その5。
「お帰りなさい。お疲れさま」
こんなふうに天輝を玄関で出迎えるのは3週間ぶりだ。これまで何年もずっと、当たり前のようにしていたことなのに、なんだか少し緊張してしまう。
久々に目にした天輝の姿は、もともとの長身痩躯がさらに細くなり、目の下には隈ができて、顎のラインもシャープさを増したように見えた。痩せたというよりは窶れている。
連日引っ越し作業に追われながらも食事と睡眠はしっかりとっていた私よりも、天輝のほうがよほど病み上がりなのではと思ってしまうほどだ。
「……うん、ただいま」
ささやくような声でそう言ったきり、そらされる視線。
三和土に立ち尽くして動こうとしない天輝に、私は内心で嘆息する。話があるとは言っていたものの、顔を合わせるつもりはなかったんだろうか。
沈黙が流れる。気まずい空気をどうしたものか。このまま2人して玄関にたたずんでいても埒が明かない。
「えっと、上がったらどうかな。ごはんは、別々の部屋で食べる?」
仕事のあと慣れない道を2時間も車を運転してきたのだから、疲れ切っているだろう。玄関は寒いし、早く暖かい部屋で落ち着かせてあげたい。
とりあえず食事の用意をしようとキッチンへ向かいかけた私は、掴まれた腕を強く引かれてよろめき、天輝の胸もとにぶつかるように倒れ込んでしまった。
「あ、っと」
天輝に触ってしまった。
ごめんと謝りながら慌てて離れようとしたけれど、体に回された天輝の両腕に、なぜか抱き込まれてしまう。
首筋に天輝の顔が埋められて、少し伸びたくせのある髪が私の頬をくすぐっている。抱きしめられている私も、天輝の肩に顔を押しつけているかたちだ。
私たちの身長差は30センチ以上ある。ふだんハグするときは天輝が身を屈め、私が背伸びすることでバランスを取っていたけれど、玄関の段差があるとお互い直立のままでもいい感じにフィットするようだ。ここへ越してきて何年も経つのに、初めて知った。
いや、そうではなくて。なんだろう、この状況は。
「……たかくん、どうしたの?」
私に触るどころか、一緒にいるのも怖いからと離婚を言い出したはずの天輝が、なんだって私を抱きしめているんだろう。
「新しい職場、雰囲気良くなかった? 嫌な感じの人でもいた?」
引き継ぎに行った異動先で、なにか嫌なことでもあったのかと聞けば、「違う」と首を振る。
「新しいとこは、小さな事務所で人も少なかったけど、なんかみんな穏やかで、親切だった」
「そっか、よかったね」
「うん」
皆が多忙すぎるせいで殺伐とした今の職場とは、だいぶ環境が違うらしい。
もしや話というのは、異動先にも馴染めそうにないとかそういうことなのかもと予想していたけれど、どうやら外れたようだ。
天輝がこういうスキンシップを求めてくるときは、大抵心が弱っているときなんだけれど。もうずっと接触も会話もなかったから、弱ってしまうような何かがあったのかどうかもよくわからない。けれど。
「たかくん、触ってもいい?」
天輝のほうから密着しておいて、私から触られるのは嫌だなんてことはないだろうけれど、一応お伺いを立ててみる。
返事の代わりに私を抱きしめる腕に力がこめられたのを了承と受け取って、私は宙にさまよわせていた手を天輝の背中に添えた。
ああやっぱり。直接触ってみれば服ごしにもはっきりと、痩せたのがわかる。
もともと上背はあっても逞しさとは程遠い天輝の体型は、さらに線が細くなってしまっていた。
天輝は料理をしない。私が新型ウイルスに感染したあとから今日まで、食事は出来合いの物ばかりだったはずだ。ここ1週間くらいは、家ではお弁当やお惣菜の類いさえ食べていた形跡もなかった。
まともな食事もできずに、毎日たまった仕事に朝早くから夜遅くまで追われて、ストレスで夜きちんと眠れていたかどうか。ずっと心も体もしんどかったに違いない。
「たかくん、大変だったね、お疲れさま。よくがんばったね。えらいえらい」
ふだん天輝が甘えてきたときにするように、いたわりながら背中を擦れば、首筋に天輝の顔がすりつけられる。
「うん、えりさん」
耳のすぐそばで聞こえる、少し高めのかすれた声。
こんなふうに触れ合えるのも、もうこれが最後なのかもしれない。それならば今のうちにと、細くなってしまった天輝の体の感触と、嗅ぎ慣れた匂いと馴染んだ体温とを心ゆくまで堪能した。
「んーと、それで、電話で言ってた話って、なんだろう」
先に食事を終えた天輝に、食べながら聞いてみる。
明日もまた天輝は朝早くから仕事があるはずだ。私が食べ終わるのを待たせていては、就寝時間が遅くなってしまう。
「あー、えっと……」
長いまつ毛の下で、グリーンヘーゼルの瞳が視線をさまよわせている。なかなか話し始めようとしないのを、食事を続けながら急かさずに待っていれば、しばらくしてようやく天輝は口を開いた。
「えりさんは、引っ越し先って決まってるんだよね?」
「え? あ、うん」
なにを今さら当たり前のことを聞くんだろうと思ってしまう。行き先が決まっているから、引っ越し業者も手配して、荷造りをしているというのに。
「今日ね、異動先に引き継ぎ行ったついでに、部屋決めてくるつもりだったの」
「うん。……うん?」
え、今日、決めてくるつもりだった? 部屋を?
