6 クロウド・ドビュッシー『ベルガマスク組曲』第三曲より――「月の光」
クロウド・ドビュッシー『ベルガマスク組曲』第三曲より――「月の光」
それは静かな夜を思わせる夜想曲だった。
いつかドビュッシーが愛する者へと贈ったというこの楽曲は、あえて曖昧なものを掛け合わせた、幻想世界を独創している……
頭の中に再生するスノウのメロディだけを頼りに、僕は辿々しく旋律を奏でていた。
――まだ……弾ける、なんとか、食らい付いて……っ
月明かりのスポットライトにあてられた僕を、リズは瞬きも忘れて傍観していた。
――やはりそう都合良く楽譜は浮かんで来ない。なんとかメロディの断片が記憶の奥に微かに聞こえる程度。
けれど僕はそれだけを道標にして、真っ白な楽譜の上でスノウを追い掛け始めた。
かろうじてこの八分の九拍子のテンポに置いて行かれずに、僕は白紙の紙にインクを伸ばし始める。
――僕だってピアノの素人って訳じゃない。僕らは幼い頃に肩を並べて、このグランドピアノを弾いていたんだから。
妖しき音色が、美しき夜へと僕を誘う。庭の水面に映し出された月光が波紋に歪み、憂いと歓びとを同時に連れて来る。
揺らぐ。感情と印象。楽しくもあり、悲しくもある不可思議なる幻想が、僕らの幼き記憶の日々を回想させる。
いま眼下に広がるモノトーンの世界が剥離して、幼少の頃の僕らの指先が重なっていく。四つの小さな手のひらが、鍵盤の上を縦横無人に駆け回っている……
月明かりの一筋が、僕らの過去を照らし出す――
……だけど僕は、途中でピアノを投げ出した。
段々とスノウの才能に置いて行かれた僕は、彼の才能に嫉妬して……逃げ出したんだ。
あの時の、悲しそうにしたスノウの瞳を思い出す。僕らは二人で一人だと言ったのに、……先に裏切ったのは僕の方だった。
「なんだ、逃げてばかりじゃないか、僕は」
ヨタヨタとして、危なげにも聴こえる調べを奏でながら、自棄になって口元に浮かべた嘲笑を、僕は自らへと向けていた。
揺れて、揺れて、水に映る月が見えなくなる程に荒波立って……それからまた静寂が来ると――水面の上で、寸分変わらぬままの月が僕を覗いている事に気付く。
朧げな記憶を頼りに、ピアニッシモからのクレッシェンドを繋げる。ここから楽曲のテンポが上がり、あやふやな僕の指先は置いて行かれるかも知れない。今見えている夜幻の世界が途切れてしまえば、僅かに見え始めたスノウの背中には至れないだろう。それならばいっそ、まだかろうじて奏でていられるこの旋律を繰り返していた方が良いのでは無いだろうか、悲惨な現実を目の当たりにする位なら、今この瞬間で足踏みをしていた方が懸命なのではないか――僕は……そう思った。
優しさに満ち溢れたタッチで、そそぐ月光を思わせるゆったりとしたアルペジオが……四度、深い夜陰に溶けていく。
……深い闇に訪れたしじまは、この月光が一層と照り輝く前の静けさ――
「レイン……っ」
リズの声が聞こえた頃には、もう僕は迷う事もなくその一歩を踏み出している頃だった。
幻想曲は一層の華やかさを催し始める。頭の中はこの複雑過ぎる譜面に真っ白にすげ変わっていた。
けれど――
――あれ、なんで……?
この指先が、呆然とした意志とは無関係にメロディを奏で続けている。軽やかに、そして優雅に、夜の散歩の足取りを早め、ステップまで踏んで回り出す……
――どうして? もう何も、僕にはわからないでいるのに……スノウの中にしかない筈の知識が、彼の記憶と技術が、この優美なる夜空に満点の星を散りばめている。
彼の姿は見えず、その声も聞こえないけれど、確かに心の奥底に――自分の中に、スノウの存在を感じた。
華やかと寂しさ、憂いと歓び。妖しさと誠実。曖昧なモノの表現。高貴であり浅ましい、まるで子供から大人へ変わる僕らみたいだ。
どちらともない“ニュアンス”。テーゼとアンチテーゼ、それが混じり合いジンテーゼになる。
“月の光”を作成するにあたって、ドビュッシーに着想を与えたヴェルレーヌという詩人は、自らの詩にこんな一文を残したと言う事を思い出す――
『不明瞭なものと明瞭なものを繋ぎ合わせる、灰色の歌ほど価値のあるものはない』
曖昧である事への賛美。現実と幻惑が入り乱れた世界、月の下弦と上弦が重なり合って出来た満月――霧の見せた儚い幻……。
終わった筈の彼の生命を、今この心の奥に感じる――!
