4 フレデリック・ショパン『練習曲作品10−12』より――「革命」
「こんの、悪ガキども!」
「いたァっ!」
「ウェぇえ、ごめんよグルタぁあ」
一度解散してから酒場に集った僕たちは、グルタの太い腕に巻き付かれてヒーヒー言っていた。何故かスノウだけ知らんぷりをしているが、それはミルク係と卵係が僕とティーダに任された役目だったからだろう。ティーダなんてお母さんにも絞られて泣きべそをかいている。うちのお母さんは村のみんなにペコペコと謝っていたけれど、全員尻を叩かれる僕らを眺めて腹を抱えて笑っていた。
僕の尻をペシンと叩いてグルタは言う。
「この不良! アンタたちがサボった分の卵とミルクはみんなで運搬したんだよ! ほら、みんなに謝んな!」
宙吊りにされた僕らが声を合わせて謝ると、また笑いが起きた。
ようやっと解放された僕は、みんなが座った大きなテーブルに、昨日と変わらぬご馳走がしっかり並んでいるのを眺めた。賑やかになっていった喧騒の中、四つん這いになった僕は鼻を赤くしたティーダと涙目を突き合わせる。
「卵とミルクを届けなくても、メニューの一つだって変えられなかった!」
「そんな〜、レイン〜」
魔女の呪いの恐ろしさを痛感した僕らは、みんながわいわいやり始めた大きなテーブルの下にしゃがみ込んだ。するとそこにグルタが戻ってきて輪に加わった。大きなお尻を地面スレスレにして、僕らと視線を合わせるようにして座り込む。彼女の厳めしい顔を見てとったティーダは、何やら勘違いをして悲鳴を上げていた。
「なぁお前たち、どう言う訳か村長が来てないんだよ。他にも何人も欠席してる。もう十八時になる頃だ。何か知らないかい?」
言われた僕は、沈んだ目つきでお母さんの隣に腰掛けたレインと視線を合わせる。朝セレナが言わなかったから失念していたけれど、昨日までいた村人が、リズを除いて五人――セレナの祖父オルト爺さんと、小麦屋のフィル婆さん、そして白髭の村長と、僕らより少し年下のロイド、それとキノコ屋のアンおばさんが来ていない。
ここに来ていない人たちは一体どうしたんだろう。どんな理由があったとしても、今晩の夜会に出向かないなんて事、ある筈がないのに……
「ま、料理は余らないけどね、私が食ってやるから」そう言ってグルタは豚鼻を慣らして立ち去っていった。
するとそこで、前に出たフェリスが声高々に言った。
「皆さん良くお集まり下さいました。これより戦争の勝利のお祝いと、共に手を取り合って、今日という夜を越える為の夜会を開催します」
フェリスの合図でグラスを傾けあった大人たち。僕らもテーブルの上の料理に手を伸ばし、空腹に任せてしばらくみんなと騒ぎ合った。浮ついた様子のティーダが僕らに寄って来る。
「すごいよレイン! 僕、こんな……こんなに沢山シチューが食べられて幸せだよ!」
そうは言っているけれど、ティーダのスプーンはあまり進んでいなかった。無理に明るく振る舞っていた賑わいはじきに途切れ途切れになっていき、沈黙が長引いて、やがて食器を鳴らす物音だけになった。一人二人と食事の手さえ止めていく。
――理由はわかっている。みんな喉を通らないんだ。刻一刻と忍び寄る死の恐怖に怯えて。
誰かが皿を落とすと何人かの顔が青褪めて、肩が飛び上がるのが見えた。静謐となった室内で、押し殺そうとする涙の声を聞きながら、僕はみんなへと振り返る。
――こんなの保つ筈がない……。
泣くまいと必死に堪えながら唇を噛んだフェリス。テーブルの下で拳を握り、しかめた眉を震わせるセレナが痛々しくて見ていられない。
――たとえ一日で、この恐怖も全て忘れ去るのだとしても……
「心が、保たないよ……」
