第二十五話
暴力表現、差別表現がありますのでご注意ください。
それから数日後。
激しく降り続く豪雨と、何処までも深い闇が広がる森の中で、魔女は違和感を拭えずにいた。
「何故じゃ……この胸騒ぎは。この領域は我の支配下であるというに……まさか……っ?」
一抹の不安はあった。
けれど、まだレインに真名を告げてはいなかった。
だから油断していた。
そんな自分を、監視しているものの存在がそんなに甘くはなかったということを。
「どうしてこんなにも早く。いや、違う。そんなにも我の血が……力が、欲しいんじゃな」
あのくそ爺どもめ、と悪態をつくけれど、もうここまで迫ってきているのなら時間はない。
何とかして、レインだけでも助けるべく、住処を片付け、外へと出て行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一方その頃。
長引く豪雨に、小さな部落は崩壊の危機を迎えていた。
鳴り止まない稲光、激しく打ち付ける雨に煽られ、部落の水源は氾濫を起こし、あちこちで土砂崩れが発生し、家々は押し流されていた。
そんな中、レインは禁忌の領域を破り、森の奥深くへと向かっていた。
いつもと違ったのは、大量の水で流され濡れた身体と足場の悪い獣道。そして誰にも見つからなかった道順を通らなかったほどの焦りだった。
「シュリ……! 無事でいてくれ!」
愛しい魔女の元へ急ぐあまり、彼は間違ってしまったことに気がつかない。風や雨に荒らされた道を避け、駆け出す。この気象は異常だ。魔女の支配地であるこの山々や森が、これほど荒れるということは、彼女の身に何か起こったということに他ならない。
けれど、いくら足を急かしても、いつも見慣れた小屋が現れない。
不意に頭上から射抜くような鋭い視線を感じて素早く真横へ飛ぶと、先ほどまで己が居たであろう場所に大木が降ってきていた。
「……っ、誰だ!?」
さっと探るように辺りを見回すと、黒いローブのようなものを着た人型のものが浮かんでいた。
「お前か。我ら同種を穢し、忌まわしめ、堕落に追いやった汚らしい鼠は。ふん、あの売女め、下界の鼠ごときに染まるなど最早同種とも呼べぬわ」
皺枯れた声の男はそう言い捨てると、侮蔑の視線を無遠慮にぶつけ、その上に圧迫されるほどの力を乗せた。
「ぐぁっ!」
「去ね」
凄まじい重圧がレインに襲い掛かり、視界が闇色に染まっていく。
圧倒的な存在にとっては、力を持たない人間など赤子の手を捻るようなものだった。
「ぁああ! はぁっ、うわぁああああ!! シュリィィィィ!!!」
手を触れてすらいないのに、圧迫されていく己の身体。その見えない力に対抗する術はなく、レインは彼女の愛称を呼ぶことしか出来なかった。
愛しい魔女。
大切な人。
二人で生きて行きたいと、望んだだけなのに。
彼女の種は、それを赦さなかったのだ。
もし自分が彼女を望まなければ。
出会わなければ、彼女は苦しい思いをしなかったのだろうか?
今、どこでどうしている?
自分と同じように、このローブの男のような者に傷つけられてはいないだろうか。
永遠に続くとも思われた苦しみの中でも、考えることはただ一つ。
この世で一番大切な魔女のことだけだった。
「ぅあ、はっ、はぁっ……」
「ふん、つまらぬ。ただ殺すだけなら前回と同じで趣味が疑われるな」
ふむ、と何事か男が考え出し、唐突にその力が止まった。
レインが呼吸を整えながら男を観察するけれど、隙があるようでどこにもなく、種族の絶対的な差を見せ付けられたような気がした。
「あぁ、そうしよう、くくっ、どう反応するか、見てみようではないか」
彼が次の衝撃を覚悟して身構えていると、男はレインの方へと手のひらを翳した。
「何をするつもりなんだ? 何故、シュリを傷つけようとする!? お前たちの敵は俺だけで、彼女は仲間なんじゃないのか!?」
「五月蠅い鼠だな。我らと人間ごときが敵? 思い上がりも甚だしい、貴様らなど中途半端なフェルーナどもの餌にしか過ぎん。やはり、あやつらは滅せねばならぬ」
「やめろっ! 俺はどうなってもいい! シュリを傷つけるなっっ!!」
「黙れ。お前ごときに我と話す権利などない」
男はそれ以上話すことはせず、向けられた手のひらから衝撃が走り、それを認識するより早く脳を侵略する猛烈な波に襲われ、レインはついに意識を失った。
「……む? こやつ、200年前と同じ……。まさか、な。嘆かわしい。我らの血を穢そうなどと、到底赦せることではない」
