7 止まった刻の中で生き続けていた
「リズ。夜会に行こう」
イルベルトと別れた夜の道で僕は、雨に濡れるまま振り返った。
「え……」
そこに現れたのは、昨日と同じ困惑する面相。街灯に照らし出される彼女の背中で、スノウが額に手をやりながら呆れている。
「今日キミは、勇気を出して僕に言ってくれた」
「……」
「少しでも変わらなくちゃって、変わろうとしてくれた」
「それは……でも……」
「僕らと一緒に村のみんなと過ごしてどうだった、どう思った?」
「……」
「みんなキミに良くしてくれた。一生懸命村のために働くリズに、悪いことを言う人なんて居なかった。キミを遠ざけていたのは村のみんなじゃない。キミ自身だ」
強く首を振ったリズの毛髪が雨粒を飛ばす。
「ダメだよ……それでもやっぱり……夜会には村のみんなが来るし、きっと私の事を嫌だって人も居る」
「リズには僕らが付いてる。セレナやグルタだって――」
「ごめんなさい! やっぱり私っ、アナタたちの大切な夜を、私一人のせいで壊せない」
いつかのように走り去って行ってしまったリズ。夜に消えていった小さな背中を掴もうとして、僕の手は余りにも遅く空を握っていた。
「レイン……」
「ごめんスノウ……」
呆れた顔の相棒の前で僕の脳裏に過っていく。闇に浮かんだ二つのブルーサファイアが潤み、丸から楕円に形を変えて、黒に軌跡を描いて消えていった光景を。
「また彼女を傷付けたね」
「そうだね、そうだ……」
魔女の呪いを抜け出す算段が付いて、僕は舞い上がっていたのだろうか? 彼女の気持ちを蔑ろにして、独りよがりの気持ちを押し付けてしまったのだろうか?
「焦ってはいけないよレイン。彼女はゆっくりと変わり始めている、それでいいじゃないか。人それぞれにペースがあるんだ。僕らの普通が、他人にとっても普通なんだと思ってはいけない」
スノウの肩に頭を寄せて、しばしと蝋のように固まった。細く美しい指先が、僕の髪を指で梳き始めたのを感じながら、少しだけ、彼の肩に乗せた顎を浮かせる。
「わかってる、でも……」
「でも……?」
朗らかな笑みを浮かべた二つのえくぼが今、閉じた瞼の裏に思い起こされていた。何故だか顔が火照って胸が締め付けられる。だけどつい今しがた僕の前から走り去っていった彼女は、とても悲しそうな顔をしていた。
「彼女の笑顔を守りたい……きっと、僕がそうしたいんだ」
「そう……」スノウが僕の髪を撫でるのを止める。
一人で越えられない壁は、手を取り合って乗り越えればそれで良いじゃないか。人に助けを求めるのもまた強さだ。一人で乗り越えることが偉いんじゃない。助けを求めることは恥ずかしい事じゃない。見返りだって考えなくていい。いつかキミがそうされたように、誰かに手を差し伸べられればそれで良いんだ。
スノウは空を見上げて、掠れた声を出していた。
「わかるよ、その気持ちも痛いほど」
彼女は変わろうとしている。あと必要なのは、手を取る勇気だけだ。
*
僕らはお母さんを連れて、いつもより三十分早く家を出た。
「何処にいくのレイン?」
酒場の席に着いたお母さんに少しだけ待っていてと伝え、僕らは酒場を飛び出した。
夜の風を切り抜けて前へと進む。けれど今の僕に打算的な何かがある訳では無い。ただあのままでは居ても立っても居られなくって、それだけの理由で僕は今、冷たい雨に打たれてるんだ。
「おいおいレイン、これから夜会が始まるって言うのに、主役のお前が何処に行っちまうんだ?」
目を丸くしたセレナにすれ違う。進行方向はもちろん反対。僕は答えずに一生懸命に東を目指し続ける。
「これから夜会だよ?」
「どうしたの、滑って転んだら危ないよ」
「ピアノはどうするのさ」
僕は跳ねる泥に濡れるのも構わず、胸に抱えた大切な物を落っことさない事にだけ注意を払って走る。濡れた髪が顔に引っ付いて鬱陶しいから、走りながらポケットの革紐で器用に髪を結んだ。こうしているとスノウとまるで見分けがつかないけれど今は関係ない。口元に揺蕩う白い息を荒げ、僕らは村の東の壁に辿り着いた。
「時間はっ?」
「……夜会の開始まであと十六分だ」
懐中時計を手にしたスノウを置いて、闇夜に小さなランプが浮かんだリズの家の玄関まで駆けた。そうしてレインコートのフードを外し、髪を結んでいた紐を解く。そろそろと胸に抱えた物を慎重に確かめながら、僕は鉄のドアノッカーを叩く。するとすぐに古びたドアの向こうから震えた声が返ってきた。
「なんでレイン……夜会に行ったんじゃ」
「開けてリズっ」
「なに、どうしたの? でも私、やっぱり夜会には」
「いいから開けて――っ!」
絶え間のない僕の息遣いにやはり動揺している様子のリズ。しかし彼女も降りしきる冷たい雨を窓の向こうに見たか、程なくすると錠を外して扉を開け放った――
「びしょ濡れじゃないレイン。でもごめんね、私を夜会に連れ出そうっていう話しなら――」
口の端の両方を下げたリズに、僕はレインコートの中――その胸に大事に抱えていた一輪の花を突き出した。
「これ、キミに似合うと思って」
目を瞬いたリズはその手に受け取った小さな植木鉢に視線を落とし、瞳の陰りを消し去っていた。
「これ“ロンドベル庭園の魔草”? なんで? だって昨日までまだつぼみで……」
驚きを隠せないままの彼女の視線が、銀の茎の先に開かれた薄紅の大輪に注がれて止まっている。そうして下唇を軽く噛むと紅の差した顔を上げた。僕はそんな彼女を見下ろすと、考えていた台詞も全部すっ飛ばしてしまって……そこからはたどたどしいだけの言葉を一つ一つ紡いでいくだけになってしまった。
「あのつぼみが、こんなに美しい色の花を咲かせるなんて……キミは予想出来た?」
目が飛び出すのではないかという勢いで首を振ったリズを認め、僕は続ける。
「上手く……なんて言うべきかわからないんだけど」
「え……」
「こんな感動の連続が、未来で僕らを待ってる気がするんだ」
止まった刻の中でだけ生き続けた僕らが、一生涯出逢えぬ筈であった“明日”。繰り返される演劇の、その終幕の向こう側の物語へ行こう。
僕は宝石のように美しいキミの瞳に飲み込まれながら口を開く。リズもまた穴が開く位に僕の灰の瞳を凝視していた。
「一緒に行こう。“明日”に」
広げた僕の指先にリズの温かい吐息が掛かった。すると彼女は一度瞳を閉じた。
「泣いているの?」
頭上のランプに照らされて、彼女のまつ毛が斜めの影になって落ちる。僕はリズの顔に掛かったその影が震え始めた事に気が付く。
思わず引っ込ませようとしたこの手を、彼女の両手が確かな力で包み込んでいた。
「……私を連れ出してくれるのは、アナタなのね」
目前に、僕の胸を焦がす、満面の笑み。




