4 魔族の苦悩と少女の伸ばした手
僕らは今、リズの家に上がり込んで居間に座っている。横長の机を挟んだ形で、僕らは二人リズの向かいの椅子に座った。ボロの外観と違って、家の中はキレイに整頓されていた。グルグルに巻いた観葉植物や、奇怪な絵画が置かれ、曲がった時計が壁に掛けられている所以外は、僕らの家とそんなに大差無い。少し不気味に映るこの趣は、彼女のお父さんの魔族としての感性が見え隠れしているからだろうか?
「キミは、いつからこの繰り返しに気付いていたんだい?」
ここまでの経緯の全てを伝え、僕らはおっかなびっくりと視線を彷徨わせたリズへと注目していく。彼女はピッタリと付けた膝頭に手を置きながら、モジリモジリと掌を握ったり離したりしていた。
「わからない、今回は多分……一月前位……から?」
「今回……?」
「レインと同じ。私も何度も忘れて、また思い出している。繰り返しの日々の中で、寂しくて堪らなくなると、私はお父さんの寝室で眠るの。そこにまだ匂いが残っている気がするから」
どうやらリズのお父さんの寝室が、この呪いを回避するセーフティゾーンになっているという事らしい。さらに彼女もまた僕らと同じく、突如この日々の忘却をしてしまっているとの事だった。今の僕らにとって最大の脅威は、この突然のリセットだ。どれだけこの呪いに食い下がっても、全てを忘却させられてはまた振り出しだ。おそらくはその脅威に備えて僕らはメモを記す様になったんだと思う。だけど村への痕跡は屋根裏にしか残せない。つまり繰り返しのループの中で僕らは屋根裏には立ち入らないから、一度この記憶を忘却してしまったら、また次にこの呪いを自覚するのは何年後になるか分からないんだ。
――すなわち僕らは、この呪い最大の不可解であるリセットの解明をするか、それが引き起こされる前に、全ての問題に決着を付けるかしかない。
「同じ境遇の者が見つかったのは良いけど、あまり悠長にやっている暇は無いのかもね、スノウ」
「……」
するとそこで僕は、不思議そうに首を傾げて僕を見つめたリズに気付く。先日も穴が開く程に凝視されたがそれとは雰囲気が違う。いつも困り顔をしているその表情がそれにも増して目立っている。何か変な事を言っただろうか、なんて考えていると、リズは顔を掌で覆う。
「あっ、あぁそうか、そうだったね。何でもないの!」
「リズ……?」
「それより、見る? お父さんの寝室」
長い廊下を連れ行かれ、リズに案内されたのはなんと地下室であった。どうやら昔、村人が防空壕として用意していた地下施設跡をそのまま改装したらしい。彼女のお父さんは人目を忍んで生きて来たからか、ここの方が落ち着くと言って、息の詰まりそうな地下深くをそのまま寝室にしてしまったのだとか。自宅も狭いので、リズは母屋に、お父さんはここで眠っていたらしい。となると僕らは、魔族と人間とのハーフである彼女のお父さんが、この薄暗い階段を降りていった先に、絢爛とした幻想世界を創り上げているのでは、などと期待半分で邪推したりしたのだが、その予想はことごとく裏切られる事になった。
「普通だね……スノウ」
「ああ、ガッカリするほど変哲もない」
暗い洞窟の室内は、色褪せたベッドと小さな机があるだけの質素極まりないもので、ほとんど僕らの生活環境と変わりがなさそうだ。どこもかしこも年季が入って、今に壁が崩れて生き埋めになるのではないかと思う。
「あれ、何かなレイン」
ただ一つ僕らの目を引いたのは、机の上で異様な存在感を放っている二つの指輪であった。見たこともない深緑の水晶、それと対になっている紅蓮の水晶が、中で光を屈折させながら、暖かな緑と赤を絡ませて光を放散している。この指輪に付いている煌めきがただの宝石ではない事はすぐに理解が出来た。壁に小さく映す影を、ウサギや人影にして遊ぶその様は、僕らの知る原理ではとても説明がつかないからだ。
「すごい、これが魔法なんだっ」
声を弾ませた僕らにリズが教えてくれる。
「お父さんとお母さんの指輪だよ」
ルビーの様な赤い瞳をしていた彼女の母親が、とっくの昔に亡くなってしまった事を僕らは知っていた。だから一回り小さい赤の指輪がそこにある事は理解出来る。たがもう一つ、リズのお父さんの物であろう緑の指輪はどうしてここにあるのだろう? 僕の抱いたその疑問は、次に語られたリズの言葉に解を得る事になる。
「お父さんはね、徴兵に行くときに指輪をここに置いていったの。持っていくべきだったのにね。よく分からないけれど、いつか私に必要な時が来るかも知れないって言って」
リズは薬指に赤い指輪をはめた。彼女の細い指先ではぶかぶかだ。
