9 フランツ・リスト『3つの夜想曲』第三番より――「愛の夢」
何時になく、酒宴の席に笑いが漏れるのは、そこに新たなる家族を迎えた為か、少女がテーブルに並ぶ絶品の数々を頬に詰め込み、恍惚の笑みを浮かべるが為か。見ているこっちまで嬉しくなる魅惑の笑みに、明るい声が増していく。隅に追いやられた少女の席が、何時しか村人たちの中心と変わり始めていた。
――僕もそこで共に、キミを眺めていたい。
僕はそこにありながら、むず痒い一念を胸に秘める。
イリータの肩を抱き寄せられ、好物のとうもろこしを口に突っ込まれたリズはこの時、初めてスノウのピアノを耳にする事になる。
フランツ・リスト『3つの夜想曲』第三番より――「愛の夢」
甘く艷やかで、ゆったりとした愛の情緒が、
華やかしき時代を回想する様に――
――切なく。そして儚くも、あの全盛と甘美とを口中に思い出すかの如く、実直に綴られる……
とろける瞳で肩を揺らせ始めたみんなの中心で、リズは脱帽とした顔で立ち上がり、頬に付いたコーンを落とした。
「嘘でしょう……」
そう囁き漏らし、壇上に座した白き月明かりに照らされたスノウの姿を、ゆっくりと仰いで――
確かに想起される、かつての二人の甘き恋慕。
フランツ・リスト――その名を聞けば、前衛的で派手な超絶技巧演奏を想像するだろう。
けれどこの曲は違う。
普段の楽想には、何処か人外めいた様相を窺わせるリストだが、この時この一曲に置いては、派手なテクニックを披露する事もなく、僕らと変わらぬ一人の人間として、月並みで、されど尊大な、愛の等身大を調べに乗せた。
……まるでそう、装うかの様に。
狂気めいたまである楽想を時代に刻み続けた――“ピアノの魔術師”と呼ばれた彼が自分自身を、ただの人間であると、白々しくも、我々に表現しているかの様に。
「スノウ……」
リズはそう言って口に手をやると、とろけた瞳で天窓からの月を追った。そして優しき物語に没入していく。
人生という船に揺られている様に、旋律は優しく流れ続ける。
テーブルでスノウの演奏を聴いていた僕は、この呪いの最後を祝福する様な優しきメロディに、思いを馳せる。
これは呪いじゃない?
外の世界はどうなっている?
どうしてイルベルトは話してくれない?
突然のリセット。
その条件とは?
夜半に感じる壁の崩壊音。
風穴とは、死の霧はどうなる?
殻を破ったリズ。
彼女への気持ち。僕の気持ち。
あらゆる影がまだ、その姿を見せてはくれない。このステージを望む客席の奥で揺らめいて、黒に徹している。
自分の声の余韻が脳に響き込む。
「だけど関係ない。この呪いを終わらせる為のピースはもう……」
ここに居るみんなで、村のみんなで、あの壁を越えた“明日”に行く。
あとはイルベルトから、死の霧を越える為の“ズーのウロコ衣”をどう手に入れるかだけだ。
突然のリセットが起こるよりも早く、僕らは全てを終わらせて見せる。
――流れていく音の煌めきが、雄大なる大河となって、僕たちの夜空に掛かる壮大なる光の川に輝きを散りばめた。
揺れて、流れて、流動体のように変わる煌びやかを――僕らは圧巻と、ただ眺める。
おそらく最盛期とも思われる一人の生涯の栄華がそこに花開いている。
こんなに楽しい夜は無い。こんなに晴れやかな気持ちは無い。リズが居て、お母さんが居て、みんなが笑っている。僕らを八年もの間忘却させ続けたこの呪いの終止符が、もうそこに見えているんだ。
あらゆる謎が残されていても、その核心に刃を突き立ててしまえば結末は同じだ。
失敗したって何度でも挑戦してやる。屋根裏に残した痕跡は残り続けるんだ。何度リセットされても僕らはまたこの事を思い出す。
大丈夫……同じ時を繰り返し続ける僕らには、無限の時間があるんだから。
踊る。リズと踊る。スノウとも。僕は夢想の中で、素晴らしき生の絶頂を感じ得る――
いつまでも、いつまでも――変わらずに、ずっと……
緩やかに、そして優雅に、船に揺られるシーンに戻る。
このドラマチックなる恋が生涯続いていくと信じ、そこからはただ、二人だけの緩やかな時間が流れていく……
時に、リストの「愛の夢」には歌詞がある事を知っているだろうか?
