3 “風穴”
リズが手伝ってくれているので、いつもは三往復する卵の運搬が二回で済む様になった。その二度目の卵をカゴに入れて運んでいる最中だった。
「そういえば私、朝イルベルトを見掛けたわ、東南の壁伝いに立ってオロオロしていたよ」
「えっ!」
まるでなんの気も無しに、さも何事もなく天気の話しでもするみたいに、リズはそんな事を伝えたのだった。飛び上がった僕は彼女の肩を掴んで振り返らせていた。
「いつ? どこで?!」
「う〜ん、時間は多分七時位。私は今日壁伝いに二人の家に行ったの。ほら、壁の近くには余り家が建っていないし、日陰になるからひと気も少ないでしょう? そしたらね、その途中に見掛けたんだ。私の家から二十分程歩いた辺りかなぁ」
この様にリズは何だかポヤンとしている所があるので、問い掛けないと何の悪意も無しに重要な情報を黙っている可能性がある。それを伝えた所で、彼女自身がそれを重要だと気付いていない以上無駄なんだろうけど。
「イルベルトは何て言ってたんだい?」肩を落とした僕の横から、スノウがそう問い掛けた。するとリズは困った風に唇に指先を添えて「混乱していたわ。まるで今この村に迷い込んだみたいに」と答えた。
その瞬間に、僕の脳内にイルベルトの話していた一つの単語が呼び起こされる。
――風穴。
「イルベルトはきっとそこから村に入ったんだよ。外から見ると、そこに大きな穴が空いているんだって言ってたんだ」
イルベルトは石の壁に空いた風穴からこの村に侵入したと言っていた。……その風穴というものがいつ空いたのか、何なのかは分からないけれど、一度行って確かめてみよう。何かヒントが隠されているかも知れない。
*
卵の運搬を終えた僕らは、リズの言っていた村の東南の壁を訪れた。
「なーんにも無い。ただ草の伸び切った荒れ地よ」
リズはそう言って、壁を仰ぎながら欠伸をした。切り立った壁の向こうには、一本の大木と灰色の空が広がるばかりだ。
ここは民家からも離れていてひと気も無く、草も伸び切って地面からは無数の岩が突き出している。何処か荒廃とした印象……だからだろうか、立ち並ぶ壁の無骨さだけが際立ち、鬱々とした雰囲気に満たされて来る気がする。
「ここに風穴が……?」
何処を見ても、平坦に並ぶ壁に綻びは見当たらない。やはりここに穴が空くのはこれからずっと未来の話しで、イルベルトが立ち入ったと言う風穴はこの呪いの外からしか観測出来ないのかもしれない。
するとそこで、しゃがみ込みながら小さな花を見下ろしたリズが話し始めた。
「穴と言えば、夜中に起きるあのすごい振動の事は知ってる? もしかしたら、あの時壁に穴が開くのかも」
「へ…………?」
……またしても発覚した重要な情報。あっけらかんと放たれた言葉に、僕は開いた口が塞がらなくなった。そんな僕を引き継ぐ形で、スノウはしゃがんだままのリズの背中に口を開き始めた。
「振動って何だい? 僕らはそんな事を知らないよ」
「え、知らないの? あんなに大きな揺れがあるから、知っているものだと思った」
リズが言うには、夜中〇時十一分になると、石の壁にとてつもない衝撃が起こるらしい。耳を澄ませば何かを打ち壊す物音までするのだとか。リズの家は石の壁と密接しているので、その衝撃に家が揺れて驚くんだとか。
「壁の崩壊音は確かにこの辺りの方角から聞こえるわ。何か巨大な物をうち壊す物凄い衝撃よ。もしかしたらイルベルトの言っていた風穴が、その時に空けられているのかも」
そこまで聞いて僕は考える。
――イルベルトの言っていた風穴がこのループ中に開かれるだって? この壁は戦争に備えて打ち立てられた物で、厚さ約1メートルにもなる頑強な防壁だ。ちょっとやそっとの衝撃ではビクともしないだろう。しないだろうが……確かに不可能という訳では無い。
……でも――そうだとすれば死の霧はどうなる? ここに巨大な風穴なんて開けられたら、村には死の霧が侵入して大勢の人たちが死ぬだろう。
訳が分からず首を捻る僕に、スノウは鋭い視線を寄越す。
「新たなる情報。気になるね……実際に何が起きているのかをこの目で確かめてみたらどうだろう?」
「駄目だよスノウ。壁の崩壊音が起こるのが〇時十一分、リセットが起こるのは〇時二十一分だから、十分しか猶予がない。そこから走ってもリセットまでにリズの家に辿り着けない」
「捨て身の覚悟でなら真相を知れるが、リセットによって記憶は忘却される……か。なるほど、偶然とは思えないね」
