3 フランツ・シューベルト『白鳥の歌』第四曲より――「セレナーデ」
夕暮れの雨の中を、僕らはレインコートを着て歩く。お母さんが雨で濡れた石で転ばないように、僕らは両脇に立って歩いていた。
「ねぇスノウ、なんだか今日は夜目が効かないの。だけどこの耳は冴え渡っているわ。あなたの演奏とっても楽しみにしているからね」
「うん」スノウはなんでもなさそうに頷いて、お母さんの手を引いて歩く。
やがて酒場に辿り着くと、もう賑やかなムードが始まっていた。大きなテーブルには見た子もないようなご馳走が並んでいる。空いていた席に座った僕たちは、簡単に挨拶を済ませてから席に着いた。すると僕らの元にグルタが近づいて来た。何やら思い詰めたような顔をしている。
「なぁレイン、村長を見てないかい? それとオルトの爺さんとフィル婆さん……あとそうだ、ロイドと、リズ……それから」
広い酒場のテーブルには、チラホラと空席が見えた。みんなどうしたのだろう。一抹の不安を覚えながら首を振ったお母さんを認めると、僕もまた同じようにして見せた。するとグルタは眉をしかめる。
「まぁ、このご馳走は無駄にはならないけどね。私が食べるから」
唸ったグルタはそのまま引き返していった。奥のテーブルにはセレナの姿がある。彼女はお爺さんと二人で暮らしていたのだから、とても不安なのだろうと思う。
それでもセレナはここに来た。他の人たちにしたってそうだ。僕らは夜会を始めなくちゃならないんだ。今日この日の夜会は、終戦を祝うだけの催しでは無いんだから。
長く美しい金髪を揺らし、フェリスが十八時の定刻と同時に席を立った。
「それでは皆さん。長き戦争の終結のお祝いと、死の霧の迫る、この夜を乗り越える為の夜会を始めます」
可憐に笑った彼女の音頭で、僕らはハーブティの注がれたカップを、大人たちは一杯のブドウ酒が入ったグラスを打ち合わせた。皿に手を伸ばし始めた僕たちは、嬉しさのあまりお母さんに笑いかける。
「すごいよ、こんなご馳走見たことがない!」
「いいのよレイン。今日はたくさん食べて楽しく過ごすの。それ以外のことは考えてはいけないわ。思い切り騒いで、食べて、そのまま眠るの」
……無理に元気を装いながらも、僕の指先は震えていた。
みんなの表情にも、不安の影が落ちているように見える。死の霧という目に映らない恐怖が、重く伸し掛かり始めたみたいだった。
張り詰めて来た緊張感は、誰かが、震える手で皿を落とした物音で、急激に高まった――
静まり返った喧騒。みんなが食事の手を止めた。お母さんが静かに泣き始めた事に気付いた。他にも泣き出しそうな人が大勢見える。だけど誰も、声を上げる事はしなかった。誰もがこの感情を、この恐怖を押し殺すしか他が無かった。
「……スノウ?」
そんな中、スノウは一人立ち上がった。
……去りゆく背中に僕はまた、ある筈の無い記憶を重ね合わせる。
スノウはすすり泣くみんなを一度見渡してからピアノの前に腰掛けると、ただ一音、確かめるように音を鳴らせた。
この身を苛む恐怖心に、今にも叫び出しそうになっていた僕は、震えるまつ毛の先に、スノウの姿を見る……
「こんなに暗い、闇の中でもキミは……」
心落ち着けながら、伏せた視線――その双眸が覗く先は、簡素なモノトーンの鍵盤。首元まで締めていたボタンを一つ外したスノウは、その小さな手で奏で始めた。
古の名曲――フランツ・シューベルト『白鳥の歌』第四曲より――「セレナーデ」
艶かしく動いた指先が、鍵盤を走り始めたその瞬間――
哀愁漂うメロディが、僕たちの胸に響き渡ったこの瞬間――
……灰色の情景が色を持った。
何処か感傷的でいて、されど優雅に波を踊るように、
悲惨に満ちたその生涯に、微かな希望があったと示すように、
静々と流れ去る哀しみより、微かな光が漏れ出している。
嘆きと残夢に打ちひしがれていながらも、
この生涯に悔いは無かったと、そう囁いているかのように。
その曲は、美と荒廃とを露わにした、祈りのような楽想だった。
「こんなに、上手だった? ……スノウ」
僕の握り締めた拳は小刻みに震え、肌を僅かに紅潮させる。
「…………っ」
何故、僕と同じ年月しか生きていない筈のキミが、キミの奏でる旋律が、僕らのまだ見ぬ、果てしのない人生の苦楽を理解している? キミから上るその色香は、どう考えたって、僕には無いものじゃないか。
どうしてなんだろう――僕たちは、ずっと一緒に居た筈なのに……
――僕は、ピアノを弾くスノウが、好きではない。
曲の中で流れゆくそのストーリーに身を委ねたスノウは、もう瞳を閉じていた。
己の指先さえ見ることも無く、古に果てたその生に没入していく。
――だってキミがそうしている間、僕は一人取り残されるんだ……
スノウは、その小さな手では、届かぬ筈の音符にさえ、懸命に食らい付いて音を奏でる。
僕らの頭に起きたこのイメージは、決して途切れることなく共鳴を続ける。
