に
―――「つーかさ、俺のこと好きならできるよなぁ?」
無理やり髪を掴まれて腰元に引き寄せられた記憶が蘇る
―――「うっけるぅ~水も滴るいい女じゃん!」
トイレの個室で上から水が降ってきた記憶
―――「お前のせいで俺まで迷惑かかってんだふざけんなよ!」
掴んだ袖を勢いよく振り払われ、冷たいアスファルトが手足に嚙みついた記憶
浴室のシャワーから出る熱湯を壁にもたれながら全身で受け眼前の胸を水滴が伝い流れゆく。
足にまでお湯が流れている感触があるのに、自分の足ではないかのように全く動けなくなった。
「私は違う、もう違うんだ!」
目の前の鏡を拳で叩きうつむいていた自分を睨んだ―――
―――――――
水槽の中を優雅に泳ぐ魚が照明の明かりをその身に受け暗く先の見えない足元にみにぼんやりと明かりを返しては消える。
分厚いガラスで仕切られた向こう側を様々な魚たちが優雅に泳ぐこの場所は
都内でも有数の大型水族館である。
都内の駅から降りてすぐという立地の良さと
都内では珍しいイルカのショーを目玉とするこの施設は、休日というのもあって沢山の人で賑わいを見せていた。
「はい、こちらですね。」
「すいません、ありがとうございます」
水族館の受付員さんから紙袋を手渡され人通りの邪魔にならないように入場口の脇に避ける。
紙袋からは可愛いイルカのぬいぐるみが顔を覗かせ、その愛くるしい瞳いっぱいに
樺月のひどく落ち込んだ表情をとらえていた。
「どうしよう、これ・・・」
―――時は2か月前にさかのぼる
瑠璃音とのデートの最中彼女が
「ごめんちょっとお手洗い」
と席を外している間に彼女へのプレゼントとしてこっそり売店でぬいぐるみを購入したのだが
彼女が思いのほかすぐに戻ってきた為慌てて売店のスタッフに
「後で取りに戻るのでちょっとだけ預かっててください!!」
と言って預けたったきり彼女とのデートに夢中になってしまいすっかり忘れてしまっていたのだった。
今思えば店員さんも困惑して声を大きくして「お、お客様!?」と走る背中に驚愕の声をかけられていたし。
プレゼントを持ったまま彼女のもとに戻ればいいものを
何をおもったのかその時は、初デートで浮かれている事を隠し大人びた自分を演出しようとていた節があったため、デートの途中でプレゼントを渡すのはなんかかっこよくないという謎のこだわりで
空回りしていた。
「俺に可愛い妹でもいればなぁ」
よくあるアニメや漫画に似ても似つかない可愛い妹というのは鉄板ネタだが
あいにく一人っ子で育った自分に兄弟はいない。
『とりあえず持って歩いても仕方ないし一旦帰るか・・・ぬいぐるみは蒼汰にあげよう。多分あいつもいらないっていうだろうけど。』
紙袋からから覗かせるつぶらな瞳を寝かしつけるようにそっと閉じると
出口に向かうことにした。
「あれ?君は、樺月くんじゃないかな?」
水族館に向かう波のような群衆の中からこぼれ、こちらに歩み寄ってくるのは
「あ、えーっと確か」
「柴だよ。この前の飲み会ぶりだね」
風貌だけは覚えていたクロヒョウのようなイメージの彼女は柴彩芽
数日前の飲み会でほとんど会話することがなかった女性だった。
ジーンズに白のパーカーとラフな格好をしているが
ショートアッシュの無造作に流れた前髪から覗く目は、まさしくクロヒョウといった気品と妖美さが垣間見える
「あ!柴彩芽さん!!」
「柴でいいよそれと、女の子の顔と名前は覚えておいて損はないと思うけど?」
彼女は手の甲を腰に押しあてハスキーな飾らない声色で促すが怒っている様子ではなく
どこか退屈そうに気だるげだった。
「柴さんはこれから水族館ですか?」
気まずくなる前に間髪入れずに質問する。自慢にもならないが気まずい雰囲気を回避するのは人より少し上手な方だと思った。
「まあね、そういう君は帰り・・・というわけではないよね?」
柴は館内にある大きな掛け時計首の時刻を見てを少し傾げる。
彼女が不思議に思うのもそのはず
時刻は10時15分、開園してから15分しかたっていないだから。
