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豹変する少女

 それから五日が過ぎた。

 メビル婦人からはなんの連絡もない。

 いつも夕食に希望する献立メニューを頼むくらいで、ブロッソン伯爵から依頼されたという、伯爵家でパーサッシャの料理を作るという話は出てこなかった。

 このままなかったことになれば、面倒を抱えずに街を去って行けるのだが。少年はそんなふうに考えたが、たぶんそうはならないだろうということも理解していた。


 昼食を作り、夕食のしたくをはじめようとしたころに、廊下のほうから悲鳴が上がった。──男の声だ。


 何ごとかと部屋から顔を出す人々。

 どこから聞こえてきたのかわからない。

 廊下に出たティートは嫌な予感に緊張した。


「バタンッ」

 ドアを乱暴に開けて、男が廊下に転がり出て来た。男は耳から出血し、手で耳もとを押さえているが、耳がそぎ落とされている。

「いてェ……いてぇよォ~!」

 そう言いながら開かれたドアから部屋の中を見て悲鳴を上げ、男はわたわたと逃げようとする。

 その部屋から出て来たのは……アリスだった。

 少女の手には小さな剃刀かみそりがにぎられ、血の付いた剃刀をぴくぴくと動かしながら、廊下を這うように逃げ出す男をゆっくりと追いかける。


「何ごとですか!」

 メビル婦人が二階から降りて来ると、娼婦たちが道を開け、その先にいるアリスと男の様子を見て──何かを悟ったようだ。

「アリス! 剃刀を置きなさい」

 メビル婦人の緊張した声が響き、護衛が慎重に少女へ近づいてゆく。

 片耳を失った男は逃げ出そうと必死だ。


 ティートは勇気を振り絞って少女の前に立ちふさがる。

 少女の目には彼の姿が映っていないようだ。焦点が定まっておらず、その眼球はきょろきょろと不安定に左右に揺れ動いていた。

 眼球の活発な動きは精神の危険な挙動の表れ、そんな言葉をレァミトゥスが残していたのを思い出す。


「だめだ! アリス!」

 少年は少女に呼びかけた。

 ──すると少女は、はっと我に返り、ティートがいることに気づいた。

「あっ、あの──どうかしましたか?」

 少女は血のしたたる剃刀を手にしながら、彼に向かってそう言ったのである。



 落ち着きを取り戻した少女は、まるでいまの出来事を覚えていない様子で、剃刀を持っていることに驚き、それを放り捨てる。

 メビルは少女をつれて部屋に戻すと、耳を失った男を捕らえるよう護衛の一人に言う。


 少女の部屋の中には男の耳が落ち、血が点々と廊下までつづいていた。

 娼館の中はすぐに静けさを取り戻したが、また例の少女が暴れ出した、といったことをつぶやく女たちの声が廊下のあちらこちらでささやかれ、それを耳にしたティートは、少女の変貌の裏にある闇を覗き込んだような気持ちになったのである。




 夕食を食べに来た娼婦たちのあとにアリスもやって来て、料理の載った盆を受け取ると部屋へ戻って行く。──その様子はいつもの臆病な少女の姿そのもので、元に戻ったにもかかわらず、少年の心は不安な気持ちで押しつぶされそうになる。


 メビル婦人に夕食を運んで行くと、少年はアリスを伯爵のもとにつれて行くのは止めたほうがいい、と忠告した。

「かつて防衛魔術の勉強をしていたときに『狂性月』といった話を聞きました。それはある未開の人々の集落で起きた話で、月が赤く染まるとそれに呼応して、人間が狂気にかられて人を傷つける、といった話です。

 それをある学者は月の魔力のせいにしましたが、そうではなく、その人間の精神──異常をきたした精神に、なんらかのきっかけが加えられると、凶暴な人格が表に出てくる。といったことを説明する学者もいます」

 女主人は「博学なのね」と言うにとどめ、少年が料理の才能のみならず、魔術についての知識もあるなんて驚きだと言いながら頭を抱える。


「けれどね、伯爵に逆らうことはできないわ。それなりの理由があるのならまだしも」

「彼女が伯爵を傷つける可能性だってあるんですよ!」

 それはわかっている。メビルは鋭い視線を少年に向けながら、そう訴えた。

「あの子に問題があるのは知っている。けれどそれを説明したところで伯爵は理解しない。話が通じる相手ばかりではないの。仮にあの子が伯爵を傷つけたとしても、私たちには罰を与えないと約束してくださったわ」


「一つ聞いてもいいですか?」

 少年は感づいたことがあったのだ。

 女主人はこれ以上話すことはない、といった雰囲気を漂わせていたが、少年はあえてつっこんで尋ねる。


「ぼくの前任であった料理人。その人に()()()()()()とおっしゃっていましたね。……その方はどのような不幸にあわれたのですか?」

 そう言うとメビルは大きなため息をついた。

 彼女は料理を一口食べると、ぽつりぽつりと話しはじめる。


「あなたの推測どおりよ。以前の料理人は、食事を受け取りに来たアリスを襲ったの、──状況から考えて。実際に何があったかなんて、だれも見ていなかったしね。

 料理人の叫び声も聞こえなかった。

 偶然に私と部下が館に戻って来たときに、あの子が──血に濡れた服を着たあの子が、調理場から出て来たのよ」

 それでアリスのしたことをだれにもばれないようにし、料理人は辞めて行ったことにして、すべてを隠蔽したのだという。


 それ以後、アリスの姿をみすぼらしく見せる服を着せ、顔も汚しておくよう言いつけるようになったという。

 アリスは顔を前髪で隠しているが、青い瞳の美しい少女なのだ。


「アリスには大金を支払ったのよ。だれの手に渡るにしても、できれば元を取りたいと思うのは自然なことでしょう。──たとえあの子が()()()()()()()だとしても」

「そんな……」

「伯爵に渡るのが危険なのはわかってる。もし万が一のことがあったら……しかし、ぜひにというあちらの要望よ、断ることはできない。──あとは祈るだけよ」

 もう行きなさい、というふうに手を振って下がるよう示す。


 アリスの未来についてティートがこんなにも心配する理由に、本人もなぜかはわからないでいた。なんでぼくはこんなにも、会ったばかりの少女を心配しているんだろう? そんなふうに自問自答する。


 その答えは──少年がまさに、彼女と同じだからなのではないか。


 この街にやって来て、いつの間にか囚われの身となり、恐ろしい街で生活しているという重圧。

 その恐怖を少女の中にも見ているからではないか。


 できれば彼女を助けたいという想いは、自分自身を助け、一刻も早くこの街から逃げ出したいという、彼自身の気持ち──

 少年はそう気づき、それでもなお、アリスをなんとか危険な状況から、せめて自分がこの街にいるあいだは守ってやりたいと、そう望むのであった。

アリスの危険な一面が明らかに。

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