4 魔女の試練
「これは呪いなんかじゃない……いつかキミはそう言ったよね、イルベルト」
「さぁ、私の記憶にはそんなものは一切無いが」
魔女の思惑――僕らがこんな風にループし続けるのは、霧の魔女による何かしらの目的があっての事なんだ。光明の見えた混沌の中で、僕は仮面に問い掛ける。その疑念に解を結論づける、ただ一つの質問を。
「教えて欲しいんだイルベルト、僕らの認識から八年後、つまりキミの観測で今の世界はどうなっているのか」
固唾を飲んだスノウが、僕と一緒にイルベルトを見つめる。……やがて商人は窮屈そうな屋根の下で足を投げ出しながら、両手を首の後ろに回し
ながら言い放った。
「その質問には答えられない」
「は――ッ」「え――」
僕とスノウの驚嘆の声が重なって、思わぬ声量になったので二人して互いの口元に手をやっていた。階下でお母さんが起きて来ない事を確認した僕は、次に太々しい態度になった魔導商人へと抗議の声を上げる。
「そんな!? この後に及んでまだそんな事を言うの? 前もそう言って肝心な所を教えてくれなかったんじゃないか」
「キミの知る、前の私……と言うのが本当に存在するとしたら、今現在この村の外の世界がどうなっているか、と言う点に置いて、私は口を閉ざしていた筈だ」
言われると確かに、イルベルトが以前に口を閉ざした内容も、今外の世界はどうなっているのか、と言う直接的な質問に対してだった。確か霧の魔女の思惑がどうとか、万が一にも背きたく無いだとか言っていたのを思い出す。それにしても、どうして彼はこうまでに霧の魔女に忠実であろうとするのか。スノウが言うように本当に霧の魔女の手先なのか、それとも魔族という存在にとって、あのエルドナの女王の名はそれ程に畏敬の対象であるという事なのだろうか。
僕の訝しがる様な細い目つきに、イルベルトは不敵に微笑しながら肩を揺らしていた。
「何故? と言う顔で私を眺めている様だから答えるが、繰り返しの呪いというのが本当に存在すると言うのなら、無論理由があってそうされているのであって、その先の行き着くべきではない結末は、キミらが壁を打ち破って確かめるべき真実であり、それこそが霧の魔女の課した試練であると思われるからだ、と私は答える」
「霧の魔女の……試練だって? キミは霧の魔女の何を知っているの」
僅かに黙した彼の様子に、緊迫した空気が張り詰めてきた。そしてイルベルトは口を開き始める。
「別に多くは知らないさ、魔族として知っていて当然の事位しか」
唇を尖らせたスノウが、鼻で笑いながらイルベルトに振り返る。
「どうだかね、イルベルトは霧の魔女の手先だから色々知っているのさ……いや待てよ、もしかしたら彼自身が僕らに呪いを掛けた張本人、霧の魔女なのかもしれないよ」
「霧の魔女がイルベルトに化けているって事? だけど霧の魔女には実体が無いんだろう? イルベルトにはこうして触れる事が出来る。そんな事あり得るのかなぁ」
荒唐無稽なスノウの言葉を繰り返すと、「ふぅむ、確かにその線はあるな」と相槌を打ったのは、まさかのイルベルトだった。ヌッと僕らの間に入り込んで来た彼に驚きながら、至近距離にある仮面の声を待つ。
「実はその線に関しては私も一考した事があってな」
「ぇ……?」
「……と言うのも、私は私自身の事を何も覚えていないのだ。自らの素性や、その過去さえも」
眉をひそめたスノウは、部屋の隅に座り込みながら傍観を決め込んでいた。イルベルトは身振り手振りと続けていく。
「知識があって魔導商人としての使命だけがあった。だがそれ以外の素性が何も思い出せない。自分が魔族の中で何の種族で、何をしていて、どう言う風に生きて来たのかもわからないんだ、まるで人格を塗り替えられたか、取って付けられたかの様な……そう、傀儡の様に」
