2 化学と魔法
屋根裏の隅で、シーツに包まったスノウはもう眠っていた。途中で起きたら、信じられない来訪者の光景に悲鳴でも上げかねないと思ったけれど、僕はそのままスノウは寝かせておく事を選択した。
「……まるで、夢想と現実が渾然一体となったかの如き様相だ」
背を折って屋根裏に踏み込みながら、興味深そうに僕らの屋根裏を見渡していくイルベルト。周囲に取り巻いたロープ、太い枝、メモの山、その向こうにチラリと覗いた“ズーのウロコ衣”の片鱗を見つけ、彼は不敵に笑いを堪えながら顎に手をやった。
「二つとない筈の私の“ズーのウロコ衣”が、二枚もこの屋根裏に……ふっふっふ、これは大変だ大変な未知が起きている。私の商売も上がったりだな」
浮き足立った様子のイルベルトは、彼にとっては非常に窮屈であろう屋根裏の中で、四肢を折り畳んだ三角座りの姿勢で体を揺らしていた。何だか彼が僕らのセーフティゾーンに滞在している事に若干の違和感を覚える。大人が子供の秘密基地に紛れ込んでいる違和感、と言ったらイメージが付くだろうか?
「証拠を見せると、キミはそう言ったな少年よ。誠に妙な、この現象に……」
「うん、順を追って説明するよ」
頷く僕と、カタカタ揺れる仮面……
それから僕は――もう何度目だろうか、イルベルトにこの村の真実を伝えた。そこに存在する僕らのメモを見せたり、複製された彼の魔導具を見せたりして、話しは存外にスムーズに進行した。これまで見て経験した全てや、明日の壁越えの事も全て話した。彼はコクリコクリと頷き続け、スノウはやはり、こちらに背を向けたまま動かなかった。
「……成程。過去のキミが書いたというこのメモの山に、私の物であると間違いなく断言出来る筈の魔導具の複製品……それでもまだ色々と口を挟みたい所ではあるが、キミの言う、この繰り返しの最大の証拠とやらを待つ事にしようか」
この繰り返しを証明する最大の証拠は、やはり村を超高速で巻き戻すリセットの目撃以外に無いと僕は考えていた。僕らもその光景を目撃するまでは、こんな奇天烈な現象の何もかもが信じられなかった。だけどあの光景を前にしたら誰もが信じざるを得なくなるだろう。
リセットまでまだ数刻。小さな窓に打ち付ける雨粒を横目に、僕らは対面になって座り込む。
「それにしても少年よ、キミは明日、壁越えとやらを決行するのだろう。何故このような最終局面で、私のような得体の知れない者を理解者に引き入れようとしている? 私が言うのもなんだが、キミの計画に過不足が無いのならば、不安要素は排斥しておくべきだ」
「いいや、キミはそんな事はしない。それに僕はキミの事だってこの呪いから救い出したいと思ってるんだ」
首を振った僕を認めて、イルベルトはグイと顔を寄せながら言った。
「得体の知れぬ私にまで手を差し伸べようとするその善行には痛み入るが……少年よ、根拠無き盲信をするのが、キミら子どもの悪い所だ」
「……っ」
イルベルトはそう言うけれど、僕は信じるべき者も信じられなくなった、そんな大人にはなりたく無いんだ。それにこれは明日の予定を繰り越しているだけに過ぎない。と言うのも、僕らは明朝の六時半、村の東南の壁にて壁越えを決行するつもりだった。何故その時刻、場所なのかと言うとそれは――風穴から村に迷い込んだイルベルトに遭遇する為だったんだ。
「それで、私に何を求める? つい先程不可解な風穴からこの村に立ち入り、世界の全てをすげ替えられてしまった哀れな私に」
――よもや、何もわからないでいる私から魔導具の力を借りられるとでも思っているのか? と今にもそう言い出しそうな商人に、僕は指を立ててその鼻頭に向かわせた。
「キミに貸して欲しいモノはその体の重量だけさ。明日のキミも、複製した魔導具と繰り返しの事を伝えれば、それ位の助力はしてくれただろう?」
「重量……だと?」
「そうさ、リズだけだと足りないんだ。だからキミの体重を貸してほしい」
ふぅむと唸って僕から離れていったイルベルトは、屋根裏に積み上がった雑多を見回し、一度顎に手を添えてから両手を上げた。
「何を目論んでいるのか皆目見当が付かないな、くくっ……だが、実に面白そうだ。流石は人間、化学の申し子だ」
「化学?」
イルベルトの声をオウム返しにすると、彼は大手を広げて語り始めたのだった。
「そうだ、我ら魔族は魔法を扱うが、キミたち人間は化学を扱うだろう」
「化学って、そんなものが魔法と対立するモノだってキミは考えているの?」
「ん……何を言っている? 魔法で実現出来る事は大抵、化学でも再現出来るではないか、超常的な力を原理とする魔術ではそうはいかなくともな」
「そんな事は無いよ。僕らは魔法みたいに、見た目よりもずっと大きな物を収納出来るカバンや、こことは違う場所を映し出す水晶、姿を透明にするマントなんかは作れない」
「化学は物質の空気を圧縮してそのサイズを驚く程に小さくし、カメラという機械で何処の映像でも映し出し、戦場の兵士はその姿をカモフラージュして完全に自然に溶け込むでは無いか?」
僕がキョトンとしていると、イルベルトは仮面を傾げて「化学に対する認識が鈍い? いや意図的に鈍化させられているのか」などとよくわからない事をボヤいてから続けた。
「魔族は魔法を使って火を扱うが、人は化学を用いて火を扱う。至る結果は同じでも、キミらが我らの魔法の仕組みを理解出来ぬ様に、我らにとっては化学という人の領域が理解不能なのだ」
そこで僕はイルベルトの長細い指先が少し震えている事に気が付いた。
「知らぬのなら覚えておくといい、いや、キミたち人間は知らなければならないのだ……人の用いた化学という極地。あの想像も絶する恐ろしさを」
――すると彼は、窓に映し出された深淵に向かって語り始めたのだった。人と魔族、魔法と化学、対立したそれぞれが辿った奈落の命運。あの戦争に無秩序を生み出した、人の用いた化学の脅威を。




