3 雪解け。心殺された少年の抜け殻
――この現象を理解出来るのは僕らだけだ。僕とスノウとリズ、この呪いの事を知っている三人だけ。村のみんなにとっては本当に訳のわからない現象にしか映っていない。昨日まで側で笑っていた者たちが、死後相当が経過した遺体となって腕の中に帰って来たのだから、意味がわからない。今この状況を俯瞰して冷静に解析できるのは、僕らだけ――でも、
「だからこそ、一つだけわからないんだ……」
「レイン? 何処に行くんだよ、レイン!!」
必死に呼び付けてくるスノウの声を無視して、僕は一人取り残された小さな遺体へと歩み寄る。身を挺して僕の進行を止めようとするスノウの反発も……今の僕には何の妨げにもならなかった。
「そんなっ、正気では無い目をして……っ! 亡霊の様な恐ろしい目をしてッ、レイン! キミは見るべきじゃない! 知るべきじゃない、解き明かすべきじゃないんだッこの呪いも、この世界の真実も!」
「……」
「きっとその方がキミも……!!」
まるで幽鬼の様に、弱々しい足取りで土砂降りの中を進んでいく僕を、リズが、イルベルトが、怪訝な顔付きをして眺めていた。僕は背に覆い被さった形のスノウを軽々と抱えるまま、その亡骸をジッと見下ろしていく。
「やめるんだ、レイン――ッッ」
「ぅ……ァ、ぁああ――」
僕と同じ位の背丈の、子どもの亡骸、
「ナニ……こ……の、記憶――は?! ア、あァっ?!」
強烈な記憶の欠片に触れて、
「ぁああッッアぁアアアアアア――――ッッ!!?」
“蘇る”――
石に名を刻み込んだ墓標。
半身を奪い去られたあの痛み、あの慟哭。
……発狂するかの如き長き叫び声を耳に蘇らせながら、思い出していく――
引き裂かれる心。
狂っていく思考。
たわむ世界の情景。
捻じ曲がっていく現実。
分離したアイデンティティ。
空虚。喪失。絶望。孤独。悲嘆。
……負の連鎖。
…………渦……渦、渦――渦ッッ!!
呑み込まれ、霧になっていく――
――ボクノ
「ボクノスベテ――!!」
固く、異常な程固く瞑り、充血した赤い目を開く。見渡す世界が光と闇に明滅シテ―――
僕は……
「ここに……誰が居る?」
自らと同じ位の背丈の、まるで僕と変わらない子どもの白骨遺体の前に立ち尽くしながら、振り返って少し離れた所からこちらを見守っている、リズとイルベルトの真っ黒なシルエットへと問い掛けた。
「誰って……」
僕の目前で俯いていったスノウが、その前髪で表情を覆い隠していくのを見下ろしたまま、僕は困惑するリズの口元を凝視していった。
……リズは絡ませた指をモジリとしながら答える。
「スノウだよ」
「……うん、そうだ……そうだよね!」
ぎこちない声で僕が彼女に微笑み掛けると同時に、黒い傘を閉じて雨に濡れ始めたイルベルトは言った。
「誰も……一人じゃないか、キミは初めから」
顔を上げたスノウの瞳に反射する僕の黒目が、その瞬間に収縮していったのが見えた。
――次の瞬間に、僕の中に合ったナニカが、弾けた様な感覚を覚える。
……不思議だ。もう雨の音も何も聞こえなくなった。それ程集中していて、意識は冴え渡っている。モノクロに変わった世界の中で、白と黒の世界で、リズが悲しそうにまつ毛を伏せて、イルベルトの言葉を否定しないのを僕は見ていた。
『――――……』
「スノウ……?」
僕を目と鼻の先から見つめる彼の全身が、僕の半身とも言える彼の姿が――霧になって雨に溶け始める。
「……ぇ……っあ……ぁ」
『……――――』
この手に感じていた感覚は既に抜け落ちて、そこには空虚と雨の冷たさだけが残った。微かに口元を微笑ませながらも、困った様に、僕を案ずるようにしたスノウ表情が、透けて、消え始める。