まるで俯瞰しているように、僕自身がそこで演奏をしているように、目まぐるしく視点を変えながら、僕は思う。
――この才能に返せるだけの何かが、僕には無い。
見渡すと、恍惚としたオーディエンス。頬を赤く染めた彼らの様相が、絶望から色を一変した時、僕は頬に熱いものが伝っていた事に気が付いた――
「置いて行かないで、スノウ……」
高尚なる祈りの余韻に打たれながら、熱狂渦巻いたホールで、僕は涙を拭った……。
スノウのピアノが、村のみんなを絶望の底からすくい上げた。僕はそれを、ただ指を咥えて見ている事しか叶わない。
*
お母さんとの抱擁を終えた僕らは、頭をかき寄せられながら告げられる。
「明日もきっと同じ一日が来る。頭の中でスノウのピアノを繰り返すの。そしたらすぐに眠りにつく。きっと変わらない明日が来る」
額にキスをされた僕らは、笑みを返して二階へ上がっていった。
寝巻きのボロに着替えた僕は、窓から遠くに見える石の壁を眺めているスノウの背中に話し掛けた。彼はまだシャツのまま着替えていない。
「すごい演奏だった。心から感動したよ。僕も村のみんなも、今日眠ることが出来るのはキミのお陰だ」
「眠る事が出来る……か」
スノウは黙々と着替えながら、少しぎこちない笑みを返した。そんな彼に、僕はまるで懺悔するかのように口を開く。
「僕は、キミの才能に返せるだけのモノを持っていない。僕らは二人で一人なのに、僕だけがキミに置いていかれて……」
僕の声に、スノウは振り返らずに答える。
「大丈夫。レインにはきっと、僕にできない事が出来るから」
「……僕にしか、できない事?」
そう残して、スノウがランタンの火を消そうと手を伸ばした時だった――
「ん――?」
ベッドに腰掛けた僕の膝下に、ひらりと宙をひるがえった小さな白い紙が、ボロの屋根裏の床を抜けて落ちて来たのだ。
「なんだこれ」
それは――年季の入ってボロボロになった、何者かによるメモだった。
「屋根裏から落ちてきた? ……何か書いてある」
「レインそれ……っ!」
そこに記された文字を読み上げていった僕は、こんな悪戯を思いついたスノウに振り返って笑った。
「はは、スノウ。なんだよこれ、趣味悪いよ」
「……っ」
微笑みは返って来なかった。代わりに突き返されたのは、硬直しきった彼の面相だった。様子がおかしいと思った僕は、もう一度そのメモを読み返してみる。そこに記されたインクは滲み、掠れ、所々の文章しか読むことが出来なかった。
『おかしい――村――――ノウは――』
スノウの様子が見た事も無いくらいに緊迫している事に気が付いて、僕は一度顔を上げて、また読み始めた。
『――繰り返して――、――何度も――』
正体不明のメモより漂うただ事でない雰囲気に、僕は滝のような冷や汗を垂らしながら、見開いた目で、微かに認識できる文章の最後を読み上げた。
『魔女の呪い。この村は狂っている』
そしてそこに記されている、このメモの筆者の名を、僕は確かにこの目にして――戦慄した。
『レイン・A・ウィンセント』
紛れも無いまでに既視感のある筆跡で、僕の名前が記されていた。
生唾を飲み込んだ僕は、引きつった笑みをスノウに見せた。……だがやがて僕は、僕が書いたらしいこの謎のメモ書きを、隠さねばならないという思いに支配された。スノウと僕の表情をここまで凍り付かせた、あまりに不気味で不謹慎なその怪文書を、間違ってもお母さんには読まれる訳にはいかないと。
「――レインッ!」
僕は走った。寝室を出て、急いで屋根裏へと続く小さな梯子を下ろし、我も忘れて駆け上がっていった。
……昔から隠し物はここに潜ませるというのが、僕らの習性だったから。
――だがその無意識下でのその決断が、僕を……僕らを、さらなる暗黒へと誘った。
「――これ……は?」
もう何年も立ち入っていない狭い屋根裏に上がった僕は、ギシギシと鳴る隙間だらけの床を歩いて、天井に吊るした小さなランプにマッチで明かりを灯した。何年も放置していて、点灯する筈の無かったランプにあっさりと火が灯り、そこにあるものの影を引き伸ばした時、僕は絶句する。
そこにあったのは……積み上げられていたものは――!
まるで記憶に無い。僕の記した怪文書の山だった……。
「なんだ、よ――コレっ!!」
強烈な記憶にあてられて、僕の中の断片が頭の中にフラッシュバックする。
――繰り返し、繰り返し、何度もここに来て、何回だってここに来て、何度も忘れてまた思い出して――それでも抜け出せなかった。僕の今日という一日の繰り返しを……
僕の短い悲鳴の後に、スノウは屋根裏へと上がってきた。こめかみを叩く指先、灯りに照らされ、神妙にも映る彼の表情……
その時、二十二時を告げる鐘の音が村に響いた。小さな窓の向こうから、僕の心情を表すかのような激しい雨音が聞こえて来る――
「また、思い出したんだね……レイン」
この屋根裏へと続く四角い暗闇が、まるで底の見えない深淵へ繋がっているみたいに思えた。