3 化学の毒、人の業。呪いの姿
「“天災の日”……っ?」
ティーダからの視線を受けて二の句を継いでいったイルベルトは、おまけに華麗なお辞儀を披露しながら、胸に当てていたハットを被り直す。
「お待たせしたね少年少女諸君。これから話す内容は、キミらが何故八年前の十二月二十四日をループし続けているのか、その後の未来にどのような結末が待っているのか、その点に触れた言及となる」
「楽しみだよ、僕がどれだけ尋ねてもはぐらかされ続けて来た事の真相を、ついにキミの口から語らせる事が出来るのだからね」
するとそこで頭上に広げた黒い傘を閉じて、豪雨に濡れるままになったイルベルトは、仮面を抑え込みながら突風に耐え忍び始める。
「以前キミに、人類の造った恐ろしい科学兵器の話しをした事は?」
「覚えてるよ。人と魔族のDNAが完全解読されて、人が魔族だけを殺す非人道的な生物兵器を戦争に用いて……魔族もまた、人から科学を奪おうと目論み始めた。今度は人だけを殺す生物兵器を自分たちが使用する為に……」
「なんだか私、怖いわレイン」
震え上がったリズの肩に手を置いていると、イルベルトがその重厚な声を僅かに震わせながら、ハットを斜めにして表情を隠していくところだった。
「ならば話しは早い。全ては八年前の十二月二十三日の事だった。それはキミらにとっての昨日であり、歴史にとっての天災の日……人類があのおぞましき生物兵器を使用したあの日、あの瞬間、人と魔族の中にさえあった僅かな秩序、その倫理観の全てが崩壊したのだ」
「…………は?」
突如胸を杭で刺し貫かれたみたいな衝撃に、僕は背骨でも引っこ抜かれたみたいに脱力して、膝を震わせる事しか出来無くなっていた。視線を彷徨わせ、流れ始めたリズの髪を目で追いかけ、魚が酸素を求めて水面に口を出してるみたいに喘ぎながら、瀕死の様相で言葉を紡ぎ出していく。
「……僕らにとっての“昨日”……生物兵器が初めて使用された? その日は、僕らが終戦の知らせを受けた日の筈じゃ……」
「そうよ、私たちはアルスーン王国からの使者からそう伝え聞いたのよ!? 東の果てで霧の魔女が死んで、長い戦争が終わって、死の霧が大地を覆い始めた日だって、私たちは……っ!」
猛回転を始めた思考の中で、僕は情緒も無く首を振った白い仮面を見つける。
「話してイルベルト、僕らにとっての“昨日”の認識とキミの……いや、歴史の認識がズラされているのなら、そこにこの謎の真相が隠されていると思うから」
「ズラされている……ふぅむ。その表現が適切であるのだと、私もまた確信している」
「なに、どういう事なの? 私を置いて話しを進めていかないでよ〜」
ランプの火が揺らめいて、僕らの影をぐにゃりと曲げた……
――一度、混線した情報を整理しよう……
僕らの村にアルスーン王国からの使者が来て、終戦を告げていった“昨日”――つまり八年前の十二月二十三日。アルスーン王国からの使者は、東の果てで霧の魔女が死んで、死の霧が大地を侵し始めたと伝えた。
けれど過去のイルベルトはこう言っていた。霧の魔女は酷く弱ってはいるが未だ存命で、終戦の歴史はもっとずっと後だったと。
つまり――僕らの信じ込まされていたていた認識と、いまイルベルトの口から伝えられている真実に齟齬が生じている。
ティーダは苦い顔をした僕に察しを付けたか「情報操作は旧世界からの政治的定石だよ」と言ってから、少し天を見上げる仕草をしてパチンと指を鳴らし、怪しい目で僕らを見渡して言った。
「霧掛かったその歴史を解き明かそう」
自らの喉が鳴る音をしかと聞き届けた僕は、イルベルトの話し始めた歴史の真実へと想いを馳せていった――
「天災の日……その日はキミらの思う祝日などとは対極の、歴史上最低最悪の一日となる」