『――――……』
「ま――まって……――」
微かに動いている彼の口からは、もう音が声になって奏でられない。
空を掴むかの様な曖昧な観測は、もうそこに表情の微細な動きを見せるのみ。
――温度が無い。――感触が無い。――鼓動が無い。
当然だ、だって全部霧なんだから。
僕はその場に立ち尽くしながら、無意識にこめかみを指で弾いていた。彼の癖など、もう再現する必要さえないと言うのに、無意識に――
その人格は、全部僕が作り出した、僕だけに知覚される幻なんだから――
“スノウという存在は、僕の生み出した幻影だった”。
「待ってッ、スノ――――」
一迅の風にかき混ぜられて、僕を見つめていた彼の幻影は、跡形も無く消え失せた。
「ぁ……ぁぁ…………ぅぁ……ぁ」
後に残されたのは、哀れみの目を僕に向けたリズの姿と、感情の無い白い仮面だけ。
手繰り寄せた腕は空を切り、水溜りの中に落ちた両の膝がパチャリと音を立てる。……力無く落ちた掌。
曇天仰ぎ、口の端から漏れた悲痛の声は、逃げ続けて来た現実を、今受け止める衝撃が余りにも大き過ぎて……言葉にならなかった。
「スノウ、何処に行ったの……ねぇ」
か細い糸の如く、啜り泣く声で繰り返しながら、僕は正体不明の子どもの白骨遺体を見下ろす。ずっと、ずっとずっと無意識に蓋をして来た記憶に手を掛けながら。
「スノウ…………なの?」
唖然とする僕にリズが答えた。
「……わからないよレイン、でもまだそうと決まった訳じゃ」
「これが――スノウなの!?」
酸欠による頭の激痛に苛まれて、僕は涎を垂らしながら目を剥いた。そうして足元の水溜りに反射する自らの姿を見下ろし、頭の中を閃光的に貫いていった記憶の稲妻へと没頭していく――
ずっと受け入れられなかった。彼の死を受け入れられずに、存在する者として忘れ続ける事を選択した。そうしなければ、僕もお母さんも壊れてしまいそうだった。……僕は演じ続けた、村のみんなも事情を知って、スノウを生きているという事にし続けた。……いつしかそれは演技なんかじゃなく、僕の心の中に人格を形成し、スノウは僕の中に存在するもう一つの人格になっていた。嘘は本当になって、僕が蓋をした耐え難い真実は、そのまま記憶の彼方へ押し込められていった。
誰もスノウに話し掛けない、会話が成立するのは僕が彼の言葉を代弁した時だけ。もしくは僕が彼を演じていた時だけ。
屋根裏のメモに記されたサイン。山のように積み上げられたメッセージの中には一つだってスノウのサインは無かった。
毎朝三人分用意されていた食事――あの後お母さんは、心を無にして一人分の食事をゴミ箱に捨てていた。
夜会でのピアノ――僕は彼に成り代わり、スノウとしてピアノを弾き続けた。
心の奥底では本当は、彼が死んでいる事を理解していた、この村がループを始めるよりも少し前の話しだった……だけど僕は、必死に気付かないフリをし続けた。それが僕の無意識の防衛本能だった。
「今まで、気を使わせてごめんね、リズ」
大粒の涙に前が見えなくなって、この辛過ぎる現実に、心が一杯一杯に溢れ返って、僕は声を出して泣いた。
「大丈夫、大丈夫だからレインっ! 私が居るから、私がアナタの側に!」
リズの胸に抱き止められながら、僕はポケットからスノウのしていた紙紐を取り出して強く握り続けた。
――『全てはキミが決める事だよ。この夢から醒めるのか、辛く険しい今を生きるのか』
スノウの声がする。聞いた筈の無い、記憶の彼方の彼の声が。
彼がピアノを弾く光景が、あの夜会での楽しそうな笑顔が側に見える――
「どうして……? こんな記憶、無いのに……ぅっ」
