第九話
ヤバイ……。
何かは分からないけれど、とにかくヤバイと本能が危険信号を発している。
目の前に立ちはだかる男は、ただ静かに俺を見下ろしていた。
逃げ出したくなる程重苦しい雰囲気に飲み込まれそうになるけれど、背には壁が、顔の横には男の腕が置かれ、そこから抜け出す術を遮っていた。
(嘘…?ウソって何だよ!?)
俺は嘘をついた覚えなんかないし、ましてや魔女なんかじゃない(ってゆーか男だし)。
この男が一体何を考えているのかさっぱり分からない。
そも、この男の性格というか…この男自身のことが、俺にはよく分からない。
へらへらと笑って軽かったり、急に真剣だったり、どこかもの悲しげな表情だったり……。
どれが本当なのだろう?
どんな人なのだろうか…―-―-―-この鷹司紅という男は。
「ねぇ…黙ってると、襲っちゃうよ?」
「ッ!」
「その怯えた顔…可愛いよねぇ…。でもさ…キミがどんなに可愛い顔をしたとしても、やっぱり許せないんだよね」
どこか達観したように遠い目をするセンパイ。
からかうような言葉はいつもと同じなのに、圧倒的な存在感が異質な空気を生み出していた。
(怖い……)
俺は初めてこの男を怖いと感じていることに驚きを隠せなかった。
ふと、空いているもう片方の腕がこちらへと伸びてきて、俺はびくりと反射的に身体を竦ませてしまった。
その反応がいけなかったのか、センパイは瞳は怒ったまま口元だけニヤリと笑みを浮かべた。
「ね、取り消して?」
「…っ」
冷たい手のひらがそろりと頬を伝う。
思わず視線を逸らすと、それを許さぬよう無理やり顔を向けさせられる。
恐る恐る見上げると、先ほどよりも近くなったセンパイの綺麗な顔が視界に飛び込んでくる。
少し長めの前髪から覗く鋭い視線に、胸を貫かれそうだった。
「センパイ……やだ…」
「…何が?僕はまだ…何もしていないよ?」
今からするけどね…と続けられた言葉を認識した時には既に、首筋に濡れた感触がしていた。
ぴくっと肩を震わせると、今度はその反応を楽しむように舐めまわされる。
その濡れた水音と得体の知れない感覚から逃れたくて抵抗しようと思うのに、何故か全く身体が動かない。
「な…んで…っ」
「動いちゃダメだよ。痛い目に遭っても知らないよ?」
「…ぃっ」
ちりっと左の肩口に痛みを感じて身体が震える。
何で怒っているんだろう…?
最初に怒っていたのは俺のはずなのに。
(あーもうやだ。意味分かんない)
半ば現実逃避に走ろうとするけれど、生々しい感触がそれを許してはくれない。
「ね…、取り消してくれるだけでいいんだよ?」
「やっ…なに、が…っ」
「酷い子だなぁ…せっかくそれだけで許してあげるって言ってるのに」
「いた…っ」
クスクスと笑いながら俺の首筋や胸元に口付けを落として玩ぶセンパイ。
思うように動かない俺の身体とワケのわからない感情に、俺はまた泣きそうになっていた。
(取り消す…ってなんだよ!?いったい何を言えばいいんだよ…っ)
触れられた先からゾクゾクと湧き上がる未知の感覚に翻弄されながら、まるで出口のない迷路に彷徨っているような気分だった。
右も左も逃げ道はなく、どれを選んでも正解が一つもない。
選択肢すらもあるのか無いのか分からなくて、困惑だけが俺を取り巻いていた。
ぐるぐると思考を巡らしても答えは出ない。
