5 あの壁を越えて、僕らは明日へ――
明朝六時三十分。場所――東南の石の壁。いよいよ壁越えの日がやって来た。
本日最後となるであろう感慨深い朝の日差しを見やり、僕らはイルベルトと、屋根裏から持ち出した物資を運んでいた。
「オハヨーー!! って、うぅうええ?!! どうしてイルベルトが一緒に居るの!?」
「ふぅむ……魔族の少女、リズか」
飛び上がったリズに簡単に事情を話した僕は、伝えていた計画を三人で実行する。イルベルトはその時まで必要では無いので、側の大岩の所で紅茶でも飲んでいてと伝えた。
村の外周を囲む切り立った十メートルの石の壁。僕らをこの場に留めようとする絶壁を足元から見上げると、その果てしない圧力に無力感を覚えそうにもなる。だけど今日僕らは、遂にこの鳥籠から飛び立っていくんだ。高すぎる壁に目眩を起こしたリスが、あわあわしながら僕らに問い掛けて来た。
「ねぇレイン、どうしてこの場所で壁越えをするんだっけ? 本当ならもうじきイルベルトが出て来る筈だったこの場所で」
「一つはイルベルトに出会う為。そしてもう一つは風穴があるからだよ」
「それってイルベルトがこの村に入って来たって言うあの風穴? でも、こっちから見たら穴なんてなんにも無いよ?」
壁の外から見える世界ではここに巨大な風穴があって、村の内部と交通していると言う。だからこそ僕はここを壁越えの現場に選んだ。ここでなら村の内部に戻ることが容易だから。
「話したでしょうリズ。僕らは村のみんなでこの呪いを抜け出すって、その為にはここじゃなきゃダメなんだ」
僕らだけがこの呪いから抜け出すんじゃない。お母さんも、みんなも、イルベルトも、この呪いに巻き込まれた人たちはみんな助ける。
手に持っていたかなりの長さの縄梯子を体にしっかり巻き付けた僕は、次に背中のリュックサックから、二枚の“ズーのウロコ衣”と一足の“羽靴”を取り出した。そして一つ深呼吸をすると、生臭い衣の一枚をリズに手渡し、残る一枚を隙間が無いようにぴっちり羽織った。
「本当にやるの、レイン?」
スノウが僕にそう問いかけて来る。その瞳は真っ直ぐで揺るぎなかったけれど、そこには僕を引き止めたいかのような、不安の色があった。
「うん、怖いけどやるさ。でなきゃ一生このままだ」
スノウに言われて石の壁の外へと視線を投じる。風切り音を立てて噴き上げる突風。この壁の向こうで、緑をたわわに蓄えた大木がのどかに揺れている。――だけど僕は思い出す。この石の壁を越えた刹那、鶏が白骨化して死に絶えたあの光景を。
僕はあの時の死骸の姿と自分の姿を重ねて身震いしていた。その時の事を何も知らないリズは、青い目を輝かせながら唇に指先を添えている。向こうの大岩の所では、イルベルトが呑気に紅茶を淹れていた。――僕はみんなを見渡しながら言い放つ。
「終わらせよう。繰り返すだけの毎日を」
するとリズが手をとって僕を見上げた。
「きっと大丈夫。アナタが私を変えたみたいに、きっと世界は大きく変わる。だってレインは頭が良いんだもん」
はにかんだ笑みに光が差して、卵のような頬に二つの窪みが出来た。サファイアの瞳がこの空色に瞬いて僕を見つめている。
「全てはキミが決める事だよ。この夢から醒めるのか、辛く険しい今を生きるのか」
心を読んだ灰の眼光が、僕を射抜いていった――
胸の前で拳を握り込んで僕は決意する――僕とスノウとリズ。この三人で未来を生きたいと。このままみんなで、大人になっても笑い合っていたい――そんな未来の為に。
「やろう!」
「……うん!」
*
長い板を指定の大岩に配置した僕らは、いつかの悲劇の再現でもするみたいに、イルベルトの座る大岩の下に長いシーソーを作った。眼下で繰り広がる異様な景色に魔導商人は肩を竦めている。
「まさか、私の体重が必要だと言ったのはこの為か? クックク、確かにこれも物理化学の領域ではあるが、ふぅむ、なんとも奇想天外として、大胆な計画だな」