綻び……この村の何処かに潜む霧の魔女の弱体化により、この呪いの束縛が弱くなっているのだろうか? 記憶に無い筈の光景が、僕の脳裏にありありと浮かび始める。――彼と過ごし続けた、ある筈の無い霧の記憶が……。
「も……むり、だ……っ」
溺れ死にそうな涙と鼻水の中で、僕は霧の魔女に懇願する様にそう漏らしていた。
「もう、……もう…………っ」
ずっと一人だったんだ。スノウなんていなかったんだ。そしてお母さんが死んだ今、僕は本当の意味で一人になった。
この現実に堪えきれない。……いや、生きる意味を見出せない。
「僕にはもう……受け入れられない……っ」
僕の頭を掴むリズの手の力が強くなるのを感じた。
――無限だと思われた刻はまやかしで、繰り返し続けるこの村はゆっくりと死へと向かっていた。
――この村から脱せた者は一人も居らず、居なくなった者は皆冷たい土の中に埋葬されていた。
――僕の半身はもう……ずっと前に喪失していた。
完膚無きまでに叩きのめされた僕はもう、この呪いに対抗すべく何の手立ても思い浮かばずに、ただ荒い吐息で喘ぎ続けるだけの、まな板の鯉も同然だった。
「堪えきれないっ、こんな辛い、こんなに悲惨な現実にっ、僕はッ」
「ダメ……ダメだよ挫けたら、折角ここまで来たんだから! 私たちの夢を思い出して」
「僕に夢なんて無いよ、あったのは、スノウの夢だけだ!」
「スノウの……夢?」
……今ある記憶をそのままリセットしてしまえば、僕は毎日お母さんが居なくなった不安や恐怖に苛まれ続けるのだろう……耐え難い不安、苦悩、大好きなお母さんを喪失する深過ぎる絶望――だけどそこにはスノウが居る。彼が死んだという認識さえリセットしてしまえば、僕は何食わぬ顔でまた一人二役の生活に没頭出来る。今のまま現実を直視している位なら、その方がずっとマシだと思った。
――いま、ひしひしと思うのは、これが、これこそが魔女の思惑であったのではないか、という事。
我を失い掛け、見開かれた瞳に思い起こす。そこに立ち尽くしている、イルベルトによる記憶の声を――
――『キミたちは、なぜその現象を呪いだと思う』
僕は今こそ思い直す――この呪いが……呪いでは無いというのならば……悲惨な現実に蓋をして、悲劇が巻き起こる前の幸せを繰り返し続けているこの日々は、まるで施しの様にさえ思えると。
これまでとまるで正反対の解釈。だけどどうして霧の魔女が僕の為に? いや違う、これはきっと僕個人への施しなんかじゃなく、きっとそう……この村に住む全員への施しだ。
――だとすれば僕らがループし続けている八年前の十二月二十四日、その日を越えた先で、どのような地獄が待ち受けているというのだろうか。
「いいじゃないかもう、そんな事……」
没頭し掛けた思考の深みで、腰を折ったイルベルトの声にすくい上げられて、僕はもう考えるのを止めた。吸い込まれる様な緑の眼光が僕を貫いていく。
リズから離れ、僕はお母さんの眠る黒い棺桶に前のめりにもたれ掛かった。そうして雨に打たれるまま、無為に時が過ぎ去るのを待っているかの様にしばし黙りこくってから……苦痛に塗れた顔で、天上を見上げて言った。
「僕の負けだ……霧の魔女」
心に穴がポッカリと空いて、その絶大なる虚無感にもう、何も成し得ないと感じた。今の僕は欠陥品だった。心と体の半分を失った不完全な僕は。
「レイン……」悲しげな声でリズがすすり泣いていた。
――僕の心と魂の半分……スノウを失ったこの現実を受け入れる事なんて、到底出来る筈も無かった。たとえそれが、霧に見せられる幻影だとしても、僕はそれに気付かずに、またこの日々を過ごしていたかった。