その歌詞は、こんな書き出しで始まり、最後にこう繰り返して終わる――
おお、愛しうる限り愛せ!
愛したいだけ愛せ!
その時は来る その時は来るのだ
キミが墓の前で嘆き悲しむ時が
ゆったりと変わり、何処か甘受する様に、潰えし最期の瞬間を想起させたまま……
終わりし時に、あの頃の輝きを微かに覗かせて――スノウの奏でた夢は、その生涯を終えた。
楽想が終わると、村のみんなのスタンディングオベーションが待ち受けていた。煌めき目元に止まない喝采。
天窓からの薄明かりに照らされた天使を――
「スノウなのね……」
リズは、とろけるような視線で見上げ続けている。
*
「私、変われるかもしれない」
リズはそう言った。酒場の前、ランプの下で行き交う人々の影が家に帰っていく雑多の中で。
「アナタのお陰よ……大嫌いだった、意気地なしの自分から」
村の何人かがリズに声を掛けて雨の中に消えていった。これからよろしくね、だとか。明日畑を教えてやるとか言ってみんな微笑んでいる。僕らはそれを何も言わずに眺めていた。
「ありがとうみんな……また、明日ね」
じっくりと間を置いてリズは手を振り返していた。その刹那に何を思っていたかを知っているのは、今レインコートを深く被り、雨の中に佇んでいるスノウと僕だけだ。
やがて喧騒は鎮まり、僕とリズの二人は額を突き合わして俯き合った。音を立てて跳ねる水飛沫の中で、話し出したのはリズが先だった。彼女の顔を目と鼻の先に、きっと赤らんでいるであろう鼻先を隠すようにチラと見上げる様にする。
「私ね、この繰り返しを終わらせたいって思った」
「リズ……」
「ずっとこのままで良いって思っていたのに、変だよね。今はもっと変わりたいって、そう思ってる」
「変なんかじゃない。変わろうと思えたのは、キミ自身の成長だ」
するとそこで、僕の首を捕まえてリズは言った。至近距離にある蒼穹の様な彼女の虹彩に、僕の灰色が混ざり合う。
「私ねレイン、いつまでも子どもでいたくない」
その言葉は何故か、僕の心にグサリと針を突き立てる。
「私、もう弱かった頃の自分には戻りたくないの。みんなと一緒に“明日”に行きたいんだ」
僕らは頷いて、彼女の決意を確かに受け止める。開いていた掌を握り、ピョンと飛び跳ねたリズは八重歯を見せて微笑んだ。
「スノウのピアノ、本当に凄かったわ。私、あんな風にピアノが弾ける人を尊敬する」
「うん、そうだよね……スノウは凄いんだ、本当に。僕なんてまるで、彼には敵わない」
「凄いのはアナタもよ、レイン」
「え、僕? どうして?」
「……」
不可解な沈黙が僕らの間に流れたその時、お母さんが僕らを呼ぶ声に気付く。
「もう、行かなくちゃ」
「うん、また明日ね、レイン、スノウ。明日も同じ時間に行くわ。また卵係を手伝わなくちゃ」
リズは変わる事を願い始めた。彼女にとっての進歩であるその結果を、僕は素直に嬉しいとそう思える。
――だけど、僕は自分自身の事はわからないままだった。
変わりたいけれど、変わりたくない。成長したいけれど、大人になりたくない。知りたいけれど、都合の悪い事は知らないでいたい。“明日”を迎えたいけれど、キミと変わらずに居たい。
二律背反としたこのモヤは……霧みたいに曖昧なこの感情は、僕らが子供だからこそ抱く葛藤なのだろうか。




