1 エルフの見る世界
第一章 一日目
何処か東の国で霧の魔女が死んだと聞いた。私にとってそれは、飛び上がる程に嬉しい事のはずだった。
「おはよー、お父さん」
渦を巻いた天井の木目。吸い込まれる様な模様を見上げて目を覚ます。
「昨日戦争が終わったんだって」
声は返って来ない。そんな事わかってる。それでも毎日話し掛けて来た。こうしてでも居ないと、自分の声も、言葉も、人との心の通わせ方も忘れちゃいそうだったから。
「戦争が終わったんなら、お父さんは帰って来るよね」
お父さんが徴兵に行って二年、私はずっと一人ぼっちだった。私はお父さんみたいに人と上手に関われないから、みんなのお顔を見ると、何て話したら良いのか、悪く思われているんじゃ無いかなって思って、声が一つも発せなくなる。上げていた顔がだんだん下を向いていって、私に構ってくれていた村の人たちも遠ざかっていった。
「お腹が空いた」
お腹が鳴ったから、台所に向かった。だけど何処をひっくり返しても何も出てこない。備えの食料は一つだって無い。けれど悪いのは私だ、食料がないのだって当然だ。この村はみんなで分担して自給自足の生活をしてる。何もしていないのは私だけなんだから、何も貰えないのは当然の事だってわかってた。別に私は誰の事も恨んじゃいない。そんなの調子がいいって私にだってわかる。悪いのは全部私。仕方が無いので、桶に溜めた雨水をひとすくいして空腹を紛らわす事にした。
外でしとしとと雨が降り始めた。暗く冷たいじっとりした雨が……
窓際に立ったタイミングでまたお腹が鳴った。昨日だって小さい芋の一つしか食べていない。お腹と背中が引っ付きそうで、もうどうにかなってしまいそうだ。
「お父さん、帰って来るんだよね……本当に」
薄い雲に覆われたグレーの空を見上げていると、なぜだか不穏な感覚に支配された。震える掌で額を抑え、窓ガラスに反射した青い両眼を真っ直ぐに見る。
「お父さん、帰って来る、よね。そうだよね、そうだよ……でもなんでだろう、こんな風に思うだなんて」
私の心が荒んでいるのだろうか? 言いようの無い不安が、この雨雲みたいに心を覆って離れない。――どうして私はお父さんが帰って来る事なんて無いって、まるで確信でもするかの様に感じているのだろうか。
「そんな筈ないもん、お父さんは私を迎えに来るんだもん」
淀んだ私の目にはもう、唯一あった希望さえ見えなくなってしまったのだろうか?
「お父さんはこんな世界から私を、助け出してくれるんだもんっ」
ふらつく足で家を飛び出す。
*
「とうもろこし……」
裏通り、家の軒先に大好きなとうもろこしを並べるイリータを見つけたから、木陰に隠れながらそれを窺った。今日は終戦を祝う夜会があると言っていた。村のみんなで食料を持ち寄って酒場でパーティをすると聞いたけれど、これはその準備なんだろうと思った。ギラつく私の視線が、無防備に並べられたとうもろこしの一本へと向かう……少し位なら、心の悪魔が私をそそのかす。
「……悪い事をして、ごめんなさい」
これがいけない事だってのは理解してた。……でもこうでもしないとこの空腹を抑える事が出来なかった。他にどうすれば良かったか私には考え付かなかった。
――けれど懐に一本のとうもろこしを仕舞い込みながら振り返ったその時だった。
「リズかい? なんだいこんな所でコソコソして」
「ひ……っ!」
すぐ背後で腕を組んでいたボナに驚いて、私は短い悲鳴をあげていた。
「なんだいなんだい、人を化け物みたいに」
険しい顔になっていく彼女が恐ろしくて、私は泣き出しそうになりながら逃げ出した。けれどすぐに大きな樽につまづいて転んでしまった。無様につんのめって懐に隠していたとうもろこしが転がった――
「あーあ、こんなに散らかして、これから夜会の準備があるって言うのに、どうするんだい」
「ご、ごめんなさ……ぃっ」
「どうしたんだいこの騒ぎは……あれリズか? なんでアンタうちのとうもろこしを……」
「あっ、聞いてくれよイリータ、この子がね……」
騒ぎを聞き付けて集まり始めた村の人たち。うつ伏せに倒れ込んだ私は、無数の目に見つめられて震え上がってしまった。……すると聞こえ始める――
「魔族の娘……」
「きっと食料でも盗みに来たんだ」
「卑しいねぇ、父親のバレンは良い奴だったのに」
竦み上がった私は身動きの取れないまま、周囲を取り巻き始めた声を聞き続けるしかなかった。
「自分だけ何の手伝いもしないで」
「この子は魔族だから……」
やっとの思いで耳を塞いだけれど、何故だか心無い声は私の耳に届き続ける。ゆっくりと起き上がり始めた私は、四つん這いの姿勢で顔を上げる。するとそこには悪魔のような顔をした女たちの形相があった。
「……っ」
でも私が一番怖いと思ったのは、そこに並んだ恐ろしい面相なんかでは無かった――
「ごめんなさい」
本当に怖いと思ったのは、あらゆる悪口を前にしても、なぜか心も揺れ動かなくなっている自分自身の氷の心だった。まるで何百回も、何千回も、同じ事を言われ続けて来たみたいに右から左へ流れていくだけ。何も感じない、何も思わない。それなのに――
……怖くもないのに、悲しくもないのに、なぜだか涙がこぼれていた。
「アンタ、大丈夫かい?」
さっきまで私を罵っていたイリータが、眉根を下げて何度も瞬きをしながら私に手を差し伸べていた。どういう心変わりなのだろうか、異様に思える彼女の感情を不気味に思いながら、涙を拭った私はその場を走り去った。そこに転がったとうもろこしを拾い上げるのも忘れて――
「どうしたんだい、怪我してるんじゃないのかい、リズ!」
イリータの、村のみんなの声がする。
*
雨が強くなって来た空の下を俯いて歩き続けていた。濡れるのなんて気にしない。私が選ぶのはひと気の少ない細い路地ばかり。暗い道を渡り歩いて、畑から食べ物を盗んで家に帰る。まるでネズミみたいだ。それとも薄汚い魔族には似合いの姿だろうか?
「お父さん、ごめんなさい。私悪い子になっちゃったみたい」
……お父さんと一緒に過ごしていた頃は、世界はこんな風じゃ無かった。こんなに灰色では無かった。
「……私、どうにも出来なくて、何にも知らないから、どうすれば良いかわかんなくて、どうやって生きれば良いかもわからなくって」
涙でむせ返りながら誰も居ない路地で雨に濡れる。誰に聞かれる訳でも無いから、思い切り鼻を啜って咽び泣いた。
「迎えに来てよお父さん……私もう嫌だよぉ、苦しいよ、お腹空いたよぉ、助けに来てよぉ」
私をここから連れ出して、世界を変えて――ねぇ、お父さん。
「うぁ……ぁぁ、ぁぁ、わぁぁあ……っひ……っ」
打ち付ける雨音に、私の悲鳴は掻き消される――筈だった。
「……誠に妙だな。私が、こんなにも不合理な選択をすると言うのは」
「――え、ぁ……誰?」
普段誰も利用しない草の伸び切った裏道。そこに一本そびえた大樹の幹の窪みの所で、異様な男が長い手足を抱え込みながら座っていた。すぐに立ち上がった彼を私が真っ赤に腫らせたまぶたで見上げていくのを、白く無機質な仮面はただジッと見下ろす様にしていた。
「私はイルベルト。東の果てより来た、魔導商人だ」




