3 パンドラの箱
「十数年前、とある遺跡にて、旧人類が意図的に退廃させた科学の電子資料が発見された」
「前の世界の人が意図的に退廃……それに電子資料って?」
――電子と言うとキミらには聞き慣れない単語だろうが、王国の方では既に旧文明の復興が盛んなんだ、とイルベルトは続けていく。目の奥に宿る彼の緑色が、不気味に輝きだしていた。
「旧世紀、バイオテクノロジーの発展により、ヒトゲノム――つまり人を構成するDNAの全塩基配列は、西暦2022年に完全解読されていた事が判明した。これはその後の結末を予期した、旧人類の有志によって封印されていた重大なデータであったのだが、その全データがあろう事か、魔族との戦争中の現代人の手に渡ってしまった」
「DNAの完全解読って、人類を構成する遺伝子情報の全てが判明したって事? ……それに、魔族と戦争中の現代人って、きっとアルスーン王国の人の事だよね?」
「そしてヒト種という括りで、その祖先を共通させる魔族のゲノムもまた、それから遅く無い未来に完全解読される事となった」
捲し立てる様に続けるイルベルトは、仮面越しからでもわかる熱気を口調に孕んでいた。彼が何を伝えようとしているのか未だわからない僕であったが、僕らが知る筈では無かった歴史の一ページが、これから彼の口から語られるのであろう事が直感出来た。居住いを正していった僕は、目前で語る魔導商人の気迫に総毛立ちながら、辿々しく理解できた範疇のみを繰り返す。
「人と魔族の遠い先祖が同じで……互いのDNAが解読されて……それが何だって言うの? これまで治らなかった病気の治療が出来る様になったり、遺伝因子について知る事が出来るのは僕らにとって有益な事でしょう?」
困惑する僕の眼差しに映るのは、大きく揺れる長細い首。彼は頭の上から取り払った焦茶色のハットを何度か払いながら答えていった。
「発展し過ぎた文明は、知るべきでは無かった領域にまで……神秘の領域にまで手を差し込んでしまっていたのだ」
気圧されまいと気丈に振る舞った僕だったが、次に放たれて来た強烈な一言に、思わず背すじが凍り付いてしまっていた――
「知っているか? 科学の産み出した生物兵器とは今や、特定のDNAにのみ作用する事の出来る、実に無慈悲で倫理観を欠如させた悪魔の兵器と化している事を」
――生物を構成するゲノム(全遺伝子情報)の解読。その偉大なる化学の一歩は、僕らに有益な事だけでは無かった。――いやむしろ、人智が神へと迫り過ぎた事は、終焉への扉が開かれたのと、ある意味では同義であったのかも知れない。
イルベルトの言っているのは、ヒトゲノムが完全解読された事によって、化学はピンポイントで特定のDNAのみを害する事が可能になったという事だ。すなわちそれは、例えば白人のみを、例えば黄色人を、同じ人種でもとある地域の特定の部族だけを、同じ魔族でも特定のルーツを持つ者だけを……そんな要領で人は、魔族だけを殺す兵器を生み出してしまった。イルベルトはきっとそう言いたいんだ。
「人類は遂にパンドラの箱を開けた。開けてはならぬ禁忌の蓋を開いてしまったのだ」
「そんな、そんな事をしたら――ッ」
だから旧人類の人たちは、ヒトゲノムが完全解読されたというデータを封印したんだ……。僕らがまた、負の歴史を繰り返す事を予期して――
仮面を抑えたイルベルトは、過激になりかけた声を潜めながら言う。
「キミが今悟った通り、無慈悲な兵器を使用された魔族もまた、非人道的な魔術を用い始めた。でなければ自国の民を守れはしなかったから……だが人も同じ大義名分の元、より直接的で過激な兵器を持ち出し始める」
「段々とエスカレートしていって、歯止めが効かなくなっていった闘争……それじゃあまるで……」
「そう……あれはまるで、旧世紀の終末の歴史を垣間見ているかの様な、本能、思想、エゴ、善悪と信仰、それらが絡み合った渦とも形容出来る――まさしく混沌であった」
――核戦争によって破滅していった旧人類。その教訓を一つも活かせずに、僕らは繰り返し続けるんだ。
いつかイルベルトは言った、この戦争の勝者はどちらでも無いと。まさしくそれは、僕らの辿る愚かな結末を暗示していたんだ。
――信じていた大人たちは、僕らが思うよりもずっと汚れていた……。
俯いたまま、涙ながらにそう言いかけた時、僕の頭に触れる温もりがあった。頭上に感じる小さな手の感触は、イルベルトの物では無いだろう。
「スノウ……?」
「馬鹿馬鹿しい。彼の言う事を信じる必要なんて無いよ、レイン」
灰に世界を映らせて、憎々しそうにスノウがイルベルトを睨め付けていた。そして彼は吐息を荒ぶらせて言う。
「こいつはきっと、魔女の手先だから」
面と向かってそう言い放たれたイルベルトであったが、彼は何を考えているのか、微動だにもせずに静かな息を吐いていた。
何が真実で何処までが嘘なのか。全てがわからなくなった僕はスノウに抱き起こされた。そうして耳元で、僕を励まそうとする声を囁く。
「イルベルトは自分が魔族だから、僕らアルスーン王国の人間たちを貶めようとしてるんだよ。彼の話しに根拠がある訳じゃない」
スノウは必死に擁護するけれど、彼もまたイルベルトの話しの信憑性が高い事はわかっているだろう。……情けが無くて、流れ出しそうになった涙。けれど僕はその時に思い至り、グッと雫が垂れるのを目尻で堪えていた。
「どうしたのだ、レイン」
その有様を不思議そうに見下ろし、僕の名を呼んだイルベルトへと、思わず一歩踏み出す。仮面がギョッとのけ反って、彼のハットが地面に落ちた――そして僕は仮面に肉薄しながら問う。
「どうして僕らは、世界が混沌に染まり切る、その直前の世界に留められているんだろう?」
――僅かに動いた白い仮面の奥で、ニヤリと、イルベルトが口角を上げている気がした。




