8 呑まれる事を選ぶ者、進む者、弾き続ける者
「ァっ――キサマ、何故――?!!」
僕らの見下ろした視線の先で、懐中時計がリセットの時刻――〇時二十一分三十二秒を越えた。
霧に灯った緑の眼光――周囲に逆巻いていた白い霧が、猛烈な勢いで地上のある一点に吸い上げられていくのが見えた。やがて霧が薄まり、そこにはひどく狼狽した霧の魔女の姿が映し出された。
「ソレハ――っ!? “魔導鏡”ッ!? 何故だッ、霧を封じるその鏡は私自らの手で完全に破壊した筈ッ!!」
声を出してよろめいた女王は頭を抱え込んで、その身を強烈に引き込もうとする引力に深く大地を踏み締めて堪え忍ぶ。するとそこでイルベルトは、彼女の神経を逆撫でするかの様に、宝石の砕け散った指輪を顔の前でヒラヒラさせてから、ハットの中に仕舞い込んでいった。
「それは――“妖精石”か!」
「ふぅむ、流石は霧の魔女……これはあらゆる物質を短時間のみ具現化する魔導具だ。それで喪失された魔導具を再現した」
激情する女王は歯を食い縛って叫び始めるが、魔導商人は余裕気に鏡に肘を掛けてもたれ掛かった。
「何故だッお前とティーダとの従属の契約はもう途切れている! 心を持たぬお前がどうして自発的な行動を……待て、お前の言った制約とは――まさかッ!」
風穴を背にしながら等身大の姿見を抱え込んだイルベルトが、抑え込み過ぎたハットのブリムをピンと指で弾いてそのエメラルドグリーンを露わにした。
「そうだ……制約より解き放たれた私は今、封印されていた自身の意志の行使をしている――」
彼の言葉を素直に認められないのか、剥き出した瞳を真っ赤にした魔女は声を荒げ始めた。
「自身の意志だと――ッ!? ふざけるな、貴様は空っぽの男だ! 姿も形もその意志も、私によって後付けされた人形に過ぎない! 貴様の内に、既に自我などというものは存在しない筈なのに――ッッ!!」
流石は史上最強の魔術師、その全盛期の姿と言うべきなのだろうか。怒りに任せて激しく霧を放散し始めた女王は、イルベルトの支える魔導鏡の猛烈なる引力にまで強く反発し、その需要量を超越するだけの霧を爆散させ始めた――景観が荒れて世界が渦に呑まれていく。木々も瓦礫も何もかもが、災厄の様な魔力の奔流に吹き荒れてイルベルトの身を激しく切り刻み始める。しかし不敵な魔導商人は、ひび割れた仮面の口元を瓦解させながら、ニタリと笑んだ口元で語るのだった。
「その通りだ。あの激しい闘争の中で、私の自我などとうの昔に擦り切れていた筈だった――」
「では、ナゼダ――!!」
「本当の私を、思い出させてくれる少女が居た」
霧の激流を鏡に吸い上げ続けるこの激しい嵐の中で――緑の眼光はしかとリズの方を向いていた。イルベルトは僕らに向けて声を荒げた。
「行け――!!」
一つ触れただけで消し炭になってしまいそうな魔力の波動を鼻先にして、腰を抜かし掛けていた僕らにイルベルトは呼び掛ける。
「もう保たない――走れ、風穴の向こうへと――!」
イルベルトの支える魔導鏡に亀裂が走った――霧の魔女の放出する激流はさらにさらにと極大に変じていって、この広い空を横断する架け橋の様にも見えた。
僕はリズの手を引いて全力で走った。がむしゃらに前だけを、闇に浮かんだあの風穴の向こうにだけ視線を投じながら全力で――!