「夢を叶えてくれるんだって……私の薬指に、スッポリとこれがハマる時に」
……リズのお父さんは、戦争に行った自分がこの村に帰れなくなった万一の事を見越してこの指輪を置いていったのだろう。
そんな事を知ってか知らずか、リズは赤い発光を顔にかざして屈託もなく微笑んでいる。いつか彼女の薬指にその指輪がピッタリとハマる未来は訪れるのだろうか……いや、そんな未来はこのままでは訪れない。それはリズ自身も良く理解している筈だ。
だから……嬉しそうに跳ねる黒髪の向こうに、切なげな視線が揺らめいているんだ。
――リズが繰り返しに気付いている事はわかった……けれど、それなら彼女はどうして何もしなかったんだろう? 僕はどうしてこの繰り返しを受け入れながら生活を続けていたのかをリズに問い掛けてみた。すると彼女は急速に表情を暗くしていきながら口をつぐんだ。
「……だって――」
程無く彼女は話し出したが、その目の奥に深い影が現れ始めた事に僕は気付いた。薄暗い地下の調度も合間ってか、斜めにした表情は影になって、声の調子はまるで沼に沈み込むかの様だった。
「同じなんだもん。私が何をした所で、何を言ったって、この繰り返しは変わらないんだよ。それに私にはどっちだって一緒なんだ……ううん、この繰り返しの中の方がまだマシなんだ」
無理に口元を微笑ませた彼女に応えられず、僕は首を振った。
「私はね、みんなから嫌われてるの、魔族の娘だって……いらない子だってみんな話してる」
「そんな――っ!」
けれどリズもまた首を振った。生傷を負った腕が明かりの下に垂れる……僕はその時、彼女の肌に刻まれた傷が増えていると思ったのは、やっぱり気のせいなんかじゃなかったと思い出した。
「いいんだ、だって私魔族の娘なんだもん。嫌われて当然だもん」
リズの美しい視線を受けて、僕は思わず視線を逸らした。……口先で彼女を励まそうにも、それが軽はずみで無責任極まる蛮行であると、その美しい瞳に諭されたかの様だったから。
伏せた長いまつ毛に影を落としながら、リズは続けた。
「……だからね、私にとっては、世界が繰り返している方が都合が良いの」
「……」
「誰が何時何処で何をして、それが決まっていた方が、私は人目に付かずに生きていられる。盗みだって上手にやれる。イリータだって、今日というめでたい日には手を上げないとわかってるの」
――『助けてくれなくても、イリータは手を上げなかったのに』
リズとこの繰り返しの中で初めて会った時、彼女は確かに僕にそう呟いていた。あれがこんな意味で言われていたとは思っても見なかった。
僕に背中を向けてリズは続ける。大好きなお父さんの面影を寝室に見渡しながら。
「私にとっても……私のことを視界にも入れたくない村のみんなにとっても、これで良いかなって……食べ物を盗んだことは悪かったけれど、うちには食べるものが何も無いの」
目元を拭い、時折声を上ずらせながら――
「明日にはみんな忘れて、全てが元通りになるの……だから私も繰り返すだけ。一人この渦の中で回っているだけ。喋り相手も居なくて、ちょっぴり寂しいけれど、新しい悪口も言われない。毎日毎日、みんなは同じ言葉で私を罵って来るの……何度も何度も言われるとね、始めは苦しくて堪らなかった言葉にも、だんだん慣れてくるの……でもね、でも……」
……それから暗い室内には、彼女の悲痛な息遣いだけが残された。
「だんだん心が壊れていくみたいで……っ……それも怖いのっ」
……上手く言葉に出来ずとも、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったその顔が僕に全てを物語っていた。
「ごめんなさい、盗みをしてごめんなさい……だけど、私……どうすればいいかわからなくって、誰も助けてはくれなかったから、お父さんもずっと、帰って来ないからっ!」
咽び泣く少女の痛ましい姿にこれ以上もない悔恨の念を抱きながら、僕とレインは彼女の手を一つずつ取った。振り返ったリズに心の中でごめんねと唱えながら、僕は伝える。
「そんなに辛い思いを抱え込み続ける位なら、全て忘れていた方がラクなのに」
息を呑んだリズへと向けて、鋭い目つきでスノウは言った。
「それでもキミがお父さんの寝室で眠り続けるのは、待っていたからだ。いつか誰かが、この世界を変えてくれるって」
後は任せたと、スノウは少し口角を上げて僕に目配せをした。
「僕がこの呪いを解き明かすから、一緒にこの世界を抜け出そう、リズ」
潤んだ瞳で、赤くなった鼻をすすりながら、彼女は両手で握った僕とスノウの手を握り返した。
「ありがとう、レイン……スノウ」




