4 ピョートル・チャイコフスキー『四季』より――「十月:秋の歌」
可憐に笑った彼女の音頭で、僕らはハーブティの注がれたカップを、大人たちは一杯のブドウ酒が入ったグラスを打ち合わせた。皿に手を伸ばし始めた僕たちは、嬉しさのあまりお母さんに笑い掛ける。
「すごいよお母さん。こんなご馳走見たことがない、これ全部食べてもいいの?」
「いいのよレイン。今日はたくさん食べて楽しく過ごすの。それ以外のことは考えてはいけないわ。お腹一杯になって、そのまま眠るのよ」
さっきフェリスが言った通り、今日の夜会は終戦の祝福と、僕らの村に迫る脅威――死の霧の恐怖を和らげるために開催されたんだ。
昨日僕たちは、アルスーン王国からの使者よりこう聞いた。
東の果てで、霧の魔女が死んだ――その名の通り、霧の如く実体の無い魔女だが、勇猛なるアルスーンの騎士たちは、確かに奴の心臓に剣を突き立てた。しかし魔女は死に際、大地に死の霧を残した。無色透明のそれは、這うように大地を侵食し、生きとし生けるものを死に至らしめる。この村は明日より、その脅威に襲われるだろう。ただし、死の霧は高い所に登らない。村の周囲に高い壁を張り巡らせたこの村ならば大丈夫であろう。死の霧の脅威は時間と共に薄れる。本日より少なくとも十日の内は村を出ぬように。
……とは言っても、あの石の壁を魔女の残したという死の霧が越えないという確証は何処にも無い。無色透明の霧は、音もなく僕らに忍び寄ってるかも知れないんだ
テーブルの下でお母さんの手を握ると、微かに震えていた。みんなの表情にも不安の影が落ちているように思える。忙しなく夜会の準備をしていた間はそんな事など忘れる事ができたけれど、今は目に映らない死の恐怖が、暗がりからこちらを覗いているみたいに感じられた。
僕らはそんな恐怖を誤魔化す為に夜会を開いたんだ。だから誰もがそうしようと振る舞った。けれど僕らの空元気は、誰かが震える手で皿を落としたその物音で――一挙に張り詰めてしまった。
静まり返った喧騒。皆が自然と食事の手を止めた。大人たちはもっと酒に酔いたいとグラスを傾けるが、ブドウ酒はその一杯しか無かった。お母さんの目尻から、熱い涙が溢れ始めたのに気付く。他にも泣き出しそうな人が大勢見える。だけど誰も声を上げる事はしなかった。もし誰かがそうしてしまえば、その感情は水面を伝う波紋のように伝播して、僕らの目論みの全てを無駄にしてしまうことが直感的に理解できたから。
「行くよ、レイン」
「……え?」
そんな中、スノウは一人立ち上がった。こめかみに添えた指を何度か弾き、すすり泣く彼らを切長の視線で見渡しながら、小さな壇上に鎮座したピアノに向かって腰掛ける。鍵盤蓋を開いたそこに彼が軽く指を触れると、ポロンと音が漏れた。
たったその一音が――静まったホールに反響して涙の音をかき消した。
みんなの全身を蝕み始めた恐怖の感情が、今や喉から漏れ出しそうになったその時――僕らは天使の姿を見る。
ランタンの灯火に照らされる堂々たる佇まい。何処か気品に満ち溢れた余裕げな表情のまま、スノウは僕と同じ筈のその小さな体、か弱い指先で――
「――――ッ!」
……奏で始めた。
古の名曲――ピョートル・チャイコフスキー『四季』より――「十月:秋の歌」
白く、か細い指先が滑り始めたその瞬間――
旋律が流れ出した、この瞬間――
……世界が変わった。
今しとしとと降り注いでいる。雨を思わせるような、陰鬱で叙情的な旋律、
――だがそこには、確かな栄華の予感が同居していた。
流麗なる音の波が、僕らの心を彼方へさらっていき始める。
ゆったりとした繊細で奥ゆかしいメロディの情緒が、僕らの心を鷲掴みにする。
――スノウは、ピアノの天才だ。
僕は、僕たちは、確かに彼の奏でるピアノ以外を聴いたことが無かったけれど、それが揺るがぬ真実だということは、つい先程までの混沌を忘れ、脱帽し切った表情を見せるみんなの様子からも明らかだった。
スノウにはピアニストとしての天性の才覚があって、こんな廃れた村にもなぜか、神が彼に授け与えたかのように、質の良いピアノの一台と、擦り切れそうになった、終わった世界の楽譜があった。
「こんなに、上手かったかな……スノウ。昨日までより、ずっとずっと……」
僕はそう呟いた。その声は、誰にも届くこと無く震える音響に飲み込まれて消えた。
「…………っ」
何故なんだろう。僕と同じ筈のキミが、キミの奏でる音楽が、切なげに、儚げに、微細に揺れる人の感情を表現し、深淵ともなる人生の滑落と、絶頂ともなる歓喜の全てを知っているかのように――情緒豊かに、大人たちの心を揺さぶるのは。