過ぎ去っていく景色の中で…………僕らは背中に、魔女のか細く悲しそうな声を聞いた。
「待って……行かないで……お願いだから――」
――もう一度、ピシリとガラスのひび割れる物音があると、鏡の中へとイルベルトの輪郭が溶けていく様に見えた……それは彼の全身を作り変えていた女王の霧さえもが、例に漏れずに鏡に吸い上げられ始めたからだと気付いた。……けれど僕らにはもう、イルベルトの本来の姿を目撃する時間は残されていないだろう。
「頑張ってリズ――!」
無我夢中で彼女の手を引いて走っていると、リズがやや放心した様になったのに僕は気付く。けれどそんな事に構っている時間などは無く、僕らはこちらに向かって鏡を掲げたイルベルトと交錯して、彼の元を後にしようとした……
――その刹那の瞬間に、リズはイルベルトを眺めて言ったんだ。
「お父さん……っ?」
彼女の疑念をこの耳に聞き届け、僕もまたギクリとした。――そうだ、“妖精石”の力を扱えるのは限られたエルフだけ……恐らくその指輪を造ったリズのお父さんならばと、僕も今更思い至っていた。
「お父さん――っ!!」
「……早く……行くのだ!」
振り返ったリズがイルベルトの元へと戻ろうとするのを必死になって止めた。リズの腕を取ったまま視線を上げると、霧に溶けたイルベルトの耳が、尖ったエルフの耳へと変わっていくのが見えた。
「お父さんなんでしょう!? ねえ! ねえってばぁ!!」
「……私は東の国から来た、しがない魔導商人だ」
――ガシャリと、いよいよ魔導鏡が大破する物音が聞こえる。もう残された時間は数秒とない。この間に風穴の向こうに出られなければ僕たちは……
静かに振り返った仮面のひび割れた目元が瓦解した。……そこには確かに、リズの求め続けていた父の緑の視線が灯っていた。
「うわぁああっっ! おとうさ、お父さんも一緒に――ッ!」
瞳を弓形に曲げたイルベルトはハットをまさぐり、一つ残された指輪をリズへと投げ渡して前へと向き直る。
「お前たちは外の世界を見て来るが良い……真実の世界を」
「……なんで……どうしてそんなっ、やっと会えたのに、見つけたのに……一緒に来てよぉっ、なぁんでぇぇ……私ずっとお父さんのことぉっ!」
泣きべそをかきながら、投げ渡された赤い妖精石の指輪を大事そうに握り締めたリズへと、イルベルトは間際の声を残した。
「私にとってはこの渦の中の方が良いのだ」
「……ぇッ?」
いよいよ瓦解した魔導鏡。霧の魔女による魔力の大河がそのまま僕らの正面へと流れ込んで来るが――
「さぁ……ッ、行け――!」
割れたガラス片をその手に握り込み、僅かな抵抗を続ける父はその身を激流に晒し出した。いよいよ限界を迎えた事を悟った僕は、リズを連れて強引にその場を走り去る――大粒の涙を振り撒くリズだったけれど……彼女はすぐに自分の足で走り出していた。
「……!」
「……ッ」
背中に迫る霧の圧力を肌に感じ、冷や汗を垂らす。風穴の向こうまで、もう五メートル――
三メートル――
二メートル――
一メートル――
「逃がさない――ッッ!! ここでッ、この渦の中で永遠に!!」
すぐ背後にまで迫った黒い霧のプレッシャーに纏わりつかれ、僕は耳元に魔女の奇声を聞く――
「ナニモ知ラズッ幸セナママデ――ッ!」
頭から取って食われるかの様な霧の幻影が、大口を開けて僕らの頭上に迫る――だがその牙を止めたのは、黒い風に紛れ込んでいた僅かな霧の壁だった。振り返るとそこに、浅黒い肌をした霧の少年の横顔が見えた――
「この村の事は心配しないで。今度はキミに成り代わって、僕がピアノを弾き続けるから」
僅かに振り返った少年の、消え掛かった半身は微笑んでいた。
「……ねぇレイン。僕はね、キミのピアノが大好きだったんだ」
「……っ」
「僕は本当のティーダでは無いけれど、霧の様な夢なのだけれど……キミと友達になれて、本当に楽しかった。あのピアノの旋律を聴かなければ、今の僕はきっと――」
ティーダの助力はすぐに女王に切り裂かれる。けれど彼の作り出したこの一瞬を、僕は決して無駄にはしない――!
女王の霧が力強くこの背を引いて来る。リズの頭をこの胸に抱き、霧に捕らわれるまま光へ伸ばした手。村を遮る石の壁を越えて、開いた指先が、霧を掻き分けジリジリと伸びて
――――僕はこの魂で叫ぶ。
「僕らは子どもだ、葛藤して、路頭に迷って、それでも成長する事を望んで、何が悪い!」
――誰かにこの手を掴まれて、僕らはこのスノードームから引っ張り出された。
現実か夢かの区別が付かないけれど、僕があの村で見た最後の光景は、こちらに向かって手を伸ばす、スノウのシルエットだった。




