3 異国の商人
僕らがヘトヘトになって、三度目の卵の運搬を終えた帰り道。人々の行き交う大通りで、スノウが僕の服の袖を引いた。丁度曇天になった空からポツリと雨が降り始めた時の事だった。
振り返った彼の視線を追っていくと、丁度井戸の横の大木のある辺り、広場の端に人だかりが出来ているのに気付く。なんだなんだとスノウの手を引いて野次馬に混じっていくと、焦げ茶色のハットの下に白い仮面をした、妙な人間が大木にもたれかかっているのが見えてきた。声からしてどうやら男であるらしい仮面の男は「妙だ、誠に妙だ」とうわ言のように繰り返しているみたいだった。さらに人混みをかき分けて進み、やがて男の全貌が明らかになってくると、薄い光沢を帯びた赤黒いシャツが目に飛び込んだ。見た事もない目がチカチカする模様だ。腰のベルトには曲刀が下げられている。その出で立ちからどうやらこの人が、異国から来た旅人である事がわかった。
するとそこで、僕らの右隣で腕を組んでいたじゃがいも畑のおばさん――ボナがヒソヒソと教えてくれる。
「ああレイン。村を囲んだ石の壁をどうやって乗り越えたのか、何だかおかしな人が紛れ込んでね。商人なんだってさ、でもこんな時に外をほっつき歩いてるなんて変だろう?」
目尻にシワを刻んだボナが言っているのは、昨日の伝令より伝えられた、死の霧の事だろう。
僕らが頷いていると、背後から頭に腕を回してきたお姉さん――サーシャが言う。
「それも何だかトンチンカンな事を言うのよ。聞いたことも無い国から来ただとか、死の霧なんて無いだなんて言って」
背後に見えるのどかな自然を背景にして、男勝りな村の女たちに圧倒されている商人を眺めていると、ボナが僕らの背中を押した。
「今夜は大事な夜会だろう? もう行きな、この人は変だけど、私たちに敵意はないようだから大丈夫だよ」
物珍しいこの商人をもっと観察していたかったけれど、スノウは待ってましたと言わんばかりに僕を人混みから引っ張り出していった。そそくさと立ち去っていくスノウの背中に、何人かの女の人たちが振り返る。
「あら、みんなお前の演奏を楽しみにしているからね」
「あんたのピアノだけがこの村の自慢で、私たちの楽しみだよ」
僕は瞳を伏せた。スノウは振り返らずに、足早に立ち去っていく。
よくわからないけれど、村のみんなで夜会の準備をしたり、見知らぬ旅人が来たり、本当にお祭りみたいな一日だ。
*
まだ闇の浅い夕刻。すっかりと本降りになった雨の中をレインコートを着て歩く。雨で滑りやすくなった石畳みでお母さんが転ばないように、僕らは両脇に立って歩いた。お母さんはまだ若いけれど足が悪いから、僕らはこうして杖代わりになるんだ。
お母さんの手を引きながら、遠景に村を包囲した暗い影を眺める。この村を円形に囲んだ高さ十メートルの石の壁。かつては城壁であったとされる旧世紀からの遺物を利用したこの防壁の向こうには既に、死の霧が押し寄せているのだろうか?
やがて酒場に辿り着くと、そこではもう賑やかな雰囲気が始まっているようだった。
「あら、ウィン。遅いじゃないか」お母さんはそうボナに声を掛けられて「ごめんなさい、今日はなんだか夜目が効かなくて」と笑みを返していた。
酒場の中心にある大きな木のテーブルには、見た子もないようなご馳走が並んでいた。ひもじい生活を続けてきた僕らにとって、食べきれないような食事にありつけることがどれ程嬉しい事か。僕らは三人空いた席に座る。
こんな贅沢な光景を目の当たりにしても、スノウは表情も変えぬままつまらなそうにしている。彼の意識は食事よりも、天窓からの白き月明かりに照らし出された、壇上のピアノへと注がれているみたいだった。
するとそこで僕らの元にグルタが近づいて来た。あらかたの調理を終えて手持ち無沙汰にでもなったのかと思ったが、太い眉の下に落ちたその剣幕に、どうやら暇を潰しに来た訳ではないとわかった。
「あんたら、村長を見てないかい? それとオルトの爺さんとフィル婆さん……あとそうだ、あんたらの友達のロイドと、リズ……それから」
見ると、広い酒場のテーブルにチラホラと空席が見える。昨日の急な集会では全員がここに集まったのに、この夜会を催すと言い出した白髭の村長の姿さえない。首を振ったお母さんを認めて僕はグルタに言った。
「リズは……来ないと思うよ。でも、他の人たちはどうしたんだろうね。昨日は全員、あんなに意気込んでいたのに」
「本当だよ、こんなご馳走があるってのになんなんだろうね。無駄にはならないけどね。私が食べるから」
「ダメだよグルタ。きっと何か事情があって来られないだけさ」
「それにしたって村長が来ないのは変だね。家を訪ねても留守だったらしいよ」
唸ったグルタはそのまま引き返していった。奥のテーブルに何処か浮かない表情をしたセレナの姿が見える。結局、朝からお爺さんの消息が掴めていないみたいだ。
それでも僕らは夜会を始める。始めなくちゃならないんだ。今日この日この時の夜会は、終戦を祝うだけのものじゃなく、もう一つある特別な意味を持って開催されるのだから。
仕切りを任された、若く美しい金髪の女性――フェリスが、十八時の定刻と同時に席を立った。
「皆さんよくお集まり下さいました。本日は終戦のお祝いと、今宵迫り来る“死の霧”を乗り越える為の、夜会を始めます」




