5 旋律に沈んで。闇を歩み出して。
時刻は既に二十三時二十分を経過した。リセットの時までもう一時間。忘却を目前にした雨の中を、僕はリズに連れられて駆けていた。いつかの記憶で僕がそうしたみたいに、今度はリズが僕の手を引いているのが不思議だった。
「どうして僕をここへ……?」
彼女に連れられ飛び込んだのは、村の中心地にある酒場だった。ずぶ濡れになった衣服のまま、二人息を荒げて床に仰向けになる。次にその先のステージの上に、天窓からの月明かりに照らされたグランドピアノを見つけた。
未だ鬱々とした気持ちを晴れさせず、前髪を顔に垂らしている僕にリズはつぶらな瞳を向ける。
「リセットされたら、私はもうアナタのピアノを聴けないもの……だから最後に聴かせてよ」
「……どうせ忘れてしまうんじゃないか、今ここでこうしている事だって全部」
「ううん、この胸に焼き付けて心の何処かできっと忘れないでいるから、レインのピアノが聴きたい。心の何処かで、アナタのピアノを覚えている気がするもの」
彼女の視線に吸い込まれる感覚と同時に、心の奥底がチクチクと痛んだ……でも後一時間もしない間に、僕らの関係は振り出しに戻ってしまうんだ――
「無駄だよそんな事……」
彼女からの最後の願いだとしても、僕はピアノなんか弾きたくなんか無かった。だってここにスノウはもう居なくて、ピアノを弾くのは彼の役目で、僕がそうするのは、おかしな事だってわかっていたから。
リズは濡れたスカートの裾を絞り上げながら首を傾げていく。
全てを失った僕は破滅的な思考のまま、長い嘆息をして手を払う仕草をする。指先を伝った雫が天窓からの薄明かりを反射しながら床に消えていった。僕は今こそ、この最後の夜にこそ、自らの感情を吐露し始める――どうせ全て忘れてしまうのだからと、半ば自暴自棄となりながら……
「ピアノを弾くのは僕じゃなくってスノウだ。それに僕はピアノを演奏する彼が好きじゃなかった。だって置いてけぼりにされていく様な感覚に陥るから。僕らはずっと二人で一人なのに、彼だけが素晴らしい才能を持っていて……正直に言うとね、僕はずっと劣等感を抱いていたんだよ。ずっと、ずっとずっと昔から、僕はスノウに……っ」
――劣等感? と繰り返したリズに僕は訴える。
「変だよね? 僕は彼に……居る筈の無い心の中の人格にまで、嫉妬し続けていたんだ」
彼の死を受け入れられずに、壊れ果てていく母を見ていて思った事がある。仮に死んだのが僕だったなら、お母さんはこれ程までに嘆き悲しんだだろうかと。あの軽快な旋律を喪失していなければ、村全体の活気がここまで落ちぶれる事は無かったと。
だから僕はスノウを演じ続けた。それがもう一つの人格となる程までに。そして僕自身もそれを願ったんだ。お母さんに……村のみんなに必要なのは、みんなの心を魔法の力で支える事が出来る、スノウの方だと知っていたから。
握り拳を膝に叩き付けながら、リズが頭を激しく振るった。
「変なんかじゃない、人は誰だって嫉妬する、誰かと比べたりもする。それにスノウは、アナタの心に確かに住んでいたもの!」
余りにも強い目力に一瞬たじろぐ……だけど振り返っても、周囲を見渡してみても、やっぱりスノウはこの世界には居ないんだ。そんな慰めの言葉をかけて欲しいんじゃない。紛らわして欲しいんじゃない。僕が求めているのは、現実に彼が存在する世界――そうだ、僕が願っていたのは“スノウの居る未来”だった。彼という存在の死を受け入れて、未来へと歩み出さねばいけない位なら、僕はこの止まった世界に残留していたい。そう思っていたんだ。そうしている間は、この辛い現実を受け入れずにいられるから、変わらずに子どものままでいられるから。
僕は彼女の眼力から逃れるように顔を背けて、情けの無い自分自身を語り始める。
「だから僕に弾きたい曲なんか無いんだ……ピアノを愛していたのは僕じゃない、スノウなんだ。キミが僕に求めている物は全部スノウの持っていた物で……僕自身には何も無い……空っぽなんだよ」
何処からか雨漏りがして、ピチャンと床に跳ねる音を僕らは聞いた。僕が視線を伏せていこうとしたその時、リズの声が下を向こうとしていく僕を止めていた。
「ピアノが好きじゃないなんて嘘。アナタの内に何も無いだなんて、それも嘘」
「嘘……? 違うよリズ、キミは何もわかって……っ」
自分の瞼の上がピクリと動いたのを知覚した。そして憤り、気付いた頃には強い語気で彼女を責めていた。けれどリズは続けた。僕の手を取り、目前の怒りからも逃げ出さずに、この手を優しく包む様にして、月光の下にその視線を輝かせながら――
「記憶の何処かに、楽しそうに体を揺らしながら、ここでピアノを演奏していたアナタを思い出す。あの時アナタがどんな曲を弾いていたか、私と何を話したか、どんな境遇に居たのか、どれも思い出す事が出来ないけれど……ただ心から音楽を楽しんでいたアナタの姿を思い出すの!」
「だからそれはっ、僕じゃなくてスノウの――」
「――違う!」
初めて声を荒げた彼女。成長を始めた一人の女性が、煩わしく顔を歪めた僕に手を差し伸べる。
「アナタとスノウは二人で一人で、一人で二人なんだよ!」
「一人で……二人?」
