1 変わらぬ朝*イラストあり
忘却の呪い
……夢を見たんだ。
それは幼い日の記憶……身の丈に余る大きなグランドピアノを前に、僕らは二人で一つに椅子に座って鍵盤の上に指を走らせていた。
僕に届かない所を彼が、彼に届かない所を僕が……僕らはそうやって支え合って、一つの曲を奏でていた。
第一章 一日目
東の果てで、霧の魔女が死んだ。
そう口火を切ったアルスーン王国からの伝令は、村の戸口で諸々の事情を話した後、逃げ去る様に馬を走らせていった――
山岳に囲まれたこの秘境の地に住む僕らは、巨大な夕焼けに向かう一頭の馬のシルエットが、麓に向かって小さくなっていくのをいつまでも眺めていた。
……聞いたのは、十年にも渡り敵対していた「エルドナ魔族連合王国」――その女王の死だった。
すなわちそれは、「アルスーン王国」と「エルドナ魔族連合王国」による、大陸全土を巻き込む戦争が終結した事を意味していた。
*
雨季の空に張り付いた一面の薄雲より、微かな朝陽が斜めに差し込んで、僕の瞼の裏をチカチカと刺激した。
木組みのベッドに藁を敷いて布切れを被せただけのベッドから身を起こすと、寝惚けた目を擦りながら、すぐ傍らで眠りこけているスノウの肩を揺する。
「朝だよスノウ、今日は大忙しなんだ。知ってるだろう?」
呆けた口元で吐息を繰り返したスノウを僕は強く揺する。もぞもぞと動き始めた彼は寝返りを打ち、だらしのない口元で話し始めた。
「……起きた、起きたよ……今日、キミは夜会の卵の……配達を……」
グレーの瞳を半開きにしたスノウだったが、やっと上体を起こしたと思ったら、また枕へと沈んでいった。
「そう、卵当番! 任されたんだろ」
「……それって、レインが任された役割だろう? 僕には僕で、別の役割を任せられているじゃないか」
「今日の夜会にオムレツが出て来なかったら、僕たち双子は、一生村のみんなから恨まれるんだぞ」
パチリと開いた灰の眼差しが、僕の瞳を映す位の目と鼻の先に起き上がった。「仕方がないな……」そう言ってスノウは、不服そうに目尻を垂らし手ハネた耳の上の髪を撫でつけた。
今晩村では、終戦を祝う夜会が催されることになっている。僕たちの村はそんなに大きくないし、物資や食料だって潤っているとは言い難い。牛のステーキなんて勿論、ブドウ酒だって少ししか準備できない。だけどそれでも、今日というこの日には(本当は昨日したかったんだけど)何が何だってお祝いをしなくちゃならないんだ。
立ち上がった僕にピッタリと続くように、スノウもまたベッドから降りて二人して大きなあくびをした。示し合わせるでもなく、姿見に映る自分を見ているようにピッタリと。
窓を開け放ち、相変わらずの仏頂面で灰の空からの木漏れ日に目を細めたスノウは、白銀の髪をサラサラと風に流しながら、伏せた瞳を村に落とす。
「また始まったんだね、今日が」
窓際に立ち、物憂げに視線を落とす少年の姿が照らし出されると、伏せったまつ毛と生白い肌が強調されるようだった。僕の視界からは逆光に映るその姿はなぜだか、何処か大人びている様に見えて、少し不安になった。そのまま視線を水平に移していくと、ガラスに反射した僕がそこに立ち尽くしている。
「お父さんたち、帰ってくるかな」そう僕が問い掛けると、スノウはこめかみをコツコツと指で弾きながら振り返った。
この誰に媚びる事もないかのような沈んだ目付きが、僕ら双子を見極める僅かな手がかり。そんな彼とは対極になるように、瞳を見開きながら相棒の返答を待つ。
「来るんじゃないの、戦争が終わったんだから」素っ気無く返って来た答え。
……そうは言うけれど、未だに僕にも、おそらくはスノウにだって終戦の実感は無い。何せ僕らに物心が付いたのは戦争の真っ只中で、側にはずっと戦火の気配があった。そんな環境が当たり前で生きてきたんだから。
頷いた僕はスノウに言った。
「みんな二年前に徴兵されたっきり一度も村に帰ってきて無いんだ、早く会いたいよ。お父さん僕たちのこと誰だか分かるかな」
「わかるよ、なにも変わってはいやしないから」
「でも、僕たちもう十二歳だよ? 身長だってこんなに伸びて……」
僕の気苦労を知って薄く笑ったスノウは「そんなに変わりゃしないよ」と言いながら、年季の入った焦げ茶のランタンが置かれた床頭台に手を伸ばし、そこに転がった革紐を取りながら、肩ほどまである白銀の髪を後ろで結んでハーフアップにした。
これがそっくりな双子である僕らを見分ける第二の手掛かり。どちらかが髪を切りさえすれば、結ぶ必要もなく簡単に見分けがつく事ではあるのだが、僕とスノウは同じである事を望んだ。だから髪も肩までの同じ長さに揃えているんだ。違うのは性格と目付きだけ。本当はどちらかが髪を結ぶのにだって僕らは反対したんだけど、周囲の人たちからしたらそれが不便極まりないらしく、お母さんからの頼みもあって、スノウの方が髪を結ぶことになった。でも僅かな抵抗の甲斐あってか、僕たちは夜眠る時の寝室でだけは全く同じ姿で居る事ができた。
服を着替えた僕たちは二階の寝室を降りて、一階の居間に向かっていった。階段を降りていく途中から、僕らの大好きなジャガイモのスープの匂いと、パチパチと鳴る炎の音と温もりに気が付いた。微笑みあった僕らは居間へと続く扉を開ける。そこにはテーブルに座ったお母さんの笑顔と、パンとサラダとスープの並んだ豪華な食卓があった。
僕とスノウは同時にお母さんと朝の抱擁をする。その後に、いつもはパンとサラダだけの食卓に温かなスープが付いているのをニコニコと眺めた。三人分ある白いスープの中には、何日かぶりの鳥肉の姿まで見える。
「おはようレイン、スノウ。戦争は終わったんだ。今日くらいは少し贅沢したって、誰も文句言わないわよね」
温かい湯気に包まれて、僕たちは神に感謝してから食事を食べ始める。
「こんな毎日が、いつまでも続いたらいいね」
目を擦りながら、お母さんは僕らにそう言った。
窓の近くで小鳥が鳴いて、朝の風が流れ込むと、温かな香りが部屋を満たしていった。