2 フェリックス・メンデルスゾーンより――「春の歌」
卵の運搬を終えた僕らは、薄雲の下を並んで歩いていた。
先頭は僕で、その後ろでスノウが道に連なる花壇のレンガを渡り歩いている。……リズはと言うと、相変わらずすれ違う村人たちに合わせ、僕らの周囲をちょこまか動き回っているのだった。
「おはよう! アナタもおはよう!! アナタもーー!!」
「うわぁ、リズ。どうしたの、今夜は雪でも降るんじゃないか?」
「おは、よう……って、どうしたんだよアンタは急に」
「おはよーー!!!」
みんなの動揺も知らず、まるで何かに取り憑かれたみたいにビシビシと挨拶を繰り返しているリズ。セレナには馴れ馴れしいと言われてヘッドロックをされて、グルタには無言の眼光で尻込みさせられていたけれど、全然懲りて無い様子だった。
「ッオハヨーーーーっ!!!!」
「きゃあああ! なに、何なのアナタ?!! ビックリしたぁ!!」
とにかくリズは無我夢中に変わろうとしているのだった。昨日イリータに言われた事が余程こたえたのか、はたまた村のみんなの輪に加えて貰えた事を嬉しく思ったのか……村のみんなもその変貌ぶりにビックリしている。彼女自身にしたって、よく見ればその尖った耳を真っ赤にしながら目をグルグル回しているではないか。そもそも今が昼時で、おはようよりもこんにちはの方が適しているという事も失念した彼女は、暴走しているという表現の方がしっくり来る感じがした。
「まるで人が変ったみたいだよ。なにもこんなに急いで変わる必要は無いのに……ね、スノウ」
何か自分の本心を置き去りにしているかの様でもあるリズの乱心ぶりを前にして、僕は相棒に同調を求めた。だけどスノウは視線を足下へと向けて僕とリズを追い越して行った。
「案外そうでもないのかもよ……タイミングを逃した人間は、いつ迄も変われなくなってしまう呪いに掛けられるみたいだから」
「呪い?」
何がそう気に入らないのか、不服そうにしたスノウの足取りに気付く事が出来たのは僕だけだろう。
*
それから僕らはイルベルトの元に向かった。リズの両親の指輪は間違い無く値打ち物で、今もまだ彼女が持っているのだけれど、それでもこの指輪に“ズーのウロコ衣”に見合うだけの価値があるのか、と言うのがまだ分からないから確認しに行ったんだ。
けれどそんな心配は杞憂であったと僕らは知る……
「こ……これは……ッ!」
ひっくり返りそうな様相のまま、ポケットから取り出した鑑定用ルーペを覗き込んだイルベルト。そんな反応が意外で僕もまたリズと不安な顔を突き合わせる。ややばかりすると、いつも冷静沈着な彼らしくもない上擦った声が、その戦慄いた口元から発せられ始めた事に気が付いた。
「“妖精石の指輪”……これは私の持つあらゆる魔道具を持ってしても、見合った対価を用意する事が叶わない奇跡の産物だ」
今イルベルトに見せているのは赤い指輪の方だけで、もう一つの緑色の指輪はまだリズのポケットに秘められているのだけれど、それでも彼は大層驚いた様子で、指輪を摘んだ指先を震えさせていた。
「なんという……誠に信じられない、何故このような品物がこのような僻地、それも人の里に……?」
それにしても、たった一つの指輪でこれ程の驚きようとは、リズのポケットに忍ばせたもう一つの指輪を見せたら泡を吹いて倒れるんじゃないか、なんて思っていたら、イルベルトの視線が僕へと差し向いた。
「少年よ。これには対となるもう一つがあった筈だが、そちらは無いのか?」
……残念ながら、彼は全てをお見通しのようだ。ギクリとした僕だったけれど、ブンブンと首を振ってシラを切り通した。するとイルベルトはこちらを疑う素振りも無く、とても残念そうに肩を落としていた。魔道具の事となるととても純粋な反応を見せるイルベルト。
「ねぇねぇ“妖精石”ってなんなのイルベルト。お父さんは私に何を残してくれたの?」
膝下から問い掛けられ、そこで何やらじっとりとした視線をリズへと投げ掛けたイルベルト。
「……?」
程なくすると仮面の口の部分をコツコツ弾きながら話し始める。
「エルフの少女よ、キミは両親からこれがどれ程の物かを伝え聞いてはいないのか? とても信じられない事だ」
腰から体を曲げながら、頭に「?」を浮かべたリズがイルベルトに眉間を寄せて見せる。
「だからなんなの〜、これは一体何で、どういう指輪なのか教えてよ」
頭上のハットを外して反転させたイルベルトが、ルーペをハットの中に仕舞い込んで膝頭に置いたままにしている。そうして彼は一人悟っているかの様に続けた。
「いや、キミの父上が、キミに人として生きる事を望んだが故か……」
――ほう、と空に息を吐く仕草は彼なりの脱帽した様子の現れなのか知らないが、手元の赤い宝石を僅かに差した陽光に照らしながら、イルベルトは感嘆としたままの声で続けていった。
「人として生きていくべきキミに、父上はこの指輪の事を伝えるべきでないと考えていた様だが、私は商人でキミは客だ。商談をするにあたっては、最低限の説明が義務とも言えよう」
興奮しきったリズにヒラヒラと掌を振ったイルベルトは、一度咳払いをしてから長い脚を組んで話し始める。
「……エルフの中でも限られた者は、妖精の声を聴き、心を通わせられたと言う」