「まだわからないの!? スノウの感じていた事、アナタの感じていた事! どちらの思いも、どちらの願いも、どっちもアナタなんだよ!」
「……!」
「胸に手を当てて考えてみてよ! スノウはそんな事を望んでいた!? アナタに何時迄も忘れないで欲しいって、全てを忘れたまま生きていて欲しいって、そう願ってた!?」
願い――この心に宿り重なっていた、僕とスノウの二つの願い。
――僕の願いは、いつまでもスノウと隣り合ったまま明日へ進んでいく事だった。彼が死んだ事からいつまでも目を瞑り続けて、訪れる筈の無い未来に夢を馳せていた。
――スノウは変わる事を望んでいた。もっと大きくなって、鍵盤にも自由に手が届く位になって、いつかあの曲を奏でてみたいと僕に語った。
スノウは変化を求めていた。自分自身にも、前を向けないでいる僕自身にも……けれど僕は不変を願い続けていた。スノウと共にある事が、僕が変化を求める前提条件だったから。
それでも――
「居ないじゃないか」
それでも僕は認められない。認める訳にはいかなかった。だからリズに大股で詰め寄りながら、大きな身振りで激情を見せ付けていた。
「どんな綺麗事を言ったって、スノウは何処からも居なくなっている! さっきまで居たのに、今は何処にも! それが全部じゃないか! 僕はスノウと一緒に居たいんだ、彼の死を受け入れる事なんて、どうしたって僕には出来やしないんだ! スノウは僕の全部なんだッ!」
「アナタたちは今も繋がってる、スノウの死を悟ってしまっても、目に見えなくなっても、アナタの心に彼は居るわ!」
「心って何処だよ、そんなの何処にあるんだよ! もう懲り懲りなんだよ、そんな精神論なんかは――ッ」
捨て鉢になった僕の腕の中にリズが飛び込み、この胸に強く掌を押し付けながら、言った――
「アナタたちの心は、ピアノの旋律の中でしょうっ!」
「――――っ!」
……あの弱虫のリズが、僕の視線から一歩も逃げ出さずに今、向かい合っていた。記憶の中にあるひ弱な彼女と、今の彼女が合致しない。彼女をここまで変えてしまったのは僕だ。その筈だ。……なのに僕は、僕自身は、どうして変わることが出来ないでいるのだろうか。
スノウが死んでしまった事は紛れも無い事実で、そこから永遠に目を逸らして生きていく事が不可能だって、本当はわかっているのに――それが認められない。この繰り返しが、霧の魔女から与えられた僕への温情が、返って僕の成長を妨げているのかも知れないと思った。本来強制的に流れ去る筈の時間、否が応でも薄れ消えていく筈の辛い記憶、それを擬似的に淀ませた事で――僕はいつ迄も、この瞬間を生きていられるかのように錯覚してしまって……この瞬間を切り取った一枚の写真から、心を離せなくなってしまっていたんだ。
よく見ると、大きく見開かれたリズの瞳は震えていた。握り込んだ拳も強張ったまま小刻みに揺れていて、様変わりした様に見えていた彼女の内情も、その実必死に虚勢を張っただけのハリボテに過ぎなかった……過ぎなかったけれど、僕よりも、彼女はずっと大人に近かった。
強張っていた肩の力がその瞬間に抜けて、今は僕の為にここまで体を張ってくれた彼女に、愛しか感じなかった。
「……もう、頭がこんがらがって……わからないよリズ」
僕の微笑みに、彼女は困惑した様な表情を残した。そして緊張の糸が解れたか、目尻からほろほろと涙をこぼしてへたり込んでいく。
彼女の頭を優しく撫でた僕は、踵を返して壇上のピアノを見つめた。今こそ記憶の奥へと押し込んでいた彼と相対するかのように。
「丁度良いや、いつも心を整理する時は、スノウの奏でる、ピアノの中にいたから」
「レイン……?」
目を丸くしたリズへともう一度微笑み掛けて、顎を上げて前を見据えた。そこに見えるは、彼の奏でた魔法のピアノ。
「キミの言う通り、スノウは今もピアノの中に居るかも知れない。だから、話して来る」
闇の中、月光というスポットライトに照らし出されたあのピアノの元へ、僕は歩み出す。
正直言って、僕がピアノなんかを弾けるのかはわからない。この記憶の中でピアノを演奏していたのはいつだってスノウで、実際に演奏していたのが僕だったとしても、切り離した人格の方の技術や知識を僕の――レインの方で体現出来るのかは、まるでわからなかった。でも――
「失敗してもまたやり直せばいいや、だってそれが、この村だろう?」
どうしてか、憑き物でも落ちたかの様にこの足取りが軽くなっているのだけが不思議だった。指のストレッチをしながら首の骨を鳴らし、目一杯に鼻から空気を吸い込んだ。冷たい空気が気付けをするみたいに肺一杯に満ちて、自然とこの表情にも力がこもる。
僕はスノウに成り代わる時に使っていた髪紐をポケットから取り出すと、薄白い月明かりの元へと放り投げた。リズが立ちあがって壇上に明かりを灯し、僕は掌を擦り合わせながらピアノの前に腰掛ける。
演奏の前に……心落ち着ける……。自分と向き合う。
――キミの様に上手に弾けるかはわからないけれど、キミの蓄積した記憶も、経験も――
……瞳を瞑り、自分の中に流れる血流の音を自覚する位に静まり返った所で、僕は緩々と、細く鋭い瞳を上げていった。
「僕の中に、生きている」
クロウド・ドビュッシー『ベルガマスク組曲』第三曲より――「月の光」




