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8 アレクサンドル・スクリャービン『十二のエチュード』作品八第十二番より――「悲愴」


 冷たい雨降りしきる闇の中を、村人たちが酒場に向かって歩いている。浮き足立った彼女たちは何も知らずに、僕らに向かって微笑んだり、手を振ったりしていた。イルベルトの話しを信じるならば、僕らは約三千日もこうして夜会に出向き続けているというのに、誰もがそれに気付かずに、ハリボテの真実を信じ続けている。

 お母さんを迎えに早足で家に帰る道中、肩を落としたリズへと振り返る。


「リズ、夜会に行こう。僕らと一緒に」


 雨除けなのか人目を避ける為か、深く被られたフードの下で彼女の表情が引きつった。ただでさえ先程の衝撃を飲み込めていない上に、まだ考えるべき事も多いけれど、僕らはこの繰り返しの毎日を生きていかなけらばならないんだ。


「でも……みんなが嫌がるから、楽しい雰囲気に水を差したくないから……」


 リズは顔の前で勢い良く手を振り、頬を赤くしながら足を止める。そんな事考えてもみなかったという表情だ。そんな彼女に僕は言う。


「キミにとって、とても勇気のいる事だってわかってる。だけどもうずっと質素な食事しかしてないんだろう? 夜会に行けば好きなものを食べられる。それにキミだってこの村の――」


 そこまで言った所で、リズは逃げるように走り去ってしまった。「ごめんなさい!」そう残して、彼女の後ろ姿が闇に溶けていくのが見えた。


 リズは僕らの手を取ってくれた。この繰り返しを抜け出そうと一歩前に踏み出してくれた。けれど早計だったかもしれない。僕はこうして無意識に彼女を傷付けて来たんだ。するとそこでスノウは僕を振り返らせた。


「彼女自身で変わろうとしなければダメだ」


 彼女は恐怖しているんだ。村のみんながなにか恐ろしいものに見えて仕方が無いんだ。スノウが言うように、彼女自身がそれを望まない限り、それは変わらないのだろうか?


 ――でも彼女の事を深く傷付けたのは僕らだ。彼女が勇気を出すのをただ待っているだけでは無責任だと感じたんだ。


 だから僕は白状する――

「彼女の手を引きたかったんだ」


 夜の家路につきながら、僕らは並んで家へと向かう。草木を打つ雨音と、冷たい夜気を行きながら。


「キミは優しいね」


 僕の心を読んだみたいに、スノウはそう言った。


   *


 いつものように夜会に出向いた僕らは、同じ喧騒を側に聞きながらお母さんと一緒に席に着いた。テーブルに広がるご馳走を眺めていると、リズにも食べさせてやりたいとそう思った。

 少しだけ食べてから、楽しげな宴の席で僕は一人顎に手をやって考え込んでいた。


「どうしたのレイン、手が進んでいないわ」


 お母さんが心配そうに僕を覗き込む。すると次に、困惑したように辺りを見渡し始めた。


「ねぇ、スノウはどこに行ったのかしら?」


 そう言って咳込み始めたお母さんに、僕は首を傾げながら答える。スノウならずっとそこに居るじゃないかと。


「居ないわ、居ない。側に居たら、私はきっとわかるもの」


 そこのテーブルで無愛想にしている彼を指差すけれど、お母さんはまだスノウを見つけられないでいるらしい。ひどく不安げな表情をするので、僕は彼に合図を送った。そうすればきっとお母さんの目にも彼が映るから。


 席を立ったスノウがピアノへと向かい、歩んでいく。瞳に輝きを取り戻したお母さんを確認すると、僕はまた思考に(ふけ)る。今宵は考えるべき事が多い。僕らのメモに新たに記すべき衝撃的な真実が幾つも判明したのだから。