まぁ良い、どうせ全て忘却と化すのだから……。
男はレインを元の巣へと飛ばし、荒れ狂う空へと飛び立った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「レイン、どこじゃ……っ、何故返事をしない!? 存在自体を感じられぬなど、一体どうなっているのじゃ!」
「鼠なら駆除しておいたよ、フェルーナ」
「なっ……、エイシェント……!? 元老院か……、いや、そんなことよりもお主、レインをどうしたのじゃ!!」
「くくっ、分かっているくせに。我らはずっと、お前を視ていたよ……穢れし血を受け継ぐ者よ」
ふわり、と男は魔女の前へと降り立つ。吹きすさぶ嵐は、二人の周囲だけを避けていく。まるで迎えているかのように。その場所だけが、春の風が吹くように、優しく。
その異様な気配に、魔女は警戒を強めた。
「お前の餌には消えてもらったよ。我らの血が穢されるのは赦し難いが、お前の腹の中の力は我ら種のものだ。人間などにくれてやるわけにはいかぬ。だからお前を迎えにきたのだ」
「行かぬ! この子は誰にも渡さぬ! レインの記憶を返せ!!」
「それは出来ない。いくら可愛げのないパートナーであっても、な」
「いや、じゃ……! 誰がお主なぞと……!」
「あまり我侭を言ってはいけないよ、フェルーナ。うっかりキミの餌を殺してしまうかもしれないからね」
つい、と手のひらに乗せた光の球が、加えられた圧力によって軋んでいく。
歪みを帯びたその光が、今にも壊れそうなくらい楕円に押しつぶされている。魔女は悲痛な表情を浮かべながらも、どこか諦めるように細く息を吐いた。
「すまぬ、レイン……どうか、生きて」
そうして去った魔女との記憶は、風の止んだ澄んだ空の中に溶けて消えた。
「ねぇ、レイン。見てみて! 可愛い私たちの子よ」
「そうだね。キミにそっくりで、将来は美人になるね」
楽しみだ……と告げようとしたが、その不自然なチカラにどこか引っかかる違和感を感じていた。もしかしたら、妻の一族の力を強く受け継いだ子なのかもしれない。
レインは生涯、そのことに疑問を抱きながらも真実に辿り着くことなく、彼は寿命を迎えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「レインが生涯辿り着くことの無かった違和感の正体。それが、リンの一族に宿る、呪いの術のチカラだ」
そう静かに話し終える先輩は、どこか悲しそうに見えた。魔女とレインの子どもがシューランで、レインと呪術の一族の子どもが俺のご先祖様なら。
シューランの呪いを解ける可能性が残っているのは、俺しかいないことになる。
不思議な雰囲気のばあちゃんが、もしその一族の人間だったのなら。両親もいない今、もう自分以外の血筋は残っていないのだ。
「じゃあ、じゃあ俺は、どうしたらいいんだよ!? シューランは呪いのせいで眠っているんだろうっ? 俺の血を欲しがったのも、レインっていう曾々じーさん……、いや、ご先祖様か。その人の子孫だからなんだろう? あっ、でも呪ってるのも俺の一族か……ってあぁもう! 訳分かんないよ!!」
がしゃがしゃと頭を掻き回すけれど、もやもやとした思考は晴れない。先輩はそんな俺を宥めるように優しく頭を撫で、崩れてしまった髪形を手グシで梳くように直してくれた。
「呪いを解く方法は分かってないんだ。ただ、その女の一族の血が絶えるか、その血を気の済むまで摂取すれば、魔女のチカラが覚醒するのだろうと言われている。でもね、リン」
「な、なんですか?」
じっと静かに俺を見つめてくる瞳。優しいけれど甘さのない、反論を許してくれなさそうな意思が宿っていた。
「キミをココに連れてきたのは、呪いを解くためじゃない。キミに宿る真実を話すためだけだ。残りの時間は約束通り――――キミを一番に想って過ごすよ。誰よりも愛しい子ども。唯一の僕の家族。キミにだけは、誠実に、嘘偽りを隠すことなく。この名に誓うよ」
「センパ、イ……?」
「我、シュトッツェルドラン・アーク・フェルーナの名において命ず。この者に我の真名を宿し、いつ如何なる時にもその名において我を召喚することを許す。この誓約は――――」
そっと、先輩の周囲が淡い光に包まれる。その手がシューランに触れると、吸い込まれるように先輩が消えてしまった。
「この魂が尽きるまで。キミを愛してる。リン」
呆然と見ているしか出来なかった俺の前に、長年求めてやまなかった存在が、微笑んだ。