思いの外静かな語り口で、彼は強い雨に紛れて話し始めた。僕らが信じ込まされていた平和なんて、何処にも無いのだと。
「事が起こったのは大陸の東の果て、コエルンと呼ばれた化学の王国で起こった」
「コエルン……? 生物兵器が使用されたのは魔族国家のエルドナじゃないの? コエルンって、この戦争の中立国になる化学に秀でた人間文明の国じゃないか!」
人類は魔族だけを滅ぼす生物兵器を作ったんじゃなかったのか、どうしてそれがコエルンの王国で使用されるに至ったのか……混乱した僕へと、イルベルトは即座に答えを提示した。
「その日は霧の魔女が率いるエルドナの大隊が、人間より科学の技術を奪わんと、コエルンへと進行を始めた日だった」
嫌な予感を的中させた僕は、リズの瞳に映った青褪めた自己を認識していた。人類というものがこれ程までに非情になれるという事実に、人の持つ底知れぬ邪悪の罪深さに触れて、愕然とするしか無かったから。
そこから話しを引き継いだのはティーダだった。彼は闇にぽつねんと浮かびながら、周囲に僅かな霧の粒子を発散しつつ、怒るとも悲しむとも無い表情で平坦に語る。
「人の創造せし脅威的な化学技術を奪わんとするエルドナ。そして自らたちより優れた技術を有した目障りな中立国……アルスーンの王はその時、悪魔の手を取ったのだ――」
生物兵器の非人道的たる所以は、その殺傷性の高さと、使用者の特定が困難となる事だ――イルベルトはそう付け加えた。
「レイン!? どうしたの、気をしっかり持って!」
ふらつく体をリズに抱き止められながら、吐き気を催して口に手をやっていた。四つん這いになった姿勢のまま、僕は獣の様な鋭い瞳で誰ともない虚空の闇を射抜いている。
「漁夫の利――纏めて吹き飛ばそうとしたんだね。アルスーン王国の人たちは、一塊になった目障りな魔族も人も、全部!」
狼狽したリズの背中側で、ティーダは深く頷いて見せた。
「人と魔族を対象にした生物兵器。それは思いもよらぬ化学反応を引き起こして増幅し、やがて収集が付けられなくなった。思えばそれは偶然ではなく、禁断の果実に手を出した我々に、神が怒っているかの様にも思えた」
「それで……天災の日っ」
「そして化学の毒は長く地上に残る死の風となって大陸中を汚染した……世界に取っての破滅の引き金となった一日。それがキミたちにとっての昨日、八年前の十二月二十三日に起きた事の全てだ」
衝撃的な真実を知らされて愕然となりながら思う――死の風……大陸を汚染? それはまるで、僕らが霧の魔女が死に際に放ったと伝えられていた死の霧の話しに酷似していると。そこまで聞いたらいい加減に思い至る。卑劣な人間の情報工作――僕らに終戦を伝えた伝令が、全ての罪をエルドナの霧の魔女に被せようとする陰謀であったという事に。
――アルスーン王国は未知なる生物兵器を用いて世界に毒をばら撒いた。哀れにもその結末は彼らの予想を超えて、人も魔族も殺傷する無差別の死となってこの大陸を侵したんだ……。
僕はだらりと首を下げて虚な目になった。信じていたアルスーン王国が、信じたかった僕らの正義が、こうもことごとく塗り替えられているのだと言う真実に放心するしか他が無かったから。僕は今にも消え入りそうな声で瞼を押さえ込む。
「人は……どうしてそんな兵器を作ったの?」
震える声でそう尋ねると、イルベルトの声が間髪入れずにピシャリと言い放ってきた。
「敵国の文明の全てを、資源を、そっくりそのまま奪い取る為だ」
僕らが世界と隔絶されていた八年間に、いやそれよりもずっと以前から、人と魔族との間でこんなにも凄惨な起こっていただなんて知らなかった。……いや、恐らくは意図的に知らされていなかったんだ。自国の非道徳的な行為をひた隠すが為に、僕らの元に届く情報は統制されていた。
