もうひとりの「アリス」
嫌な予感を感じながら目を覚ますティート。
まるで霧に視界を奪われた状況で、複雑な迷路の中から脱出しようとしているかのよう。
空気も薄く、まるで溺れるみたいに呼吸が苦しくなり、そこで目が覚めた。
不安がまとわりつく部屋の圧迫感。それが悪夢を見せているのかと思えるほど、この部屋は狭苦しく──息が詰まる。
少年は二週間後には料理人の仕事を辞して、街を去ることができるのだ。そう考えるとやはり、アリスのことが気になりだす。
ブロッソン伯爵に引き取られた先で、彼女を苦しめるような生活が待ち受けているのだろうか。
そう考えると、少年は葛藤に苦しめられる想いにかられる。──小さな力しか持ち得ない少年には、どうしようもない問題だと理解しているが、それでも少女の行く末になんの希望もないという現実に、吐き気すら覚えるのだった。
(この街は腐っている)
多くの部外者がそうであるように、少年もまた似たような感想を抱いたわけだ。この邪悪な街に。人間の欲望によって退廃した街に。
悪党にとって居心地よい街。何もかもが狂った街。
この街にいる限り正常ではいられない。
ティートはやるせなさを感じながら寝台から起き上がると、調理場へ向かって行く。
するとどうしたことか、薄暗い廊下にアリスが立っているではないか。
少年は一瞬、血の気が引いた。
まさか──自分も前任者のように、殺されてしまうのか?
少年は恐怖やためらいを感じながら、首から下げた銀のお守りに触れた。
「おはようございます」
少女は丁寧に挨拶してきた。──その様子にアリスではないアリスなのだと、瞬時に理解する。
「や、やあ……おはよう。早いんだな」
この時間では調理場には召使いも来ていない。
彼は焦った。
いや、そんなまさか。
少年は嫌な考えを振り払い、調理場に入って行き、少女も中に招いて紅茶を準備すると声をかける。
「あ、私がやりますね」
明るく返事をするアリス。
ティートが火を熾し、アリスが薬缶に水をそそぎ入れる。
いつもの怯えた少女の動きではなく、はきはきと活動的に動く、まったく別人の少女にしか見えない。
少年は少女の後ろ姿を見ながら、疑惑が確信に変わったと感じた。──間違いない。彼女の中には複数の人格が宿っているのだ──
少女は水を入れた薬缶を手渡してきた。
長い前髪から少年を見つめるしぐさは、彼の知るアリスとは違う──別人のものだった。
「きみは、だれだ?」
少女は困ったように口元に笑みを作る。
「わたしはアリスですよ」
「いいや、違う。きみはいつものアリスではない。──ぼくにはわかるんだ」
すると彼女の笑みが少し歪んだ。
その表情は怒ったような印象を受ける。
「それは、変です。わたしは──たしかにアリスなんです」
ティートは頭を振る。
「いつもの臆病な、おどおどした彼女はどこへいってしまったんだ? きみはアリスの双子の姉妹? ──そんなわけないな」
「双子じゃありません。わたしはアリスの──病気になる前のアリスなんです」
病気になる前のアリス。
彼女はたしかにそう言った。
「そ、それはどういう……?」
「言葉どおりの意味です。表に多く出ているアリス──あなたが多く接触しているアリスは、表面上の意識のアリス。傷ついたわたしを守るために生まれた、幼いアリス」
それはつまり、アリスの意識が分裂し、いまここでそれを説明している人格もまた、元来あったアリスから分かれた人格だと言うのだ。
「もともとのアリスは傷つき、心の奥深くに眠りにつくように消えてしまいました。──いえ、まだきっと眠っているのでしょう。彼女は目覚めることなく、夢を見るようにわたしたちを生み出した……。そんなふうにわたしたちは考えています」
「わたしたち」と、彼女は言った。
どうやら複数のアリスは、互いに話し合うことがあるみたいだ。
そのことを尋ねるとアリスは曖昧に首を振る。
「話し合いができるのは一部の仲間だけ。きのうのようなことをする人格とは、話すことはできません。──止めることもできないんです」
「……きみらの中には何人の人格が存在するんだ?」
ティートはその問いを口にするのが怖かったに違いない。声は震え、にぎった手に汗がにじむ。
「わたしが話すことができるのは二人だけ。きのうの『鬼子』や『魔女』のことは『賢人』から聞いた話です。彼女らがしでかした行為について、わたしは直接知ることができないので」
「賢人? それはどのような人格なんだい?」
「別人格が起こしたことも把握し、世界のあらゆる事柄にもくわしい、頭の良い人です。アリスの中にいる人格の中で一番の大人の人、と言えると思います。──わたしは彼から言葉を、この国の言葉を教わりましたから」
この国の言葉──やはりアリスは北方の人間なのだろう。それは大陸の外にあるキオロス島の現地人という意味に思われる。
病気になる前のアリスがそのまま成長した姿。それがいまティートが話しているアリスなのだ。彼女は単純にアリスの自我というわけではなく、あくまでアリスから遊離した別の人格であるようだ。
──傷ついたアリスの自我はほとんど眠りにつき、あのおどおどした臆病なアリスが、多くの時間を生きているのだ。
「臆病なアリス。彼女も賢人と話せるみたいですが、わたしは彼女とは直接話したことはないんです」
ティートがいま話している人格は「希望」という名で呼ばれているそうだ。……このように育ってほしかった、そんな意味が込められているらしい。
「臆病な子」と「希望の子」──この二つは、アリスの本来の人格に一番近い存在だと言えそうだ。
「鬼子」と「魔女」については、その名の響きからしても危険な、恐ろしい人格であるのは間違いないだろう。
いまのところ五人の人格が交替でアリスの体を使用しているようだった。「交替」というのは正確ではないかもしれないが。──何しろ彼女らの人格が入れ替わる条件などはまったくわからないのだから。
「賢人と話せるかい?」
「それは──むずかしいと思います。こちらの呼びかけに答えられるわけではないので」
「賢人」はユング心理学の夢日記などで登場する「老賢者」的な無意識の知者。(それが人格として顕在化するとことはたぶんない──ファンタジーですよ)
ただアルテリスには部族(?)に関係する魔女の存在もあるので、そうした関係性もあるかも。




