5 「その結末に蓋を出来るのならば、この渦の中で夢を見ている方が良かった」
「……なんだ……お前たちは?」
僕らの姿を見定め始めた霧の魔女。闇の様に黒い視線がギョロリとこちらを向くとそれだけでカチコチに固まって動けなくなった。その恐ろしさに震え上がり、一目に彼女と僕らとが、生命としての次元を違えているという事を自覚させられる。
「わた……し……?」
流石の洞察力か、魔女の視線はティーダの元で立ち止まって、少しの動揺の色を見せたのがわかった。そしてティーダは霧に紛れながら僕らに囁く。背後に回したその手には、密かに霧で形作られた短剣の一本が握られていた。
「ここからは僕たちの領分だ……だが果たしてそれが出来るかどうか。自分で言うのもなんだが八年前の僕は……紛う事もなく史上最強の魔女だったのだから――」
――次の瞬間だった。ティーダの言葉が終わり切るよりも前に、強烈怒涛の白銀――否、霧を押し固めて中空に創造された極太の槍の一本が、鋭利なる穂先を少年に向けて解き放たれていた。
――あまりに刹那的過ぎた反撃に、誰もが反応を遅らせて呆気に取られている。霧のベールで鼻先スレスレに刃先を止めたティーダは、その強烈なる推進力に押されるまま吹き飛ばされていった。
「邪魔をするな……もうそこまで化学の火が迫っている! 私が例えお前の記憶であろうとも、手を打たなければこの村が死に絶える事に変わりは無いのだっ!」
自らがティーダというオリジナルの存在の生み出した記憶の産物である事を瞬時に理解してしまった様子の霧の魔女。その弱りきった鼻筋にも、気品と異才とが一緒くたになった、魔族連合王国女王の気配が遺憾無く発揮されている。
「魔族と人間とが愚かしい闘争を繰り返し続けたこの結末を、罪の無い生命に負わせる訳にはいかない……罪なき者が地獄の業火に焼かれる事など……あって良い筈が無いのだ!」
半身となったイルベルトが、緑の風を纏った曲刀の切っ先を霧の魔女に向ける。土石舞い上げる迫力、凄まじい勢いで螺旋を描き始めた緑の渦が、突き出された刀身より打ち出されて魔女へと迫るが――
「だからせめて私はッ、いま運命に見放されようとしているこの村の時間を止める――!」
「くァ……!!」
彼女が胸の前で手のひらを水平に切って見せると、その所作に合わせて緑の渦は断裂し、イルベルトの胸も切り裂かれた。霧散した緑の暴風は、周囲に漂う霧に強制的に呑み込まれていく。飛散した従者の鮮血を頬に付着させて、細く鋭い視線は僕とリズへと振り返った。
「逃れようの無い絶望に気付く事も無く、平和な日々を繰り返し続ける。私の目の前で消え去ろうとしているこの村だけはせめてッ……それが私のせめてもの“償い”なのだ」
吹き荒れ始めた黒い風が、霧をかき乱して女王の背後の空に巨大な鬼の顔を形成していった。世界を見下ろし始めた猛威に本能的な畏怖を抱いていると、黒の渦巻きに瓦礫が流れ、地形が変わり、イルベルトの体がリズの側へと投げ出されて来た。胸に手を当て血を吐いた彼に、リズは走り寄っていた。
「イルベルトっ! 血がいっぱい出て……どうして私たちのためにそこまでっ」
「買い被るな……単に私は傀儡として、魔女に課された使命を遂行しているだけに過ぎない!」
「使命ってそんな……アナタにはアナタの人生がある。私たちの為に命を賭ける必要なんて無い! アナタは人形なんかじゃなくて、一人の人間なんだから!」
仰向けになったイルベルトはリズの顔を見上げ、先の衝撃で亀裂の入った仮面を直しながら、彼らしくも無い穏やかな声を出して緩く首を振っていった。
「いいや……私は操り人形なのだよ。……ここに、私の意志などは介在しない」
「そんな……違う、違うわ、たとえ消え去ったと様に感じても、何に上塗りされようとも、アナタという存在は、必ず何処かに――」
くすりと笑った柔らかい吐息が、仮面の端から漏れていた。そして道化は言う――
「……押し殺す事でしか生きられなかったのだよ」
