1 幻影を切り払って
三日目
やっぱりレインは私の話しを信じてくれなかった。部屋の隅にうずくまって座りながら考える。
「私なんか、村の人たちと目も合わせられないし、魔族だし、嫌われてるし、一人でレインを説得するなんて無理だよ」
昨日の事を思い出しただけで胸がキュッと締め付けられて苦しくなる。
「私にもっと、自信があればなぁ」
ダメダメな私が変われたら……なんて、そんな事を思ったりする。
レインが信じてくれないのは仕方が無い。私だって夜中の巻き戻しの光景を見るまではそうだった。だってこんなのあんまりにも非現実的で、おとぎ話みたいな話しなんだもん。
……お腹が鳴った。昨日は丸一日何も食べていないから、もう空腹感に耐える事は出来そうにない。
外に出るとすれ違う人たちに悪口を言われている様な気がして、誰とも目を合わせないように駆け足で走り去る様にした。
「見て、魔族の娘だよ……」
「……っ!」
聞こえない、何も聞こえない。私は耳を覆ったまま村を駆けて、誰も居ない畑に辿り着いていた。
「誰も居ないのは一昨日確認してるわ、今日は多めに貰って蓄えておこう」
そう思い、私が堂々無人の畑へ立ち入った時だった。
「――っ」
盗みをしようと伸ばした私の手が、ピタリと止まっている事に気付く。思い留まった私は畑から出た。それでもお腹は空腹で鳴り続けるから、私はどうしたら良いのかわからなくなって、誰もいない曇天の下で涙をこぼしていた。
――……だけど、だけど、
「いつまでも泣いてたらダメだ」
自分のお腹が空いたからと言って、人が丹精込めて作った物を盗んで良い理由になんて絶対にならないって、何故かこの時の私はそう思うことが出来た。一昨日の何も知らないで繰り返していた私はそんな風には思わなかったのに。
不思議だ、まるで記憶が蘇ったあの時に、他の大切な事まで思い出したみたいだった。
「忘れる前の私は、今の私よりも大人だったのかな?」
……わからないけれど、そうだったらいいな。この胸に刻まれた経験が、無意識の内に“次の私”に引き継がれているのなら、まだ少し、忘れ去って来た過去の自分が報われるかなって思った。
私はその場を移動して、軒下にとうもろこしを並べたイリータの家の前に来ていた。汗水垂らしてせっせと働いている彼女の姿を見て、もう二度と盗みなんてしたくないって、他人のことも、私の事も傷付けたくは無いって、そう思った。一世一代の勇気を出して物陰から飛び出した私は、彼女の目の前で、お腹の底から大きな声を出した。
「イリー……タ!」
「あン? って、アンタか……驚いたな、私に何の用だよ」
この時の私がどうしてこんなに大胆な行動を起こしたのか。イリータの曲がった眉毛と私を観察する鋭い目付きに射竦められ、言葉が出なくなって俯いてしまった。彼女を中心にして集まり始めた村の女たち。すぐに汚い言葉の数々が私を取り囲んだ。
「用があんならさっさと言いな、アンタと違って私たちは忙しいんだ」
敵意を剥き出した口調に目をギュッと瞑る……だけど私は彼女の笑ったその顔も、不器用で乱暴だけれど面倒見が良い、そんな性格の事を知っている様な気がした。……彼女だけじゃない、今私を取り囲んでいる村の人たちも一つボタンを掛け違えているだけで、本当はとっても優しくて私に良くしてくれるって事も知っている。……私は酷く罵倒されるその声に逃げ出したいのを堪えながら、思い切ってその顔を上げた――
「あれ――――??」
「なんだい、どうしたんだいアンタ」
「お腹が空いているのかも、何か食べるかい?」
「アンタの顔が怖いんだよイリータ」
「なんだってぇアンタ!」
そこに渦巻いていると思っていた村人たちの悪魔の形相と、私に対する激しい侮蔑の声は――どこにも見当たらなかった。
口を半開きにしたイリータが、小鼻にシワを寄せながら言った。
「全く、突然話し掛けてきたと思ったらカチコチに固まっちまってさ、ぁあもういいさ、そんなに暇ならとうもろこしを下ろすのを手伝っていきなよ、リズ」
――『そんなものは、キミの暗い心がもたらした幻影に過ぎない』
私に伸し掛かっていた黒い重圧。私を苛んでいた醜い言葉の数々は……
「あっ、じゃあイリータの所の手伝いが終わったらウチにも手伝いに来てくれよ」
「ウチもウチも! ついでに昼飯も食わせてやるからさ、な?」
弾けるようなみんなの笑顔に取り囲まれて、私はオロオロと困惑する。
「えっ……ぇ? みんな、怒って、無いの」
「はぁ、怒るだって?」
「そうだよ、だって私は魔族で、村のみんなとも馴染めなくて……ずっとお仕事もしてないし、それで……っ」
私がそう呟くと、吹き出したイリータが私の頭をかき混ぜた。
「アンタは今から私たちの仕事を手伝う。だったら昔の事なんてもういいじゃないか」
「でも……」
「うるさいねぇ、昔の事なんて忘れちまうんだよ私たちは。なぁみんな!」
顔を上げるとみんな笑っていた。そしてイリータは言った。
「それに、とうもろこし好きに悪い奴はいねぇ」
私はこの時になってようやく、この耳に聞こえていた罵倒の数々と、あの恐ろしい無数の視線が私自身で作り出した幻影であった事を知ったのだった。私は自分を卑下し過ぎて、自分で自分を貶めていたんだって、その時知った。
「うっ、ぅう……ぅえぇえええ、みんなぁああ、ごめんなさぁアアア……っ」
「なんだいこの子は、今度は泣き出しちまって、訳のわからない子だねぇ」
私の泣きべそをみんなが見つめて、明るい声が響き渡った。