それでも現実から逃れたくてあれこれと考えていると、不意に顔を上げたセンパイと視線が絡み合った。
薄いグレーの瞳に光が差し込んで、一瞬だけ碧く見えた目。
そこに映る自分自身の顔はひどくうろたえたように見えて情けなかった。
(何で俺なんだよ。俺がアンタに対して何をしたって言うんだよ…っ。思い通りにいかない俺なんかじゃなくて、もっと綺麗で可愛くて、素直でお似合いのヤツが男女問わずこの学校には存在するのに…っ)
引っ込んでいたハズの水分がじんわりと浮き上がってきて、俺は零れ落ちないようにそっと瞬きをした。
「んぅ…っ」
僅かに目を閉じた瞬間、抵抗する間もなく唇を塞がれた。
驚いて反射的に身体が逃げようとすると右肩を掴まれて壁に押し付けられた。
(痛…っ)
思わず眉をしかめるけれどセンパイは止めてくれない。
「んっ…ふ……ぁっ、やめ…っ」
角度を変えて次第に深くなっていく口付け。
冷たいセンパイの唇が、自分のそれから体温を奪ってドンドンと熱くなっていく。
幾度も繰り返されるキスの嵐に飲み込まれそうだった。
嫌なのに。
こんなのはやめて欲しいのに。
次第に生まれてくる苦しいだけじゃない感触。
それを認めたくなくて必死で心を否定する。
(違う…っ、こんなの…しらない…っ)
それでも痺れるほどきつく吸われると、じわぁっとそこに広がる何かがあった。
嫌なのに抵抗しきれない。
体格差から絶対的負けるのは分かっているけれど、そうじゃない。
見えない何かが俺を縛って動けなくしているみたいな感覚だった。
「ん…可愛い、凛……くち、開けて?」
「ぃやだ…も、許し…は…ぁッ!」
息苦しさと込み上げてくる熱に頭がボーッとしてくる。
尚も俺を責め続けるセンパイの行為は、まるで俺に罰を与えているようだった。
重なる唇を離そうと顔を捩ればいつの間にか背中に回された腕が髪を引っ張って痛みを与えてくる。
引き摺られて顔が上向かされると、一瞬だけ呼吸を許されてまた塞がれた。
「いい子だから大人しくしてて?じゃないと…もっと酷いことしたくなる」
「…っん!」
宥めるようにちゅっと優しく啄ばむと、無理に開かされた口腔に柔らかいものが侵入してきた。
俺の舌とセンパイのそれとが絡まりあって弄ばれる。
上顎のあたりを撫でるように舐められ、捕らえられた舌をきつく吸われると頭の奥まで犯されてるみたいにジンと痺れるような感覚がした。
ふわふわと揺れてるみたいな不思議な感じがする。
俺は与えられ続けるその感覚に身を委ね、されるがままにその甘い気持ち良さを受け入れてしまっていた。
「ぁ…っ、は……」
センパイにされるがまま繰り返される行為。
口の端からだらしなく零れ落ちる雫をぺろりと舐め取ると、センパイはようやく解放してくれる。
「んぁ…っ」
もう、終わり…?とねだるように思わずセンパイを見上げると、今までに無く優しい笑みを浮かべてくれた。
(どうしよう…俺、頭がおかしくなっちまったのかも)
キスだけで腰が砕けそうになるくらい感じてしまっているのはもう否定しようが無かった。
抱き寄せられた腕と押し付けられた背中の壁が無ければ、今にも崩れ落ちそうなくらいに足取りが危ういのが自分でも分かる。
「凛…」
耳たぶを甘噛みされながら少し低い声が鼓膜をくすぐってくる。
不覚にもその吐息にすら感じて、心臓が壊れそうなくらいバクバク鳴っていた。
(うるさいうるさいっ…静まれ心臓っ目を覚ませ俺!!)