「え?」
「だが……お前の言う本当の私と言うものが存在すると言うのなら……ふぅむ、私のこの本心の方でも、この使命を全うしたいと、そう感じている様に今は思うのだよ」
震える体を引き起こし、イルベルト立ち上がっていった。曲刀を拾ったイルベルトのその向こうで、霧の魔女は周囲に取り巻く霧を一層と深くしながら身悶えしていた。けれど彼女の視線が覗いているのは、僕らでも、イルベルトでも無い様子だ。
「何故だ、どうして私が、私の決定を止めようとする! どうして村の子どもたちをこんな世界に投げ出そうなどと考えるッ! 命に対して無責任な決断を下す位に、未来の私は心変わりをしてしまったとでも言うのか!」
「その時の決断を間違っているとは、今でも思ってはいない」
完全に気配を消して溶け込んでいた闇より、突如と現れたティーダの存在に僕は驚いたけれど、霧の魔女は彼が姿を現すよりも先にそちらに視線を投じていた。
「お前が創造しようとしている世界は、この村の住人にとって必要な物だ……だがそれが、この村に生きる全員に当てあまるとは限らない」
「何を見た……何が私をそこまで変える」
負傷した腕を苦悶の表情で抑え込む少年へと、霧の魔女は歯軋りをして見せた。彼女の強さは圧巻で、この場にいる誰よりも優っていたが、目の下にクマを作り、肩で息をして、その姿が満身創痍だという事にその時に気付かされる。これ程圧倒的な強さを誇る霧の魔女を一体誰が害したと言うのか……話しによると彼女は先日まで東の果ての国のコエルンを進軍していた筈であった。しかしその地でアルスーン王国による不道徳な横槍を受け、今は配下の一人も連れずに、遥かな遠くの僕らの村に居る。とても人類ではなし得ない移動距離と時間感覚ではあったけれど、彼女はおそらく彼の地より必死に逃走し続けて来たんだ、間も無くこの大地を満たすという、人類の用いた化学の毒より。
……過去の自らを見つめて何を思うか。ティーダは真っ直ぐな瞳でこう続けていった。
「僕が見たのは、人の幸せを決め付ける位に思い上がっていた、自分自身の傲慢とあさましさだ」
「傲慢だと? わたしの……私のせいでこんなにも多くの生命が死に絶えようとしているのだぞッ!? こんなに重い十字架が他にあろうか……これ程の罪の重さに堪えられる者などあり得ようかっ! お前も……お前も私なら分かっているだろう! この身を焼き尽くす、この懺悔の念をッ!!」
「……」
「いまの私に出来る償いは、せめて手の届く範囲に居る生命たちだけでも、死という結末よりすくい上げる事では無いのか! せめてこの手のうちに収まった者だけでも……何も知らず、何も疑わず、幸せな一日を繰り返させてやる事が最上の救いでなくてなんだっ。彼らにとってこれより先の世界に、希望など一つもありはしないのだから!」
魔女の魂の激情を前にしても、ティーダは怯まずに一歩踏み出していく。口の端より血の滴を垂らしながらも、その眼光は全盛期の頃と寸分変わり無く、真っ直ぐに標的を射竦める――
「間違ってはいない、だが全てでは無い」
「なに……を……キサマはナニを言って――!!」
その咆哮が世界を震撼させた時、魔女の背後に立ったイルベルトが、筒型の魔導具をハットの中から取り出した。
すると筒は莫大な量の風を吸い上げ始め、周囲の霧を呑み込み始める。魔女の扱う霧に対して風が有効である事を心得ているのか、イルベルトは猛牛の如く暴れ回る筒を魔女へと差し向けていった。激しく荒ぶる景観の中で、体毎吸い上げられていく魔女の後ろ姿が見える――
僕とリズは近くの岩陰に身を潜めると、背後からの暴風に対して振り返る事さえしない魔女と、正面より相対した少年の声をハッキリと聞いた。
「変わる筈の無い世界で、変わり始めたピアノの旋律を聴いた」
掲げた両手に煌めく白銀の霧を押し溜めながら、ティーダはギラギラと眼光を照り輝かせ、過去の自らを望む様にしていた。そして小さき霧の少年は言う。
