第十九話
「馬鹿な……っ! リン、死ぬなっ!! 私には、お前が……!」
震える声で自分の名を呼ぶ人がいる。
だけどもうすぐ聞こえなくなるのだろう。
意識が遠くなっていく中で、薄っすらと見えたその人は、自身の血に塗れて自分の身体を抱きしめていた。
「エイ! カナメ!」
「はい、ここに」
「はい、ただいま」
「私には……リンを殺せない」
「…………」
「…………」
突き立てた刃とそっと引き抜くと、シューランはその刃で腕に傷を付けた。
「……よろしいのですか」
静かに問いかけるエイの声には答えず、シューランは己の血を傷口に落とした。
ぽぅっと白い光を発すると、少しずつ傷が癒えていく。
温かい……シューランみたいだな、と思っていると、暗闇に意識を奪われた。
「すまない、リン」
辛そうな声が聞こえると、頬に濡れたものが落ちたような気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「フェルーナ様」
使い魔に呼ばれるけれど、その声には答えなかった。
じっと座ったまま、ベッドに横たわる小さな存在の手を握り締める。
いつもより体温が低くなってしまった愛しい子供。
その命の灯火は、今にも消えてしまいそうなほど儚いものだった。
どうしてこの子に刃を向けられたのだろう。
このまま、運命に逆らうことなく消えていこうと決めていたのに。
「フェルーナ様、そろそろお休みになられてください」
もう一人の配下が休めと催促してくるけれど、無言で制した。
休む?
そんな必要など、自分にはないのに。
眠り続ける凛の黒髪をそっと撫でると、サラサラと指の隙間から零れ落ちていった。
以前、自分の髪が綺麗だと言ってくれた子。
呪われし両目だと知ってもなお、自分を好きだと言ってくれた愛しい存在。
「私には、お前が必要なのに……」
もう、傍にはいられない。
これ以上一緒にいてしまったら、また一族の者が凛の血を求めてしまうだろう。
たかが自分一人の生命を延ばすためだけに。
人間からしたら、それは途方もない時間だろう。
残された10数年という時間は、人間にとっては長くとも、自分たちのような妖にとっては瞬きほどに短いものだ。
それなのに、たった数ヶ月しか一緒にいなかったこの時間は、これまでの長い生命の中で最も蜜のあるものだった。
空虚の中で生きてきた自分にとって、これほどまでに誰かを感じたことなど無かった。
人間など、自分たちにとっての糧でしかなかったはずなのに。
「リンの傍にいると、今までは感じなかった餓えが酷くなってしまうのだ……」
お前の血が欲しい、と。
その本能は、己の生命が脅かされるほどに酷くなっていくと言う。
残り少ない時間の中で、自分は凛にとって化け物以外の何者でもなかった。
守りたいのに欲してしまう。
大切にしたいのに奪いたい。
本能と理性がせめぎ合う中で、異形である自分はいつか本能が打ち勝つだろう。
僅かに触れた甘い血。
その血を得た瞬間、震えるほど満たされていくのを感じてしまった。
もっと。
深く。
その身を捧げろ。
自分の中の獣がそう囁くのを確かに聞いてしまったのだ。
「エイ」
「はい」
「私は…………間違って、いるのだろうか?」
「……はい、そうですね」
澱みなく答える臣下に、僅かにピクリと反応してしまう。
しかし、強靭な精神を持つエイは、表情を変えることなく淡々と続けた。
「しかし、私にも出来ませんでした」
「……? どういうことだ」
「あなた様よりも先に、この子供を抹殺するよう指示が出ておりました」
「……! 元老院か」
元老院。全ての一族を束ねる組織。
自分をこの屋敷という名の牢獄に閉じ込めたのも、かつて一族のものを消すことを決めたのも、力に溺れたものたちだった。
「はい。消したのち、その躯と共に納めることであなた様の力を取り戻し、元老院がその力を利用しようとした模様です」
「…………」
あのクソたぬきジジイどもめ、と毒吐きたい気持ちでいっぱいだったがグッと堪える。
今はそのようなことを言っている場合ではなかった。
「けれど、不思議な子ですね。私がフェルーナ様を閉じ込めている元凶であると分かっているようでしたが、あなた様に向けるものと同じように笑っておりました」
「分かっていた、だと?」
「はい。私がフェルーナ様の監視者であるのか、と……同じような意味合いで問われたことがあります」
「子供だと思っていたが、意外にも良く見ているのだな」
困ったヤツだな、と少し笑いながら、そっとその頬に触れた。
子供特有のふっくらとした柔らかい頬。
閉じたままの瞼の下には、真っ直ぐに自分を見つめる漆黒の瞳があるはずだった。
早く目を覚まして欲しい。
もう一度、その瞳で自分を見つめて欲しい。
厭わしいと思ったばかりのその視線が、今では恋しくて仕方なかった。
「えぇ、そうなのです。私がそれを聞いた瞬間、躊躇っているのに気が付いたのか、何事もなかったかのように笑いかけておりました」
「それで、お前は殺り損ねた、と言い訳するのだな」
「……いいえ。戦意が削がれただけです」
フイと素知らぬ顔をするこの配下など見たことがなかった。
もう一人の使い魔など、驚きすぎて固まっている。
「まぁ良い。お前がコレを欲したとしても、それは叶わぬことだからな」
「……元より承知でございます」
「そうか。ならば、エイ、カナメ」
「はい」
「……はい」
「私はこの地では無く、別の地で最期を迎える。リンが復調次第、移動を命ずる。すぐに準備に掛かれ」
「「御意に」」
元老院を納得させ、屋敷を移動させることは面倒でもあり、多少の困難はあるだろう。
しかし。
「お前を納得させることの方が難しいと思うのは、何故なのだろうな……リン」
あと少しだけ。
もうしばらくは傍にいさせて欲しい、とその愛しい子供の額に口付けを落とした。