当然入口から引き返す人間は自分ひとり。群衆の大半は入口に向かう人がほとんどだ
となれば多少目立つだろう、人混みのなか彼女の目に留まるのも納得だ。
「いや、まあちょっと。前に来た時の忘れ物を取りに来てて・・・」
恥ずかしくも紙袋も持ちあげる
「なるほどね。じゃあ館内はまだ見てないわけだ。それなら話ははやい、一緒に並ぼう」
紙袋の中身を聞かれるとはずかしかさに腹をくくってたが彼女は待ったく興味がない様子で
列の方を指さした
「いや、今日は水族館を見に来たわけではないので、今日は帰りますよ」
彼女には申し訳ないが、館内を観て回れる程の余裕は今の自分にはなかった。
どうしても瑠璃音と一緒に来ていた時を思い出してしまう。この館内入って入場口へと続く広間も
瑠璃音を待つ時間に十分に過ごした。そして彼女を想って購入したイルカを渡せず抱えている自分があまりにみじめでならなかった。
「そうか、それはとても残念。チケットがちょうど二枚で一枚余るんだが仕方ない、私だけで楽しんでくるよ」
柴は人差し指と中指で挟んだチケットをぴらぴらと振りながらニヤッと口角を上げると進行する列を進んでいってしまった。
「あまり会話した事ない人だったけど気さくな人だったなぁ」
後ろ手で手を振る彼女をしばらく見送った後帰ろうと出口を目の前にしたその時だった。
「そんでさぁ未だに連絡来るんだよね」
「まじで?やばすぎ」
聞き覚えのある声に耳が雑音を中から危険を察知した。
『あれは・・・瑠璃音ちゃんの友達!!、名前は知らんがいつも一緒にいるから顔と声はよく覚えてる二人だ!』
瑠璃音と付き合う前から度々顔を見る機会があり、会話はあいさつ程度の面識だが
瑠璃音と付き合ってたことを知っている数少ない人物だ
『俺と瑠璃音ちゃんが先月ここに来たのも知ってるはず。こんな1人で水族館からとぼとぼと出てきてるの見られたら・・・』
1秒にも満たない思考の速さで脳内映像が再生された
「瑠璃音と先月来たからって思い出に浸りに来てんのやばすぎない?」
「別れた女にどんだけ未練引きずってるんだよ。そこに元カノいねーっつーの、キャハハ」
どこからともなく現れる瑠璃音
「キッモッ。死ねば」
言われてもいないネガティブが思考を凌駕する。
『鉢合うのは絶対まずい!!』
脳内首脳会議が判決を下す前に体が反転し向かい来る二人組に背を向けると逃げ道を探した。
だが出口から入場口まで一本道、人は多いが皆並んでいるため列からあぶれ、建物の壁にはけようものなら、並んで立ち止まる列の目線は絶対に避けられない。
おまけに列は大きくなっており最後尾は二人組よりずっと後ろだ。並びなおす選択肢も無くなった。
いよいよ後にも先にも退けなくなった。
『か、かくなる上は・・・』
急ぎ列の中に飛び込んだ。
強引に入るわけでもなく列の中の誰が怒るわけでもなくそすんなりと
「おや、また会ったね、また忘れ物?」
「いえ、せっかく来たんだやっぱりご一緒させてください!」
思い切って飛び込んだのは柴彩芽の隣、都合のいい男は百も承知だが、危機的状況に選択肢などなかった。
彼女は眉を少し上にあげ驚いたようにも見えたが、こちらの心でも透けて見えてる意味深な顔で口角だけをぐっと上げ笑っているようだった。
「レディーのお誘いを断っておいて、樺月君は優柔不断なのかな?それとも気まぐれ君かな?」
意地悪そうに言ってくるが表情は楽しそうだ
「なにか奢るんで簡便してください」
「いやぁいいよ、私も退屈しのぎに誰かほしかったしさ。
それはそうと今日から館内のレストランでナポリタンが期間限定で食べられるみたいだよ。」
彩芽は自身の額の上を見つめ拳をあごに乗せる。同時に脇を抱えたもう一方の手から
チケットをこちらに差し出し見えるように挟んで見せていた。
「食べましょう!ナポリタン!もう今日ナポリタンしか食べたくありませんッ。」
「奇遇だね。私も気になってたんだぁどうやら一緒に行く理由が出来たみたいだね」
それ以上彼女は何を言うでもなく聞くでもなく、水族館の入場口まで足を運んだ。
「大人2枚で」