「この時を繰り返し続ける在り方に反対はしない。無慈悲な外の世界に彼らを投げ出す事にも……だけど変わる事を強く望む者も居る。未来を夢見て瞳を輝かせる者がいる。異種族と手を取り、あらゆる困難を乗り越えて真相に辿り着く者が居る」
「……」
「それが子どもたちだ」
風を巻き上げるイルベルトの魔導具が、霧の魔女より振り撒かれる霧を吸い上げていく。その風下に佇んだティーダの周囲には、中空に浮かぶ霧の短剣が創造されていった。二人の間で不敵に立ち尽くした霧の魔女は、その黒い長髪を背後からの豪風に吸い寄せられながら顔を立ち上げた。
「仮面の従者毎貫くつもりか?」
「ああ、彼もそれを望んでいる。子どもたちを明日へ届け渡す為に」
――解き放たれた無数の短剣は、イルベルトの元へと吸い込まれていく突風に乗って、目にも止まらぬ速度を実現した。だがしかし、霧の魔女はその体内より霧と黒い風を爆散させて、魔道具による吸気量を超越してパンクさせる。さらには背後のイルベルトと前方から迫る霧の短剣の無数を一挙に薙ぎ払ったかと思うと、次の瞬間――
「ウ――っ??!」
黒い風に乗って差し迫った女王の霧が、たちまちに剣となってティーダを四方八方より串刺しにして宙吊りにしていた。
悲鳴を上げた僕ら――
暴虐の黒が渦巻いた光景の中で、女王の声は溌剌と放たれていた。
「見くびられたものだ、その程度の小細工でこの私を倒し切れるとでも――」
「――思っている訳がない」
「――――なッ?!!」
驚嘆の声が上がると同時に、魔女は自らの打ち出した黒い霧の中で足元を見下ろしていた。――だがそこには何も無い。闇と雨粒だけが音を立てて落ちているだけ……しかし彼女はしかとその一点を凝視しながらこう囁き漏らしたのだった。
「いつからソコに……っ」
景色が歪み、刃物の様な眼光が虚空に浮かんで女王を見上げる。
「霧に溶けるのとでは気配が違うだろう? これは放散する魔力をも包み隠すのだから」
「堕ちたか……史上最強の霧の魔女とも呼ばれた私が、こんな――!」
「誰よりも自尊心の高い自分が、よもや魔導具などに頼るとは思わなかった、そう言いたいんだろう?」
次の瞬間、姿を闇に溶かしていたイルベルトの魔導具――“姿隠しのマント”をひるがえしたティーダが、串刺しにされていた自らの分身の姿を霧に溶かし、霧の流動する螺旋の剣を女王の足元より突き出した――!
「あの子たちならきっと、この終わった世界に花を咲かせられる」
「ぁ――――!!」
深々と彼女の胸に突き立った螺旋の剣は、蠢き、流れ、対象物の姿を粒子へと変換していった。眼下の少年へと呆けた顔を見せる女王の姿に、黒の暴風に激しく薙ぎ倒されていたイルベルトが親指を立てて見せた。
全て無に消え去り、黒の風と濃霧が消え去って、雲間の月光がティーダの姿を照らした。悠々歩み出した傷だらけの少年は、閉じかけた片方の瞼を垂らして僕とリズを順に見渡していく。
「あとはあの壁の向こうへと、キミたちが自らの足で――」
――そう言い掛けたティーダの表情は、背後に佇み、肩に手を置いた彼女の存在に凍り付いていた。急速に押し寄せて来た黒の濃霧。固まってしまった少年の耳元へと、まとわりつき、そして囁き掛けるかの様にして、妖艶な魔女はまつ毛を伏せた。
「達観した? いや耄碌しているだけだ、私の幻影も見破れないとは」
「――――!」
「お前はやはり忘れている。終わったに希望などない」
「カ…………っ!」
「残酷な世界の結末を……私は知っている」
――絶句していた僕らが声を上げるのと同時だった。
――形状を変えた女王の右腕が、等身をも超える巨大な太刀となって、ティーダの胸を背後より刺し貫いていたのだった。
「その結末に蓋を出来るのならば、この渦の中で夢を見ている方が良かった」
「……っ!」
「彼らはきっと言うだろう、あの世界を見たら」
――夜陰掻き分けるリズの悲鳴がつんざいた。