人と話すのはめっきり苦手な癖に、スノウは堂々とピアノを演奏する。その様子はまるで、水を得た魚のように生き生きとしていて、躍動し続ける。スノウ自身もまた、ピアノを通して自分を表現しているかのように、聴く者に強く何かを訴えかけて来る。
――でも僕は、ピアノを弾くスノウが、あまり好きではない。
体を揺らし、眉根をひそめて悲しき音を奏でるスノウに、みんなが釘付けとなっていくのがわかる。
――だって、僕たちはいつだって一緒の筈なのに……
彼の頭上にある天窓からの月光が、輝く汗を散らし、視線を落とした白銀の天使に、スポットライトを当てる。
――キミがそうしてピアノを弾いている間、僕は一人ぼっちになるんだ。
僕たちは二人で一人だ。いつだって一緒だ。キミに無いものを僕が持っていて、僕に無いものをキミが持っている。僕らは二人で一人なんだ……だけど――
――この才能に返せるだけの何かを、僕は持っていないんだ。
見渡すと、嬉しそうに微笑んでいたオーディエンス。彼らの涙が絶望から色を変えた時、僕はまた拳を握り締め――
「すごいよ、スノウ……」その目尻から、正体の知れぬ涙を溢した。
喝采に包まれたホールで、僕は鼻をすする……。
*
夜会を終えて、自宅に帰った僕ら。
お母さんとの長い抱擁を終えた僕らは、抱き寄せられるまま告げられる。
「大丈夫よ。明日もきっと同じ一日が来る。頭の中でスノウのピアノを繰り返すの。そしたらすぐに眠りにつくわ……大丈夫。だからいつも通りに」
額にキスをされた僕らは、いつもの様にと努めたぎこちのない笑みを返して二階へ上がっていった。いつもと同じように、普段通りに、変わらぬ明日がまた訪れるように……死神に悟られないように。
足の悪いお母さんは一階で眠り、僕らは二階の寝室で眠る。
寝巻きのボロに着替えた僕は、窓から石の壁を眺めたスノウの背中に話し掛けた。彼はまだ外着のシャツのままだ。
「毎日聴いてる筈なのに、今日の演奏は全然違った、本当に素晴らしかった! みんなが言ってたよ、スノウは天才だって! あんな風にどうやったら弾けるんだい?」
「毎日、何百回も何千回も弾いてたら、誰にだってあれ位は弾けるよ」
別段舞い上がった風もなく、スノウは静々と服を着替えながら「明日はシューベルトを弾きたいな」と漏らしていた。
スノウは部屋に灯したランタンを消して、結んだ髪をほどき、テーブルに置いた蝋燭だけを残した。ゆらめく炎の赤い火が、暗く静まった寝室を照らす。
「ごめんよスノウ……僕は、キミの才能に返せるだけの何かを持っていない。僕らは二人で一人なのに、僕だけが、キミのような才能を何も持っていなくて」
僕の声に、スノウは振り返らずに答える。
「なにも返す必要なんてないよ。レインにはきっと、僕に出来ない事が出来るんだから」
何処か冷徹にも思えたスノウの一言が、僕の胸にチクリと棘を刺した……
――村に消灯の鐘が鳴り響いた。
「疲れたから、もう眠ろう」スノウが僕にそう言った。
僕らはいつもの通りに一つのベッドに横たわり、寄り添うようにしてシーツを手繰り寄せる。スノウが蝋燭の灯りを消す刹那に――僕らは吸い寄せられるみたいに瞳を一瞬だけ合わせた。……そして室内は暗黒へと変わる。
闇に包まれた村――窓の向こうからは雨音しか聞こえない。
ふと脳裏に恐怖が込み上げそうになる……薄い目を開けると、目と鼻の先で、微かに漏れた月光にグレーの瞳を灯らせたスノウの姿を認めた。夢の中でもそうしているつもりなのか、彼は口元で微かにメロディを口ずさみながら、シーツを鍵盤に見立てて長細い指を這わせている。
「いつか……あの曲が弾けたらなぁ」
スノウはそう言った。聞こえるか聞こえないかの微かな声……けれど僕は確かに聞いた。――彼の中にある、確かな夢の話しを。
……頭の中で繰り返される、彼の奏でた旋律の海原に身を沈めながら考える。
――死の霧は石の壁を越えないだろうか……セレナさんのお爺さんは見つかっただろうか……村長は家に帰って、大好物のオムレツを食べられただろうか……リズはどうしているだろうか……
押し寄せる疲労と、ピアノのメロディが、僕の意識を薄らがせていく……
「明日も……みんなで……変わらない、一日を……」
眠りに落ちるその直前、祈るように独りごちた声に――「そうだね」と声が返ってきた。そして静寂の後に付け足される。
「それでもいつかは、変わらなくちゃいけないんだよ」
途切れる意識……闇より変わり、夢に飛び立つ瞬間――世界がホワイトアウトした様に感じられた……。