「えっと、今日って29日だよね? 合ってる?」
まさかブレインフォグの影響で日付け感覚が狂っていて、正確に日時が把握できていないんだろうか。そんな不安に駆られて確認してみれば、うなずきを返されてホッとする。
いや、違う。合ってるなら、今日が29日で間違いないなら、安心してる場合ではない。
「え……っと、それで。部屋は見つかったの? 決まった?」
今度は首を振られる。横に。
聞けば、天輝の予定では17時には引き継ぎを終えて、そのあと地元の不動産屋に立ち寄るつもりでいたらしい。ところが思いのほか時間がかかって、実際に会社を出たのは19時近く。周辺の不動産屋はどこもすでに閉まっていたという。
コロナ禍で営業時間を短縮している業者は多いから、おそらくそのせいだろう。
「え、あの。三連休に引っ越し準備、するって言ってなかった?」
「そのつもりだったんだけど……」
仕事が立て込んでいて、三連休は休日返上で出勤していたらしい。私はホテルに移っていたから、そんなことになっていたなんて気づきようもなかった。
「えりさんは連休明けの火曜日にはあっさり決まってたっぽかったから、案外簡単に見つかりそうだなって、そう思って」
物件探し自体は、今の部屋を紹介してくれた不動産業者を通じて、三連休中に始めていた。
これまた新型ウイルスの影響で、リモートでの物件案内を希望する客が多いとかで、電話とメールのやりとりのみで探してもらっていたのだ。直接現地に行く時間も体力もなかったから、正直こういう状況下なのはむしろ幸いだった。
結局、天輝のほうは部屋を決めてくることができないまま、今月はもう明日・明後日で終わる。明々後日の4月1日には異動先での勤務が始まるはずなのに、どうするつもりなのだろう。
「それで、えりさんにお願いがあるの」
居住まいを正した天輝が、手をついて頭を下げてくる。
「俺の荷物を、えりさんの引っ越し先で預かっててもらえませんか」
「……はい?」
ここは今月いっぱいで出なければいけないから、俺は身の回りの物だけ持って、とりあえず異動先の職場近くのホテルにでも移る。ホテルに持ち込めないような荷物は、えりさんの転居先に運んでもらって預かっていてほしい。
「ゴールデンウィークまでには部屋決めて、荷物引き取るから。お願いします」
そう言ってさらに深々と頭を下げる天輝を、私は軽く眩暈を覚えながら眺めた。
「ゴールデンウィークまでには、って。それまでホテルから職場に通う気なの?」
「うん……あのへんウィークリーマンションとか、なさそうで。土日に不動産屋巡りして、なるべく早く、部屋見つけるようにするから」
あまりの杜撰さに、思わずため息が出る。
天輝の荷物がほとんどまとめられていないことに気づいてはいたけど、業者に荷造りまでお任せコースでも頼んでいるのだろうと思っていた。
家具・家電の類いはほとんど私が持ち込んだものだから持っていくつもりでいたけれど、もしかして天輝は天輝で新たに生活家電を揃えなければいけないことも、失念しているのではなかろうか。
「ちょっと待ってね」
箸を置いて立ち上がり、玄関に向かう。ラックにかけてあったトートバッグを持って戻り、中から抜き出した数枚の用紙と鍵を天輝の前へと差し出す。
「これは?」
「私の引っ越し先の住所。その周辺の住宅地図。それと新居の鍵」
用紙を手にした天輝が怪訝そうな顔をしている。うん? とか、あれ? とか言っていたと思うと、ポケットから取り出した携帯で異動辞令のメールを確認しながら、住所の書かれた用紙とを見比べ始める。
「えりさん、あのこれ、えりさんの引っ越し先、俺の異動先のすぐそばっぽいんだけど」
「そうだね。たぶん徒歩5分かそこらじゃないかな?」
住宅地図にはいくつかのマル印と手書きの書き込みがある。そのうちのひとつを指差し、「ここが引っ越し先。で、ここからこう行って、ここがたかくんの職場だね」と道を辿って別のマル印を指し示す。
「ホテル代とかもったいないし。とりあえず私の新居から、職場通ったら?」