彼が思いも寄らぬ過去を打ち明けた事で、イルベルトという人物に対しての理解がまるで無かった事に僕は気が付く。
「思い出せないって、一体どうして?」そう聞くと「はてね、何かしらの呪いだろう、キミらと同じでね」と返答があった。
「ますます怪しいじゃないか。あの霧の魔女ならば、記憶に改ざん位の芸当はしてのけるに違いないよ」
そうボヤいたスノウが僕を顎で促して来る。彼は自分の聞きたい事を僕の口から言わせたいらしい。こんな時にまで人見知りをしている彼に呆れ返りながら、僕は手で払い除ける仕草をしてから口を開く。
「記憶が無くても、自分が何の種族なのか位はわかる物なんじゃないの? ほら、例えばリズは耳が尖っているし、何か種族によって特徴があるじゃないか」
最もらしい質問であったと思うのだけれど、返って来たのは意外な一言だった。
「いや、わからないのだ」
アイコンタクトをして来たスノウが呆れ返っている事がわかった。イルベルトは自分の耳や、長細い手足を僕らに見せ付けながら力説し始める。
「少なくとも耳は尖ってはいないし、手足が異様に長い事から亜人と考えるのが一番自然ではある」
するとイルベルトは続け様に、そんなスノウを前のめりにさせてしまう位に興味深い話しをし始めたのだった。
「キミら人間はよく勘違いをしているが、霧の魔女は実体が無いのでは無く、実体が不明確なのだ」
それとこれでどんな違いがあると言うのか、僕がそう思っているとイルベルトは顎を揺すった。
「霧の如く不鮮明であるからこそ、その姿に定まった形は無い……要は実体はあるのだが、その姿は不鮮明で、自在なのだ」
「成程、霧の魔女であるのなら、その姿も偽る事が出来るのだから――わからない、か」
指先でこめかみを弾いたスノウが皮肉を込めて言うと、仮面はモゴモゴと答える。
「しかも彼女はその霧で、自らの使者の姿や記憶まで変異させたというのだから、考えるだけ無駄だろう?」
イルベルトはやれやれ、と仕草をしながら立ち上がったかと思うと、天井に頭をぶつけて中腰の姿勢になった。
「証明のしようも無い上に、登場人物全員が容疑者となると、とてもでは無いが霧の魔女を見つけ出すのは難しい、いや不可能だろう。もし仮にキミたちを苦しめるその呪いの真相が、この村に潜んでいる霧の魔女自らによるものであるとするならば、その真相はきっと迷宮入りだ」
そう言い切ったイルベルトは、そこで声音を重くして、重大な情報をその口から漏らした。
「魔女の霧をも晴れ渡らせるという、あの魔導鏡でも現世に再生しない限りな」
「“魔導鏡”……?」
「これもまた考えても詮無い事だよ。この世にもう存在しない、割れてしまった鏡の事などな」
恐るべき霧の魔女の能力を考察する間も無く、イルベルトは指を鳴らして僕らの注目を浴びた。彼は窓際ににじり寄りながら、後ろ手に投げ出されたままの懐中時計を指し示す。
「キミの言った証明の時間だ。さて、これによって私は身の振り方は大きく変わるだろう。もし繰り返しとやらが実在するのなら、私はキミへの全面的な協力を惜しまないだろう」
不敵に笑ったイルベルトの横に並んで、僕らは三人窓の外を眺める。
「さぁ――」
イルベルトがそう声を上げた次の瞬間、スノウの持った時計の針が〇時二十一分三十二秒を示す――
「こ――これはッ!」
「ね、言ったでしょう?」
ホワイトアウトする世界。白き霧が視界を覆い、時計の針が巻き戻っていく。説明しようの無い逆回転の景色――夜が終わって夕刻へ、曇天から朝の日差し、そのまま闇へ……
イルベルトが尻餅を付いた。そうして時計の針が止まるのを見届けると、彼は青褪めた下顎に汗を伝わせるまま、ニタリと口元を歪ませていった。
「誠に、スバラシイッ……この様な未知に巡り合えるとは……っ!」
余裕の無い声で、彼はクツクツ笑っていた。




