜在的な怯え、恐怖は、自らの中に押し殺してしまった、自分自身の存在のあり方そのものが原因なのだ。
彼女の恐怖は、彼女を生み出した少女の恐怖であり──また、彼女は本来のアリスの影にすぎないのではないか、という本質的な恐怖に起因するのだと思われた。
少女はまるで、混乱した意識を抱えながら暗闇をさまよう迷子。
泣きたくなる気持ちからも逃げ出し、なぜ自分が泣きたい気持ちなのか、それすらも忘れようとやみくもに迷路の中をさまよい歩いているような少女。
アリスの精神を探るには、少年が持つ魔術の知識では──肝心な部分が抜け落ちた書物のように、役に立ちそうにない。
それだけはなんとなく理解しているティートは、朝食を食べながらぼんやりと、これからこの娼館を旅立つ前にやるべきことについて考えはじめた。
(この街からなんとしても出て行くんだ……)
少年は袖の下に隠した腕輪に触れ、その冷たい感触を確認した。
首から下げられたお守りとか腕輪とか、そうした物を隠し持っているティート。
ちゃんと意味があります。