2 巣から飛び出した兎
彼女の変わろうという勇気を受け止めて、僕らは三人で卵を運搬する事にした。……だけど極度の緊張で顔を真っ赤にし続けているリズは、足と手を同時に出したりしていてなんだかぎこちない。
井戸の水を汲む若い女性を過ぎた辺りで、僕らはセレナに手を振り上げられた。
「よう卵がか…………っ」
僕らにイタズラでもしようと企んでいた微笑みが、リズを視認した瞬間に驚きに変わった。目を丸くして硬直したセレナの鼻先を木の葉がくすぐっていく。
「リズか? なんなんだよお前ら、一緒に居る所なんて始めて見たぞ?」
セレナの声音に悪意は無い。けれど周囲に取り巻き始めた村人たちからは怪訝な視線を感じた。それを察したか、リズはグッと堪え忍ぶように俯いて、力一杯にカゴを握る手に力を込めていた。無神経なセレナはそんな少女の緊張も察せずに、その脳天を見下ろしながらズケズケと話し始める。
「そうか、お前も夜会の為に卵係を買って出た訳だな、偉いぞ」
「私……はっ」
「お前も夜会に来いよな、きっと旨いもんが食えるからな」
「え……」
――巻き起こる村人たちの驚嘆。流石にどよめきに気付いた様子のセレナは周囲を見渡すも、くだらないと言った風に片方の眉を下げて言った。
「んだよお前ら。この輝かしい終戦記念日にまで魔族だなんだと言うつもりか? 人と魔族の戦争は、昨日終わったんだろうが」
向こう気の良いセレナの発言に、僕とリズは瞳を輝かせて彼女を見上げる。そうしていると、ウンウンと頷いたり、そうだ。という声が村人たちの間で起こり始める。
「セレナさんの言う通りです。国が争いを終えたのに、この小さな村でいざこざを続けているのは馬鹿らしいわ」
「じきに帰って来る男たちに笑われちまうね」
「それにバレンは良い奴だったじゃないか、うちの畑を何度も手伝ってくれたよ」
「時期になると、必ずうちのリンゴの収穫も手伝ってくれた。彼の娘もきっと良い子に違い無いんだよ」
バレンというのはリズのお父さんの名前だ。魔族といえど、当時から彼の人の良さに魅せられて心を許していた者も沢山居る。その功績が今こそ、娘のリズを守る為に輝き始めていた。
「え……えぇ……ぅえええっ」
リズを見詰める温かい眼差し。覚えの無いそんな反応に当惑した彼女は――
「うぇぇぇぇんっ!」
「あっ、おいどこ行くんだよ! なぁおい、遠慮せずきっと来いよなー!」
口を開けたセレナを置いて、卵を抱えたまま遥か先へと走り去ってしまった。パニックを起こして暴走する彼女に追い付こうと、僕らもまた卵を抱えながら慎重に走り出す。セレナにすれ違うその一瞬、僕らは彼女に微笑み掛けた。
「ありがとうセレナ!」
「ありがとう……」
「はぁ?」
口元に手をやり上を向いたセレナは、何が何だか分かっていなさそうだ。
*
「はぁ、びっくりしたからって、お礼を言わずに走り去るなんてどうかしてるよリズ」
「ご、ごめんなさいぃ、私、あんな風に言われたの初めてで、どんな顔をするのが良いのか、なんて言ったらいいのかわからなくって……」
膝に手をついて息を整えた僕らは、向こうに小さく酒場を見ながら歩き始めた。
「お礼を言わなくちゃ……セレナさんに、みんなに」
リズは嬉しそうにほくそ笑んでいた。思えば彼女の微笑みを初めて見たかもしれない。だって彼女が笑う時、頬にエクボが出来るなんてこの時まで知らなかったんだ。……なんというか、彼女の笑う姿は屈託が無くて、魅力的だった。
「それにお父さんが守ってくれたよ。ねぇレイン。お父さんはずっと帰って来ないけれど、確かにさっき、私を守ってくれたよね」
父との繋がりを感じて飛び跳ねるリズ。次に彼女は突如と振り返って、そこにある笑みは僕の心臓をドキリと高鳴らせた。
「ね! レイン、スノウ!」
いつも困り顔をしていた少女とのギャップを垣間見る。糸のように細くなった瞳。その向こうに覗く海色の輝き。綺麗な弧を描いた薄い口元と、きめ細かい肌に出来た二つのくぼみ、そよ風に流れる美しい髪からは花の香り、少し尖った耳――空からの光に一瞬照らされた彼女が、僕の目に清廉たる何かを思わせる。
