2 淀んだ水
カゴ一杯になるだけの卵を収穫してきた僕とスノウは、どんよりとした空の下を歩いていた。
陽気に歌うおばさんに、手を繋いで僕らを追い越していった幼い少女。井戸の水を汲む若い女性と、フルーツを抱えた黒髪の女性……この小さな集落では全員と顔馴染みだ。
「よう卵屋」
レンガの花壇が続く大通りを歩き、古ぼけた井戸を通り過ぎた辺りで不意に声を掛けられた。声の方に向くと、神の悪戯かのようなタイミングで、風に乗った木の葉が彼女の鼻先を撫でていくところだった。
「ちょっとお前に聞きたい事が……へぇ、へぇっ……ッへぇッくしょい! あぁちくしょうめ!」
庭先に吊るした干し肉を下ろしながら、赤毛のお姉さんが鼻先を擦りながら渋い顔をしている。僕は彼女を象徴するようなそばかすと、横で結んだ目の回る位カールした髪を見つめてムッと眉を下げる。
「僕らには名前があるんだから、その呼び方止めてって言ったじゃないかセレナ」
「あ〜? 卵家なんだから卵家だろうが」
この村では各家庭に役目が与えられ、村全体で自給自足の生活を営んでいる。僕らウィンセント家に与えられた役目は鶏の飼育と卵の管理、つまりセレナはチーズ屋だとかブドウ屋だとか、不躾にそんな名称で皆を呼び付けるんだ。
腰に手をやったセレナが、てんで僕らの要求を飲み込んでくれ無さそうに右の口角だけを上げたのを見て僕は付け足した。
「嫁入り前の若い女の人が、そんなに汚い言葉遣いをしてて大丈夫なの、貰い手がなくなるよ?」
「年頃の男なんてみーんな兵役に行っちまってるんだ、まだ帰って来てねぇからセーフだよセーフ」
黙っていれば奇麗なのにな、なんて思いながら、僕は一人ため息をついた。そうして先程からだんまりを決め込んでいる相棒に目配せしようと振り返ると、彼が僕の背中にすっぽり隠れてしまっている事に気付く。
スノウのこのような反応を僕はつい先日までただの人見知りかと考えていたが、どうやら違う。退屈そうにした表情に、拒絶するように寡黙に徹した態度……スノウは多分、ひたすらに興味がないんだ。その事に僕は、最近になってようやく気が付いた。
「……なぁところでレイン」
ふくれっ面で過ぎ去ろうとした背中にまた声が掛かる。スノウと一緒に振り返ると、セレナは頬を掻きながらこう尋ねてきた。
「うちの爺さんを見てねぇかよ、それと小麦屋の所の婆さんも。何だか、今朝方から姿が見えねぇんだ」
爺さんというのが、セレナと一緒に暮らしている、彼女の祖父のオルト爺さんの事だということはすぐにわかった。小麦屋の婆さんというのはフィル婆さんだ、もちろんわかる。僕とスノウが顔を見合わせていると、その返答を察したか、セレナは大して気にした風も無く手を振り上げた。
「ま、この村もだだっ広いからな、どっかで道草を食ってんだろ。終戦でみんなが浮かれてんだ。石の壁もあるし、万一外に出ちまうなんてこともねえだろうさ」
二人ともかなりの高齢だから少し心配だけど、大方畑や家畜の世話に出掛けたんだと思った。日々それぞれの農業をする僕たちに、休みなんてものは、嵐の日くらいしかないのだから。
……だから、気にしなかった。
*
石畳を歩いて酒場にたどり着いた僕らは、開け放った扉にもたれかかりながら豚鼻を鳴ら巣、太ったおばさんの掠れた怒声で迎え入れられた。
「あ、やぁっと来たね。奥に運んで頂戴、卵がなけりゃあ始まらないよ!」
汚れたエプロンを前にした調理係の酒場のおばさん――グルタに追い立てられるままにキッチンに卵を置いた僕たちは、一息ついてまたカゴを持った。約五十人の村人が全員集まるんだ。卵の十個や二十個じゃあまるで足りないから、町の中心部にあるこの酒場から、最南端にある養鶏場まで何往復かしなければならない。いそいそと酒場を後にしようとすると、腕まくりしたグルタにリンゴを一つ投げ渡された。