 アレクサンドル・スクリャービン『十二のエチュード』作品八第十二番より――「悲愴」


 タイトルこそ悲しげであるも、スノウの奏でるこの曲は、並々ならぬ情熱と気迫に満ちていた。


 先刻奏でたショパンによる「革命」を彷彿とさせる焔の閃光――


 その熱情と勇ましさに、悲しみに暮れるのも忘れた観衆の表情に、明るい灯が灯っていくのが見える。


 それはこの繰り返されるメロディに、みんなの魂が高揚していく為だとわかった。


 栄光と情熱。あらゆる苦境に立ち向かう猛き心が、滑るようで煌びやかな、スノウの美しき旋律に乗って繰り広がる。


 ――僕はまた思考する。皆がステージに釘付けになる最中で、親指の爪を噛みながら前屈みになって。モヤの消えた洗練された意識の中で、スノウの音楽と同調する。


 イルベルトは言った。この村の外では八年の歳月が経過していると。その年月の中で、アルスーン王国は滅びたのだと。イルベルトは壁に空いた風穴からこの村に立ち入ったとも言った。そんな穴なんて何処にも無いけれど、僕らの生きるこの空間が外の世界とは隔絶されているのならば、この呪いの外と中とでは違う観測になるのかも知れない。


 僕らは刻に置き去りにされたんだ。まるでスノードームの中に閉じ込められたみたいに……

 この呪いの境界はおそらく、あの石の壁の外にある。昨日投げたあの石が再配置されていない事から、このループを出たんだと結論付けられるからだ。つまりあの石の壁の外に出てしまえば、僕らもまたこの繰り返しから逃れられると言う事だ。


 だけど石の壁の外には死の霧が蔓延している。イルベルトは外から見たから死の霧が無いなんて言ったんだ。多分壁と境界に僅かな隙間があって、きっとそこに当時のままの――つまり八年前の十二月二十四日の状況のまま魔女の脅威が吹き荒れているんだ。……〈死んだ命は還らない〉。今日発覚したこの決定的なルールの一つがある以上、無闇に壁越えは考えられない。当然壁を壊したり門を開くのもダメだ。死の霧が村に流れ込んでしまえば、みんな死に絶えてしまうんだから。つまり僕らはあの壁を越える為に、どうにかしてイルベルトから“ズーのウロコ衣”を手に入れなければならなかった。


『スノードームの境界は透明だ。一度侵入してしまえば、ガラスに遮られて外には戻れない』 


 ――いつかのイルベルトの言葉を思い起こす。

 けれど新たなる真実は同時に、僕の中にあった仮説の一つを否定した。僕はこの村で起こるリセットが、ある種の死に戻りで発生すると思っていたけれど、どうやらそれは違うみたいだ。……ならばなぜ今日という日にリセットが起こるのだろうか。ただの霧の魔女の気まぐれなのだろうか? しかし僕には何故か、そこに理由があるような気がしてならないんだ。

 

 ドラマチックなメロディが、より一層の盛り上がりを見せて炎を吹き上げた時、打鍵するスノウの指先と汗が、すぐ眼下に見えた。月明かりに映る白銀の髪が弧を描いて揺れる――


 今日明らかになった時の旅人(イルベルト)の素性。彼についてはまだまだ掘り下げる必要がある。戦争はどうなったの、外の世界はどうなっているの、どうして仮面をしているの、この世界の綻びとは? ……力を借りる事は出来なかったけれど、明日も彼の情報を引き出してみよう、彼の意見を聞いてみよう。やはり彼という未知なる存在こそが、この難攻不落の謎を打ち崩す鍵になる気がする。


 歯切れが良く、スノウの演奏がそこで終わった。強烈な炎の鎮火、残る余韻に緩やかな白煙が昇る。強く打ち付けられた彼の指先が下がると、呆気に取られた静寂の後に、みんなが手を打ち鳴らして喜んだ。