「レイン、どうしたの?」
可憐な笑顔から僕は目を逸らしていた。何だかよく分からないけれど、彼女を見ているとやっぱり顔が熱くなって来る感覚を覚える。そんな僕を後ろから眺めて、スノウはこめかみをトントン弾いて微笑した。その目の奥にはどうしてか、悪巧みをしているような輝きがある。
「な……なんだよスノウ!」
「別に何も……?」
「言えったら!」
「言っていいのかい? ここで? 彼女の見ている前で?」
戯れ合う僕らを前にして、リズは嬉しそうに笑っていた。彼女もまた何が何だかわかっていなさそうだったけれど。
*
やがて僕らは酒場を前方にして立ち尽くしていた。今は物陰に隠れて、行き交う人々を眺めながらタイミングを見計らっている。
「どうするリズ……グルタの場合、さっきのようには行くとは限らないけれど」
「グルタって、あの怖い大きなおばさんだよね……」
途端に眉を平坦に戻してしまったリズ。しょぼついた目の下で鼻先が震え始めている。そんな彼女にスノウが珍しく口を開いた。
「勇気を出して」
「うん、私行ってみる……怖いけど」
意を決して酒場の入り口に顔を覗かせた僕ら三人は、ジロリとした獣の目付きに捉えられ、そしていきなり一喝された。
「遅いよアンタたち、卵がなくちゃあ始まらないよ!」
僕らはすっかり馴れてしまって、勢いと迫力のある彼女の声をなんとも思わなかったが、リズは違った。威嚇するような怒号に、肩を飛び上がらせて卵の一つを落としてしまったのである。
「ああー! なぁにやってんだい鈍臭いね!」
瞬く間に涙目になったリズはおそらく、酒場に踏み込んだ自分の決断を早くも後悔しているといった感じだった。大股で近寄って来る野獣に恐々とし、しかしまた卵を落とす訳にもいかないので、蛇に睨まれた蛙の様に固まってしまっている。
「まぁったくもう! さっさと奥に運びな、ほら、行った行った」
「んにゃア――ッ!」
グルタにペシンと尻を叩かれたリズは、石化の呪文を解かれて変な声を出した。僕らもまた彼女に顎で急かされる。それに応じながら僕は問い掛けた。
「グルタは何も言わないんだね」
「あ? なんだい、あの魔族の娘の事かい?」
「そんな言い方しないでよ」
「じゃあなんて呼べばいいんだよ、わたしゃあの娘に名乗られた事も挨拶をされた事も無いんだよ!」
仕方がないので僕らはリズに横目で合図を送った。考えてみれば、リズ自身から村の人たちに歩み寄る事は無かったんだろうなと思った。いま豚鼻を鳴らしたグルタに振り返り、肩を震え上がらせたリズは話し始める。それは今にも消え入りそうな声だった。
「はじ……はじめまし――」
「はじめてじゃあ無いよ、アンタの事は昔っからずっと横目に見てる!」
「ヒィィ……あのぅ、リズ・ロードベル……です」
「フン!」
満足した様子のグルタはそっぽを向いた。なんて態度が悪いんだろう。しょんぼりとした背中を見せながら、奥へと卵を運んでいくリズ。僕らは彼女に続いて卵を運んで行きながら、思わず眉を吊り上げてグルタに抗議する。
「そんな態度無いじゃないか」
「知らないよそんな事。アンタたちがどうして急にあの子に構い始めたのかもね」
卵を置いた僕たちは、リズを後ろにして酒場を後にしようとする。するとそこで、
「ほら、お昼がまだなんだろう?」
投げ渡されたリンゴの一つ……と、もう一つのリンゴがリズの手にすっぽりと収まっていた。
「特別サービスだよ。果物も貴重なんだ」
伏せられていたリズのまつ毛が、煌めきを帯びてグルタを見上げる。
「おばさん……」
「おばさんだって!? ワーッハッハッハ、言ってくれるじゃあ無いか、アンタ良い度胸だよリズ」
「いや……ぁ、ちが」
「良いからさっさと残りの卵を運びな、早くしないと今日の卵料理は全部スクランブルエッグにしてやるからね」
リンゴを胸に抱き締めたリズは頭を下げ、結んだ口元から今度は確かにこう言ったのだった。
「ありがとう」
眉を上げたグルタが僕らに背を向ける。僕らは三人、リンゴを分け合いながら曇り空の下へと出ていった。