激しく揺れ動いた指先に雫が垂れ落ちた。さらにと涙が溢れそうになって、思わず顔を天空へと背けると――
「――――……っ」
そこに、灰色の月明かりがあった――――
美しき夢に誘われたメロディはやがて、月の光に溶けていく……
静かに、厳かに、光明は細い線になって消えていく。
記憶を呼び起こしていった僕は、見えもしない、聞こえもしない彼と頭の中で話し始める。
『ねぇレイン。これから村が変わっていったら、僕たちも変わるのかな』
――変わらないさ、僕らはずっと一緒さ。
『キミも、もう変わらなくちゃいけないだろう……』
――キミはずっと、僕の背を押してくれていたんだ。
『大丈夫。レインにはきっと、僕にできない事が出来るから』
――キミに出来なくて、僕に出来る事ってなんだろう?
かつて逃げ出したピアノに向かい合いながら、僕は一人でスノウと話し続けた。声は彼の記憶を無機質に繰り返すだけで、記録した映像に一方的に囁き掛けているのと同じだった。
美しき夜の幕切れに、灰色の月明かりが最後に魅せた旋律――
この夜が終わりを告げて、白んだ空へと変わりゆく……そんな“明日”の空を思い描きながら、僕は眩しげに目を細める。
楽想が終わりを迎え、無我の様相で振り上げた指先を見上げていると、微かに響く余韻の中で――
「――……っ!」
首の後ろに吐息が掛かった気がした……。
だけど、涙振り撒き振り返ったそこには……誰も居なかった。
灰色の月光に照らし出されたまま、細めた視線でリズへと向き直ると、彼女が声を押し殺して泣いている事を知る。
「どうして泣いているんだい、リズ?」
口元に手をやり、震えた唇に何も言い出せないでいたリズは、しばらくしてからこう言い残した。
「そこに居たね……スノウ」
彼女の残した優しい嘘に、僕は微笑みを返した。
――どうして彼女は、僕の為にこんなにしてくれたのだろう?
彼女はきっと僕がスノウを見付けられる様にと、最後の時にこの場所を選んでくれたんだ。例えもうすぐ発生するリセットによって全てが忘却の渦に飲まれてしまうとわかっていても、僕が俯いたまま終わらない様にと、ただそれだけの為に、自分を犠牲にして僕の手を引いてくれたんだ。
僕の声をかき消す位に思いっきり鼻をすすった彼女を見つめていると、この胸の奥がむず痒くなって来る感覚を覚えた。名状し難いその感覚は、次にリズと視線を合わすと、火を焚べた様に熱くなった。
――僕の心をざわめかす、この苦しくて温かい気持ちの真相は……
決意をした僕は彼女の肩に手を置いていた。
「僕はキミへのこの気持ちを忘れたくない。スノウから受け取ったこの気持ちも無駄にはしたくない……だから!」
訳がわからなそうにしてへたり込んだリズを引き起こしながら、ポケットの中の懐中時計を取り出す。
〇時二十一分に起こるリセットまで、あと僅かの猶予も残されていないけれど、今からならまだリセットを回避する事の出来るセーフティゾーンまで戻る事が出来るだろう。
だけど、僕の選択はそうじゃない――
「リズ、この現象にカタをつけよう。みんなが死んだ事実を、死者と生者の曖昧な線引きを、みんなが胸に抱いている内に」
「で、でも……霧の魔女が誰かもわからないんじゃ……」
「いや、僕にはもう、霧の魔女の正体がわかっている」
――時刻は丁度二十三時四十分を回った頃だった。
タイムリミットまで残り四十一分。この間に僕は霧の魔女との決着を付けて見せる。今度は僕が彼女の手を引いて走り始めた――
「走ろう、リズ」
「レイン、何処に――」
「決まってるさ。全ての元凶――霧の魔女の元へ」
リズの手を引いて、僕はピアノの元を後にする。