一見すると無謀な作戦だって事は理解している。だけどシミュレーションは何度も済ませているし、理屈の上ではこの目論みは成功する筈なんだ。しかしいざこの計画を生身で実行するとなるとやっぱり一抹の不安が胸をよぎっていく。胴に長い縄梯子の束を巻き付け、“羽靴”を履いて風に体を揺すられる程に身軽になった僕は、板の向こうの端に立って“ズーのウロコ衣”を今一度手繰り寄せる。するとそこで泣き出しそうになったリズが声を上げた。
「レイン、わ、私っ、アナタが壁に激突する所なんて見たくはない、こんな高さから落下して大怪我する所もよ!」
「だ、大丈夫さ、今僕はこの“羽靴”で鶏みたいに軽くなっている。物質が落下する時の衝撃は、その重量に比例して大きくなる……正面衝突した時は、どうなるかわからないけど、とにかく計算は済ませてある、必ず成功する筈だ!」
震えた声で僕は伝える。――そう、実は僕の壁越えの策とは、単純明快にあの日シーソーで打ち上げた鶏を僕にすげ替えただけの、シンプルなものだった。
大岩に乗ってイルベルトの横に並んだリズとスノウ。落下のタイミングを合わせなければ、僕は予定の軌道をズレて何処に飛んでいくかわからない。無風の時を見計らい、計算通りに壁を越える放物線を描く事が出来れば、体に巻き付けた縄梯子のロープが、僕を向こう側の地面近くで宙吊りにするだろう。そこから結び目を解いて向こう側に着地したら、今度は大木の幹にロープを結び付ける。これで石の壁を越える架け橋が完成する訳だ。橋を掛けたら風穴から村の内部に戻り、もう一着の“ズーのウロコ衣”を着せたリズと縄梯子を登って向こう側へ渡る。“今日”を越えた壁の向こう側にはもう“死の霧”は無い筈なので、リズの“ズーのウロコ衣”を脱がせて、また村の内部に戻る。……村人全員を救出できるまでこれを繰り返す。疲れたらその役目をスノウに代わって貰う。
蓋を開けてみれば随分地味な計画だと思うかも知れないが、盤石な故に手堅く、成功する確率は高いと踏んでいる。
一か八かになるのは“ズーのウロコ衣”が本当に死の霧に有効であるか、というその一点だけなんだ。
目一杯に肺に空気を取り込んで、今生きている自分を実感してから少し視線を下げる。そこには、大岩の上から僕らを見守る仲間たちがいた。瞳を閉じて、僕は息を整える。
――これまでの努力。忘却して来た数多の自分たち。何千回と繰り返し続けた、悲痛なメモの山を思い出す。足掻き、苦しみ、のたうち回って、それでも外に出られなかった、八年間の自分を追悼する。
「こんなおかしな世界、もう終わらせるんだ!」
僕は言った。決意を固めた顔でスノウを見上げる。……彼は何も答えない。
「この風が止んだら飛ぶわ、準備は良い!?」
大岩の上でリズが叫び、やがて風の音が止んだかと思うと――僕の体は空へと舞い上がっていた。
まるで魔法にでも掛かったみたいにスローモーションになった景色の中で、僕は鳥みたいに空へと飛び立っていく。
「――――っ」
打ち上がった風巻に乗って、ひるがえった僕の体、壁の向こうへと届かんとする伸ばした指先――
眼下に見る、硬直した三人の姿。時のなだらかになった感覚の中で何故か――
イルベルトの囁きだけが、克明にこの耳に届いた。
「言った筈だ。根拠なき盲信をするのが、キミら子どもの悪い所だと」
「な――ッ」
「ぇ――っ」
絶句したスノウとリズの横顔が、道化の仮面を冷たく見上げるのを見ていた……
もうどうにも止まらない浮遊感に満たされながら、跳ね上げられていくこの体が、壁が落とす影を突き抜けて、晴れ間の覗く外の世界を見渡す。雄大に広がる緑豊かな山岳の起伏……この息を呑む絶景と、イルベルトの話した殺伐とした世界とのイメージが、まるで全て嘘であったかの様に一致しなかった。
空へと振り上げられたイルベルトの右腕。周囲にたちまち白い霧が立ち込めて、世界を満たす――
――殺されるんだ。
そう直感で理解していた。今ここに居る僕ら、今ここにある意識の全て、全ての人格が、抹消される。
「誰も、このスノードームから出る事は出来ない」
ホワイトアウトした霧の世界で、パチンと指が鳴らされたのを僕は――――――




