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メビル婦人が交わした契約

 夕刻前にはじめて会う商人が裏口から入って来て、召使いの男がそれに対応した。──その人物はにわとりを一羽、布袋に入れて持って来て、料理人に渡すよう言うとすぐに帰って行った。


 それは中くらいの鶏で、すでに毛がむしり取られ、いつでも調理ができる状態になっていた。──腹の中に卵が入っているのだろう。おなかがふくれており、たしかに女主人の注文どおりの料理ができそうな食材だ。

 めったに扱えない上質な食材を前に、ティートはパーサッシャの調理法レシピをそのまま再現して作ることに集中した。──あくまでメビル婦人は、パーサッシャの料理を食べたいという望みがあるのだ。

 それを邪魔しない程度の小皿料理を用意することも忘れず、あとは大勢の娼婦や小間使いの分の食事を別途に用意しはじめる。


 少年はもう慣れたもので、いまでは時間の定まらない娼婦たちに合わせて、いくつかの保存食も常備しているくらいに、この職場になじんでいた。

 かなり時間をかけて「孕み鶏の米詰め」の下ごしらえをし、丁寧に表面の毛の取り残しを焼き切ると、内臓を取り出し、卵巣らんそうは下処理をしてから、各種みじん切りにした野菜と米とともに、おなかの中へ詰めなおす。



 この料理はピアネス国の小鳥を使った料理をパーサッシャ流(料理名にベレトゥアリ家の名前が冠されている)に再構成アレンジしたもので、卵を腹に抱えた雌鳥めんどりを調理するというこだわりが詰まっている。


 ティートは最高の状態で出せるように、メビル婦人の夕食の時間に合わせて鶏を茹で、天火オーブンで仕上げをするところまでしっかりと計算した。



 前菜や主食のパンもそれに合わせて用意し、調理し終えた料理を皿に盛りつけると、それを女主人のもとまで運んで行く。

 暖かい料理が運ばれて来ると、ドアの前に立っていたたくましい護衛が、ごくりとつばを飲み込んだ。

「どうぞ」

 部屋の中から声がするのを待って、彼は部屋の中へ入った。

 皿をいつものように机の横にある小さなテーブルに載せていく。


「すばらしい色合いね」

 彼女はうっとりとした様子でその料理の香ばしい匂いを堪能した。

「今日はあなたにお話があるの。──少し待ってもらえるかしら?」

 メビル婦人はやけに落ち着き払った声で言い、部屋の中に奇妙な緊張が広がった。

 この女主人もいくつかの問題を抱え、情緒じょうちょ不安定とまではいかないが、やるせない気持ちをおいしい料理を食べることで晴らそうと考えているみたいだ。



 どれくらいの時間、ティートは待たされただろうか。

 彼女は料理を半分くらいたいらげたところで、やっとテーブルから机のほうに向きなおった。

「美味しい。……本当に美味しいわ」

 女主人の賛辞に少年は「ありがとうございます」と返事をしたが、不安と緊張であまり喜べなかった。それほどまでに彼女の様子がおかしかったのだ。

 常人には気づかないだろうが、ティートの目には明らかに婦人の中にある、言いようのない感情──いらつきや、あこがれや、期待や不安が入り混じったような感情──を察し、彼は黙って彼女のつぎの言葉を待つことにした。


「いくつかお話ししなければならないのです。──そうね、まず。あなたはこのままいけば二週間後には、ここでの仕事を終了し、出て行ってかまいません。……私としては、あなたにずっとここの料理人として残ってほしいのですが」

 そう言いながら、彼女はそれは叶わぬ夢とでも言うように首を横に振る。

「約束どおり、出て行く前に給金を支払いましょう。──それともう一つ。少々やっかいな頼みを聞いてもらうことになりました」

 彼女はそう言って、悔しそうに唇をかむ。


「じつはブロッソン伯爵の夕食を一度だけ、作りに行ってほしいのです。──話の都合であなたのことを話さなければならなくなり、それを聞いた伯爵が、あなたの料理を口にしたいと希望されるので」

 なんとなく、彼には話の筋が見えた気がした。

 今日出された上等な鶏肉──あれは、ブロッソン伯爵が手配した物なのだろう。それを提供する代わりに、メビル婦人が目をかけている料理人の料理を食べさせろ、という取り引きが交わされたのだ。


 少年はほっとしたのもつかの間、今度はその貴族のもとで働けと言われる気がしたので、なんとかその要求を回避する手立てをいまのうちに考えておこうと決めた。

 いざというときに逃げ出すために、すでに街から出て行く馬車や荷車の下調べはしてあるのだ。

 彼はそうした抜け目のなさも持っているのである。──本当にいざというときは、なりふりかまってはいられないということを、少年は長い旅の中で学んでいるのである。


「まだ正確な日にちが決まっているわけではないので、しばらくは普段どおりに調理場に立っていてくれればいいわ」

「わかりました。しかし急ですね。──ブロッソン伯爵とはどのような人物でしょうか」

「いけ好かない豚よ」

 メビルははっきりと悪態をついた。

「奴は美食家気取りのクズよ。なぁにが『パーサッシャの料理ならわしも食うてみたい』よ。味もわからない肥満男が!」

 彼女は急に怒声をあげ、拳をにぎりしめる。


「しかも()()()()()()()()()ですって⁉ よりによってあの娘のことを……!」

 そこまで口にすると、彼女ははっとして口をつぐんだ。

「……ともかく、そうした用件ができてしまったの。伯爵はこの街を治める侯爵のつぎに権力を持っている人物。逆らわないことね」

 まるで自分に言い聞かせるみたいに話すと、調理場へ戻るように言う。



 メビル婦人の部屋から出ると、ティートは何やら胸騒ぎを感じた。──アリスが伯爵のもとへつれて行かれる……? 婦人はたしかにそうしたことを言っていた。


 それに兵士たちの言っていた「禁制品」という物も気になる。


 ティートは兵士と話していたメビル婦人の様子を思い出しながら、彼女の動揺は何か、よからぬ企ての中にいるかのような不安を表しているように思えた。

 少年はアリスのことが心配になり、できれば彼女を救ってやりたい気持ちがわいてきたが、それができないことは彼自身がよく理解している。

 ただの料理人の小僧には、荷が重いのだと。

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