イルベルトが腰を曲げてエメラルドグリーンの双眸を光らせる。
「醜悪なのは人類だけでは無い。我々魔族の中にもまた、醜き思想は渦巻いている。どちらが悪いとも無く、それは物事をどちらから見たのかと言うだけの些末な問題だ」
挫けかけた僕を横目にしながら、リズは果敢に口を開き始めた。サファイアの瞳とイルベルトの緑色の眼光が、妙な調和を見せながら照り輝いている。
「村の外に満ちていると言われていた死の霧が、本当は人の作り出した化学の毒だって言う事はわかったわ。その事と村の人が死んでしまった事にはやっぱり関係があるの?」
猛々しい彼女の視線を正面から受けて立ったのはティーダだった。彼は怪しく口元を微笑ませたが、次の瞬間には強く咳き込んで口を抑えた。案じたイルベルトが駆け寄ると、ティーダは手で彼の歩みを制した。その掌に赤い鮮血が付着しているのを僕とリズは見逃さなかった。片目を僅かに震わせながら、霧を纏った少年はリズへと語り出す。
「僕の作り出した世界は、この体の弱体化に伴って崩れ始めた」
「その体……アナタまさかさっき言ってた毒に?」
「キミたちが繰り返しに気が付いた事、乖離していた筈の時間がゆっくりと動き始めた事……綻びは段々と大きくなって、一日の内にキミたちの肉体に蓄積される化学の毒素を、完全には除去出来なくなり始めた。とても微量に……だけれど着実に、既にこの村に満ちている化学の毒は、キミたちの中に蓄積し始める様になったんだ」
「毒はこの壁の外じゃなくって、もうこの村に侵入しているの?!」
ギョッとしたリズにティーダはこの毒は体内での蓄積が一定量を越えなければ発現しないという事を説明する。すると彼女はホッとため息を付いた。そして胡乱な目をしたティーダは続けていく。
「キミたちが記憶を蓄積し始めたのと同じ様に、この毒もまたそれぞれの肉体に積み重なっていった。……つまり免疫の弱い老人や、体の弱い者から順に発症していった。それがこの村の中で死んでいった人たち……この瘴気と、この村の呪いの真相だ」
――霧の魔女が僕らの体内に溜まる毒素をリセットしていた……? それじゃあ僕らは、あの敵国の魔女に生かされていたという事になるじゃないか。
僕の揺れた眼差しのせいか、その霧が歪み始めたからなのか、ブレたティーダの表情に憂いの色を見た僕は、こう問い掛けずにはいられなかった。
「教えてよ、どうして僕らが十二月二十四日をループし続けるのか……一体キミにどんな思惑があっこんな魔法をかけたのかを」
――するとそこでティーダは僕の言葉を遮って闇の方角へと指を差し示した。これがキミの問いへの返答だと言わんばかりに、顎を上げて息を吸い上げる。
「え……?」
……不意にリズの持っていたランプの火が消えた。
僅かに震えるランプの金具……そこに漂い出した冷たく危険な気配に僕は気付いて、リズと本能的に手を握り合っていた。全身に纏う霧をささくれ立たせ始めたティーダは、迫る害意を待ち受ける魔女の迫力をその身に纏い上げながら言った――
「その真相は僕に聞くといい」
「は……?」
イルベルトがぬらぬらと緑色の発光を帯びた曲刀を腰から抜き出し、危険な様相へと雰囲気を変えていきながら僕らに言う。
「諸君はこれより目撃するのだよ。喉から手が出る程に渇望した真実を。八年前の今日この時、その時の記憶を――」
ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認すると、〇時十一分を示していた。そうして僕らが思い至るより先にティーダは言った。
「来るよ、八年前の僕が――」