忘れていても、深い悲しみや恐怖の感情はきっと、僕らの胸の何処かに蓄積されている。全てを忘れているが故に、それは鮮烈に、それぞれの心を痛め付けているんだ。毎日、毎日毎日、こんな……感情の起伏を。
「大丈夫……」
絶望の淵。ただ一人平静のままスノウは立ち上がった。すると助けを求めるかのような声音で、ティーダが小さな口を押し開いていた。
「いってらっしゃい」
彼の視線は僕に向いていた。……いや、僕の背後で壇上に向かう、スノウの背中に囁きかけたんだ。
暗い暗い闇の中に立ち尽くす白銀の天使。ピアノの前に腰掛けたスノウは、天窓から射した薄い月光に照らされて、まるで血の通っていないかのように白く、薄く瞬いた指先を振り上げる――
強く、これ以上ない程に力強く奏でられた楽想は、僕の予想を裏切る事になる。
フレデリック・ショパン『練習曲作品10−12』より――「革命」
沈み込んだみんなの心を、屈強なる力で突き上げ、鼓舞するが如く、
スノウの熱が旋律に乗って溢れ出す。
彼の張り詰めた指先を見ればわかる。忙しなく動き回る左手に続き、その右手には比類無き力が込められている――
それはまるで、悲嘆に暮れる戦果の都で、
名も知れぬ勇猛が、民に革命を促しているかのように、
階段を転げ落ちるようにして奈落を覗き、
苦境を受け入れようとしている民に、反旗の狼煙を上げるかのように――
革命を起こす刹那の心情を、未来を勝ち取る蜂起の瞬間を思わせた。
ハッと顔を上げていく面々を見ると、強い楽想にその背を押され、この境遇に打ちのめされまいと、奮起していく女たちの顔が見えた。
スノウの打ち出す熱が渦巻き、このホールを飲み込んで、僕らの心に火をつけていく。
「魔法みたいだ……これが、音楽の力なんだ」
スノウの演奏が村人たちに変化をもたらしている。僕らの声や行動が届かなくても、スノウのピアノは違う。彼の奏でるピアノの旋律は、聴いた人の心を打つんだ――
みんながメロディーに酔いしれ、勇気を奮い立たせていくのを圧巻と眺めたまま――何故かこの時、僕の頭に一つの疑念が舞い込んだ。流動体の如く流れ去っていくメロディにさらわれ、思考が目まぐるしい濁流に飲み込まれていく。
――僕らはどうしてこの日をループし続けるんだ? 魔女はなぜこの日を選んだ、どうしてこの日にリセットが発生する?
流れるような炎のうねりの中で、漠然とした不安が僕の背に取り憑いた。
そこに存在する不明瞭なる気配が、僕の耳元に、混沌の道筋を示唆する。
――今日という日は、僕らが死の霧に飲み込まれて死ぬかも知れない日だ。
偶然じゃない。“今日”この日は、僕らの命運を分つ決定的な一日だ。
メモに記した一文が呼び覚まされる――
・〈これら全てが、霧の魔女によって仕向けられた呪いである〉
――そう……魔女の残した死の霧が、今日僕らを襲うのだ。
合致した条件に、仮面の商人が呟いた言葉が蘇る――
『全て夢想に過ぎず、そこに生きているように見える人間の数々も、実態のない幻影であると思われる』
……今、確かに感じる魔女の気配を背に、ゾクリと肌に粟が生じる。
そうしてこの瞬間、あってはならない一つの仮説が僕の脳裏に浮上する――
「僕らはもう、死んでいる? 延々と死の淵を彷徨い歩くように、夢を見せられている?」
リセットとはつまり、死の霧が村に流れ込み、この魂が尽きる瞬間を意味しているのかも知れない……
――これが魔女の呪いであるのだとすれば、僕は、僕らは……
そこで演奏が終わり、酒場を震わす歓声が巻き起こった。拍手の喝采は鳴り止まず、村中に響き渡る喜びの声は止むことが無かった。
音楽に勇気を貰い、また騒ぎ始めた彼女たちの姿に、もう絶望の色は無い。