「妖精!? まさか、この石の中で妖精さんが生きているっていうの?」
「生体ではないが故、生きるという概念とはまた違うが、まぁ端的に言えばそういう事だ」
「妖精って……なんだか、おとぎ話でも聞いてるみたいだわ」
魔族である事をひた隠し、人として生きてきたリズはエルフの特性さえも知らず、無垢な視線で同族の白い仮面を見上げ続けている。
「お父さんは、この指輪が私の指にピッタリとハマる時、夢を叶えてくれるって言ったわ。もしかして、この石の中に居る精霊さんの力が使えたりするの?」
「確かにここに秘められた妖精の力というものは存在するが、それを解放出来るのは妖精と心を通わせられる偉大なエルフのみ。指にピッタリとハマるというのは大人になるという意味で使用されたのだと思われるが、キミが立派に成長した所でこれを扱えるのかは疑わしい所だ、何せ妖精の声を聴ける者などエルフ族の中でも僅か一握りだと言うのだから」
少し儚そうな表情を見せたリズ。やっぱりお父さんが残してくれた大事な指輪を手放すのが名残り惜しいのだろうと僕は思った。
「……やっぱり、やめようリズ。他の方法を考えてみる。大切な指輪をここで失う事なんて無い」
けれどリズは首を振って僕の提案を拒絶する。
「ううん、いいの。だってこの指輪が私の指にハマる未来はこのままだったら一生訪れないんでしょう? いつまでも指にハマらない指輪なんて、そんなの虚しいだけだよ」
いつになく強気のリズに僕はたじろぐ。
「それに、どっちにしろエルフの血が四分の一しか流れていない私に妖精の声を聴く事なんてきっと出来ないわ。お父さんが言ったように、夢が叶うなんて事も無い。私はロマンチックな指輪の飾りなんかよりも、みんなで“明日”に行くべきだと思うんだ」
揺るがぬサファイアの青が真っ直ぐに僕らを見ていた。
僕らはいつ突然のリセットで全てを忘却させられるのかも分からない。対処不能の災厄に襲われるその前に、迅速に呪いの外に出なければ勝機は無い。その為にはやはりリズの両親の指輪が必要だ……それを理解してしまっていた僕の口からは、それ以上彼女を制止する言語は出てこなかった。――リズの決意。それに報いる為にはもう、この呪いを打ち破る以外に方法は無かった。
下を向いて拳を握ると、イルベルトは長い指先を逆手にしてリズの方を示した。
「妖精の力とは、心に思い描いた物を具現化する力。しかしその効力は一時的で、一度使用すればその力も失われると言う」
するとリズはあえて詮索する様子も無く何でもなさそうに笑ってみせた。
「なーんだ、何でも叶う訳じゃあ無いのね。それに一度きりなんて」
目一杯に伸びをしたリズは、心にあったモヤモヤが晴れた、と言った満面の笑みを僕らに振り返らせた。
「お父さんが私に何を残してくれようとしたのか、それが分かっただけで充分だよ!」
笑顔に差した僅かな影。僕はイルベルトへと振り返っていく彼女の後ろ姿に手を伸ばす。だけど彼女の口からは早々と、目前の魔導商人を飛び上がらせる提案が打ち出されていた。
「イルベルト、貴方の持つ“ズーのウロコ衣”と、その赤い指輪を交換して」
仰天した様子のイルベルトの吐息が、仮面の向こうで荒ぶり出したのに僕らは気付いた。そうして彼はこの商談に大きく首を縦に振ると、立ち上がり、華麗なお辞儀をリズに見せながら、他に欲しい物があれば何でもお渡しすると僕らに伝えた。
リズの手からそっと“妖精石の指輪”を摘み上げたイルベルトは、今一度その輝きを眺めてから、大事そうにそのハットの中に仕舞い込んだ。代わりに僕らの手元には、死の霧を攻略する為の“ズーのウロコ衣”が手渡される。壁越えを果たす念願のキーアイテムを手に入れた僕らは手を上げて喜びあった。
「やったよリズ、スノウ……っ!」
「うん、やったやった!」
困った様な顔をして、スノウもまた微笑していた。
――いよいよ僕らの手の中に、この呪いを解く為の鍵が揃った。あの壁を越えて“明日”へ向かうには、あと少しの準備が必要なだけ。
僕らの中で止まっていた秒針が動き出すのに、もうきっと時間は掛からない。
*
それからの夜会で僕らは、晴々しい気持ちで音楽と食事を楽しんだ。“明日”への見通しの立った今日この日は、僕らにとって特別な意味を持つんだ。他のみんなにとっては変わらない一日でもね。僕は久々にお腹の底から笑い転げて、リズは気の済むまでご馳走を詰め込んで幸せそうにしていた。スノウのピアノも何処か軽快で、選曲はフェリックス・メンデルスゾーンの「春の歌」だった。
――麗かな春の日差しを思わせる幸せな旋律が、暖かな風に七色の花弁を乗せて流れていく。
「スノウが、笑って……っ」
いつも無愛想に演奏しているクセに、珍しく、朗らかに微笑んだスノウの横顔を見る。跳ねる様に体を揺らすその楽しげな姿が、いつかの記憶とダブって僕の胸を締め付けた。
お母さんが居て、リズが居て、スノウが居る。みんなが笑っている。何百何千と繰り返した今日から“明日”へ、このままのみんなで“変わらぬ明日”へ。
まだ見ぬ未来には何が待っているだろう? 楽しい事ばかりじゃないかも知れないけれど、スノウと一緒ならどんな困難だって越えていけるんだ。
遠目に眺めた彼の背中に、僕はこう囁き掛ける。
「僕ら二人に出来ない事なんて無い。そうだろうスノウ」