「お昼はまだだろう? 新鮮な卵を頼んだよ」
「新鮮な卵と言ったって、村に鶏は二十羽しか居ないんだよ? 一羽につき一日一個しか卵を産まないんだ。今持ってきたのだって昨日のさ、一昨日のだってある」
「オッケーオッケー。なんでもいいから持ってきて頂戴」
「なんでもって……もうグルタ、こっちの気も知らないで」
何だか釈然としないまま酒場を出て、一つしかないリンゴをかじり合いながら歩いていると、スノウがサッと僕の背後に回った。目を凝らして前方を見ると、豆粒みたいに小さな影が、頭にミルクタンクを乗せて走って来ているのに気付いた。やれやれと言った感じで僕は眉を下げる。
「いい加減みんなと仲良くしたらどうなんだい。病弱だった昔の頃とは違うんだ。僕はもうキミとみんなの仲を取り持ったりはしないんだからね?」
「……」
「それにティーダもキミと同じ病弱体質、いわば病弱同盟じゃないか」
「なんの同盟なんだよそれは……キミってたまにデリカシーが無くなるよね」
表情一つ変えずに黙々と口を開くスノウ。やがて僕たちは山羊のミルクを運ぶ色黒の少年とすれ違った。背丈や体格は同じ位だけれど、彼は僕らより少し年下のティーダという少年だ。ニコリとこちらに笑みを向けて「じゃあ夜会でな」と言って走り去っていった。どうやら随分と忙しくしているらしい。
「スノウ……あいつはいい奴だろう? よく僕らを“狩人ごっこ”に誘ってくれる」
「誰かを尾行するだけの悪趣味な遊びだろう。僕はわざわざ他人に干渉したくないだけだよ」
冷めた瞳でティーダの背中を眺めて答えるスノウ。彼は毎回僕らを妙ちくりんな遊びに付き合わせるけれど、なんだか憎めない奴なんだ。
首を振った僕はスノウに言った。
「そんな調子で、今夜のキミの役目は全うできるのかい?」
僕が言っているのは、今日の夜会でスノウが披露するピアノ演奏の事だ。今でこそ僕の役目である卵係を手伝わせてはいるが、朝に言っていたスノウに任された役目とはまさにその事なんだ。そんな僕の心配も虚しく――
「大丈夫」眉根も動かさない平坦な声が返って来た。
まともに他人の目も見れない癖に、人前に出て演奏なんて出来るのか、なんて思うだろうけれど、スノウはきっとなんでも無いような顔をして立派な演奏を披露して見せるんだ。――だって彼はただのピアニストとは違うから。
スノウはピアノの天才だ。こんな時代じゃなかったら、きっとその道を歩んでいた逸材だったと思う。村のみんなもスノウの奏でるピアノが大好きだ。
――でも僕はピアノを弾くスノウが、あまり好きではなかった……。
貰ったリンゴをシャクシャクかじり、空っぽのカゴを手元で遊ばせていると、村のみんなの会話が聞こえて来る。スノウはレンガの花壇を渡り歩きながら僕について来ていた。
「じきに戦争に行った男たちも帰ってくる」
「そしたら村は復興していくんだろうね、もう魔女の脅威は無くなったんだから」
「変わるのさ、この村は」
――これから村が変わっていく。
何処か浮足立った明るい喧騒。長い戦争が終結したという知らせは、果ての見えない暗黒に一筋の光が射したのと同じだった。いま村人たちの瞳に映るは、未来に対する希望の狼煙。争いが終わり、輝かしい未来へ向かってみんなが変わろうとしていた。
「ねぇレイン。村が変わっていったら、僕たちも変わるのかな」
そう問われ、背後にあったスノウの灰の眼差しを見下ろした僕は、心に起きた言いようの無い感覚に拳を少し握った。
「変わらないさ、僕らはずっと二人で一人だ」
僕たちはいつだって一緒なんだ。それは変わらない。これまでも、これからも……。
スノウの瞳に反射した僕の瞳は、少し濁っているように見えた。流れる事をやめて、淀んでしまった水のように。