ぎゅっと目をつぶって言い聞かせるけれど、身体はバカみたいにセンパイの言いなりだった。
「目…開けて?」
さらりと前髪を撫でられると、閉じていた瞼にそっとキスが落とされる。
指先で真っ黒な髪に触れられると、それだけでうっとりとしてしまいそうな自分に驚きを隠せなかった。
「……っ」
意を決してゆっくりと目を開けると、情事のせいか普段より一層色っぽく見えるセンパイがいた。
(く…っ、絶えろ俺っ、センパイ菌になんか負けるなッッ)
今の彼は、何かしろと言われたら素直に従ってしまいそうなほど艶やかなフェロモンが垂れ流し状態だった。
きっとこうやって、今までもハーレムを作ってきたのかと思うとなんだか無性に腹が立ってくる。
ヤツの思い通りになんかなりたくない。
その他大勢と同じだなんて真っ平ゴメンだった。
だからもう、解放して欲しい。
潤む瞳でゆるく睨むと、センパイは一瞬だけ目を見開いたような気がした。
「あんまり僕を挑発すると、後で後悔するよ?」
「…??」
意味が分からん。
俺が『何言ってんのアンタ』って顔をすると、センパイは少し困ったような…それでいて楽しげな声で何か言ってくる。
「無自覚でそれやっているんだとしたら…凛は相当なタラシだね」
「んな…っ!」
タラシはアンタだろ!!と思わず叫びそうになるがぐっと堪えて言葉を飲み込む。
(何だって俺がたらしなんだよっ。意味わかんねぇ!…いや、この男の行動やら発言の意味が分かったことなんか一度だってないんだけどっ)
ファーストキスはすでに経験済みとは言え、あんな濃いのは初めてだ。
あぁ…なんだってこんなコトに。
あろーことか俺は…感じちゃったりなんかしちゃってるし!
(いやいや、あんなのは気のせいだ!でなけりゃコイツが異常に上手いとか…そうだ、そうに決まっている!!あんなにいっぱいハーレムがいるんだからこなしてる数だって半端ないハズだしっ!)
俺は心の中で必死に自分に言い訳をする。
そうじゃなくちゃあの人に申し訳が立たない。
俺にとって大切なのは……―――――あの人だけなのだ。
「ね、凛…英なんかよりも僕の方がずっとヨカッたでしょう?」
「……………………………………………………………………………………は?」
「イヤだな、照れなくても良いんだよ?」
「………いや、照れてませんけど」
「正直に言っていいんだよ?英には内緒にしてあげるから。あいつはどーせ、甘い睦言を吐きながら軽くキスしただけなんでしょう?」
「…………………………………」
何言ってんデスカ、コイツ。
殴ってもいいですか…?
うん、殴ってもいいと思う。っつか殴る権利は俺にはあるっ、ぜってーある!!
コイツはもしかして、くだらない勘違いで会長に張り合ってこんなコトしやがったのか!?
そうなのか!?っつーかそうじゃなくちゃ納得出来ないし理解出来ない!
『取り消して』の意味もよく分からんけどきっとそんなどーしよーもない理由に違いない。
急に我に返った俺は腹のそこからムカムカと苛立ちを覚え、怖さも何もどこかへ行ってしまった。
そんなくっだらないことで唇を奪われた(しかも感じちゃった)俺はどーすりゃいいんだよ!?
あぁ、今すぐにでも穴掘って埋まりたい…。
俺は濡れた唇を袖でグイと拭うと、そのまま拘束の緩んだヤツの左腕を払い退ける。
「…!」
「俺は、アンタも会長もどーでも良いんだよっ!遊びなら他でやってくれ。俺はアンタらになんか構ってる余裕もヒマもねぇんだよ!!」
キッと睨みつけるとびっくりしたようなアホ面を浮かべたセンパイを尻目に、俺は走り出す。
(あぁもー付き合ってらんねぇ!!)
最初から付き合っているつもりもないけど、もう自分には関わらないで欲しい。
そんなことは、もっと時間もお金もあって、会長やセンパイを好きなやつらがやればいいことなのだ。
何も自分である必要なんかどこにも無かった。
なんだかヤケにムカついた俺は、後ろを振り返りもせずに教室へと戻っていく。
「あぁーもうヤダーーっっ!!」
一際大きな独り言は、空しくも人気のない校舎裏へと響いていったのだった……