   *


 家に帰り、お母さんとの抱擁をする僕ら。


「大丈夫よ、心配しないで。明日もきっと同じ一日が……ゲホッ……」

「お母さん?」


 咳き込みながらよろめいたお母さんに驚いて歩み寄ると、差し伸ばされた手のひらが僕らの頭を順番に撫でていた。だけどまだもう一方の手を口元にやって、少し苦しそうな顔をしている。


「大丈夫よ。少し夜風で冷えたみたい」


 こんな事今まで一度だって無かったけれど、頭上ですっかりと笑顔を取り戻したお母さんを認めて、気にする事も無い些細な変化だと思った。


「おやすみなさい。スノウ、レイン」

「うん」

「おやすみお母さん」


 二階の寝室で服を着替えた僕らは、寝支度を済ませて屋根裏に上がっていく。今朝方置いておいた変なキャラクターのメモはまだベットの上だった。

 屋根裏に戻った僕とスノウは部屋に灯りを灯すと、イルベルトに貰った“ロンドベル庭園の魔草”を枕元に置いてから、ドッと押し寄せた疲れにへたり込んだ。今日はいつにも増して様々な事があった。頭も体も休息を求めている。だけど僕にはまだやらなければならない事があるんだ。


「今日あった事を、全部メモに記しておかないと」

「後でもいいじゃないか」

「後にすればきっと嫌になる。今やるんだ」


 眠い目を擦りながら、僕はメモに今日あった事を記し始めた。スノウは僕の後ろからそれを覗き込むようにしている。

 欠伸をしながらイルベルトの素性を書いていると、僕はふと疑問に思った事があって、背後で船を漕ぎ始めたスノウに問い掛けた。


「どうしてお父さんたちはこの村に帰って来ないんだろう。この呪いの中へと、難なく立ち入れるという事は彼が証明したって言うのに」

「アルスーン王国が滅びた事に、何か関係があるのかな」

「そんな……お父さんたちが死んじゃったって、キミはそう言うのかい?」

「イルベルトは霧の魔女が生きていると言っただろう? それは魔族たちの脅威が、未だ根絶されてないって事だ」

「でも、イルベルトはこうも言った――この戦争に勝者はいないと。ならば何か事情があって帰って来られないでいるのかも知れない。村のみんなや、リズのお父さんだってみんなそうだ」


 とうとうシーツに包まり始めたスノウが「うん、そうだね。それを確かめに行かなくちゃあね、村の外へ」と言った。未だ羽ペンを握る僕は「そもそも、どうして戦争が終結したなんて誤った情報を、昨日の使者は僕らに伝えたんだろう」と聞いてみた。


「スノウ……?」

「…………」


 返答はなかった。早くも夢の世界に旅立ってしまったのだろうか。

 程なくメモを記し終えた僕は、部屋の明かりを消して、スノウの横でシーツに包まった。側には銀の花弁を垂れる魔草があって、闇でほのかに光を放っている。明日水をやろう、そしたらいつかこのつぼみも花開くかも知れない。魔草の奏でる美しい音というのも気になる。

 明日すべき事を考えながら、僕は瞳を瞑る。今日はすぐに眠りにつきそうだ。

 二十二時を告げる鐘が鳴るとその時、不意に隣から聞こえた――


「何か思惑があったんじゃないの? ()()()()の、薄汚い謀略が……」

「……起きてたのスノウ、何か言った?」


 スノウの指先がまたシーツの上を踊り始めた。あの曲をいつか奏でる事を夢見て。

 返答を待っているその僅かな間に、僕は眠りについてしまった。鐘の音が響き、闇の中で語られた彼の口調が、頭に繰り返される。

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↓ ☆☆☆☆☆を→★★★★★へ! *毎日複数話投稿* ブクマ評価レビュー感想、皆さん何卒宜しくお願い致します。 また作中に出てくる楽曲は全て、実際の名作ピアノクラシックとなります。物語後半では特に、曲の進行と文章との時間間隔をリンクさせてありますので、実際に楽曲を聴きながら読んで頂けると本望です。
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