――〇時十一分に壁の崩壊音があり、その十分後にリセットが発生する……そこに何かしらの因果関係がある事は間違い無いが、どう足掻いても確かめようがない。僕が眉間にシワを寄せて腕を組んでいると、スノウは指を立てて提案した。
「誰をセーフティゾーンに残して、残りの者がその真相を見てくる。時間にしてはギリギリだけれど、何度も挑戦すれば一度くらいは成功するかも知れない。もし忘れてしまっても、メモを見せて思い出させればいい訳だろう?」
平坦な口調で恐ろしい事を口にしたスノウに僕は驚く。
「駄目だよスノウ……キミは全てを忘却してしまった自分が、今の自分と同じだなんて思えるのかい?」
スノウはキョトンとした顔付きで目を丸くしていた。まるで僕の言っている事が理解出来ないとでもいうかの様に。
「同じだろう? 忘れているだけだ」
「違う、同じなんかじゃない。今こうしてキミと話している僕は、リセットされたら居なくなる。それが僕には、とても恐ろしい事に思えるんだ」
……ただ記憶が無くなるだけ。けれど今こうして過ごしている僕らの意識は消え去ってしまうんだろう? そんなのはもう、同一であるとは言い難いじゃないか。まるで書物で他人の来歴を振り返るみたいに、無機質なメモの内容だけを頼りにして、二度とは思い出せない過去を想起するしか無くなる。そんなのはもう、毎日死んで毎日生まれ変わっているのと同じだ。
命の冒涜――これこそが、僕の感じている、この呪いに対する憤りの全てなんだ。
「居なくなる、恐ろしい……なんで?」
僕の言葉に理解が及ばないといった様子でスノウは口ごもった。頭を振った僕は、このもどかしい思いに胸を掻きむしるかの如く、彼の掌を胸に手繰り寄せていた。
「どうしてわかってくれないんだよ、スノウ……」
強く握ったままの掌。そのぬくもりを感じながら僕は必死に彼へと呼び掛ける。
「わかるだろう? 僕はキミとのこの繋がりを途切れさせたく無い。どちらか片方だけが覚えていて、片方だけが覚えていないなんて嫌だ。そんなの、本当の僕らじゃない」
「レイン……」
「僕らはずっと、何があっても二人で一人でいつも一緒だ。死ぬ時も生きるのも、全部一緒なんだ」
思わず熱の入った僕の言葉に、何故かスノウは切なげに目を伏せる。そしてやるせなさそうにこめかみを何度か指で弾いて言った。
「キミも、もう変わらなくちゃいけないだろう……」
「え……?」
物憂げに言った彼へと、僕が歩み寄ろうとした次の瞬間の事だった――
「きゃあっ――!」
「ッ、リズ――!?」
リズのハッとする様な叫声が僕らを振り返らせる。身構えた僕らはリズの示した方角へと視線を注いだ。
「そこの草むらに誰かが居るわ!」
リズの青い視線――その先で、背の高い草が僅かに揺れている。今朝のデジャビュかとも思ったが、当の本人であるリズは口に手をやりながらわなわなと震えている。……ではその草むらに潜む者は何者なのだろう? そちらをしばらく凝視していると、僕やスノウと同じ位のシルエットが、観念した様にそこから這い出して来るのを認めた。その正体を認めて思わず声を荒げる。
「ティーダ?! キミは、こんな所で何をやっているんだいっ?」
「は〜バレちゃったかぁ」
首をすくめたティーダは、赤い舌を突き出しながら片目を瞑って答えた。
「いつもの狩人ごっこだよ、朝からしてたんだけど気付かなかっただろう? 今日の獲物はキミたちさ。リズと一緒に居る様だったから、これは何かあるなと思ってこっそりつけてたんだ! へへっ」
ズズっと鼻水をすすったティーダ。少年の目に光った無邪気に僕らは呆気に取られるしか無い。同じ様に目を瞬いたリズが問い掛ける。
「一体何の目的で……?」
「え、目的なんて無いよ。こっそり尾行しているのが楽しかっただけ! バレるまで続けようと思っていたけれど、こうなったらもうつまらないや、じゃあまた夜会で会おうね」
突風が過ぎ去るかの様に小さくなっていったティーダの背中……全く何の目的も無かった児戯に、僕とリズとスノウは困り果てながら笑い合った。
「ティーダったら、まるで朝のリズみたいだったよ」
「ええっ、私はもっと上手に隠れていたでしょう?」
「いいや、残念ながらティーダの方が数段上手だった」
思い切り笑い合ったら、この空みたいにどんよりとしていた雰囲気も晴れ渡っていた。目尻に伝う涙を指で拭いながら、僕はスノウの横顔に問い掛ける。
「あっははは、はぁ笑った……あ、そういえばスノウ、さっき僕に何て言い掛けたの?」
「いや、別に大した事じゃないよ」
和やかになった空気の中で、スノウは首を振るばかりだった。




