その4。
「あれっ、蓮水さん?」
職場を出たところで、名を呼ばれた。
声のしたほうを振り返ってみれば、自転車置き場のほうからひらひらと手を振りながらやってくるのは、たしか学生アルバイトの――名前は、なんだっただろう。
私は昔から、人の顔と名前を覚えるのが苦手だった。
仕事中であれば、着用を義務づけられているネームプレートをそれとなく見ることができたけれど、こうして私服で対面するととっさに名前が出てこない。
「お疲れ様です。これからですか?」
とりあえず当たり障りなく挨拶をすれば、相手も「はい、これからー。お疲れ様です」と返してくれた。
学生バイトさんが平日の昼過ぎから出勤なんて珍しいと思ったけれど、今はもう春休みなのだろうか。
学生でなくなってずいぶん経つから、そのあたりのことには疎くなってしまったことが、なんだか悲しい。
「蓮水さん、辞めちゃったって聞いてたから、もう会えないんだと思ってました。今日はまたどうして?」
「制服とかを返しに来たんです。それと一応、上長くらいには直接ご挨拶しておかないとと思って」
私がそう言えば、「ふんふん」と納得したようにうなずかれる。
人の入れ替わりが激しいうちの職場では、退職者が出てもわざわざ大っぴらに告知されることはない。
事前に本人がそれとなく周りに話していたり、事務所にメモ付きの菓子折りが置かれているのを見て気づいたり、場合によってはしばらく見かけないなと思って上司に訊ねてようやく辞めていたことを知ったり、そんな程度だ。
それなりに長く勤めた職場に、ろくにお礼の挨拶もできないまま退職していくのは不義理に思えたけれど、療養期間は明けたとはいえ新型ウイルスに感染した人間が出入りしていいものか、ためらいがあった。
今日職場を訪れたのも、前日に電話で上司に許可を得たうえで、人の少ない時間帯を選んだつもりだったから、学生バイトさんと鉢合わせしてしまうとは思わなかった。
それでもここで会えたのもなにかの縁と、彼女にも「お世話になりました。急なことですみません」とお礼を言えば、「いえいえこちらこそ。大変お世話になりましてありがとうございました」と深々とお辞儀までしてくれる。
「そうそう、蓮水さん、お菓子送ってくれたじゃないですか」
「あ、はい」
上司に退職する旨をメールした数日後、ネットから職場宛てに焼き菓子の詰め合わせの配送注文をしていた。
先ほど上司に挨拶したさいにはそのことに触れられなかったので、もしやまだ未着なのかと不安になりつつも、こちらから聞くのもどうかと言い出せずじまいだったけれど、どうやら無事に届いていたようだ。
差し入れられた菓子類は、早い者勝ちが基本になっている。なるべく数の多い個別包装のものを選んだけれど、なにやら不満げに話し始めた様子からして、彼女はありつけなかったのだろうか。
「あれね、捨てられちゃったんですよ、お局のやつに!」
「……はい?」
彼女が言うお局とは、古参パートの女性のことだ。
気分屋で我が強く、しょっちゅう誰かしらと揉め事を起こす厄介な人で、職場のみんなからは陰でお局と呼ばれている。
さいわい私とは勤務時間帯がずれているため、お互い長く勤めながらも接点はほとんどなかったはずだ。ろくにかかわった覚えもない相手に、退職挨拶の菓子折りを捨てられるほど嫌われていたとは思わなかった。
「お菓子が届いたとき、たまたまあいつが応対したんですけど。蓮水さんからだってわかったとたん、ゴム手袋して受け取って。箱全面にアルコールスプレーしまくったあげくに、ゴミ袋二重にして捨てやがったんですよ。『コロナに罹った人からのお菓子なんて気持ち悪い!』って、もうほんとひどくって!」
「……あら、まあ。それはそれは」
なるほど、そういうこと。
だから、ネットから配送依頼をしたのに。菓子折りそのものにも配送伝票にも、私がいっさい手を触れていない状態で届くようにと、そう考えて。
新型ウイルスの影響で思考力が落ちたにしても、それくらいの気遣いはしたつもりだった。それでも、そういう扱いを受けてしまうのか。新型ウイルスに感染した人間からのものは嫌だと。
上司も知っていたのだろうか。私が送った菓子折りがどうなったのかを。それであえて、そのことには触れずにいてくれたのかもしれない。
「あいつが食べないのは勝手だけど、みんなは食べたかったのに! 大体あいつは、こないだも夜のパートさんと」
「ええと。時間大丈夫ですか?」
よほど頭に来ているのか、出勤前だというのに話が長くなりそうだ。
ヒートアップしていく彼女にそう指摘すれば、はっとしたように携帯を見る。
「あ、やば! えっとじゃああの蓮水さんほんとお疲れ様でした! この近く来ることがあれば顔見せてくださいね! どうかお元気で! では! では!」
「はい。またいつか。お元気で。お疲れ様です」
慌ただしく出入り口へと向かいながらも、何度もこちらを振り返っては手を振る彼女を、私も手を振って見送る。
彼女の姿が扉の向こうに見えなくなってようやく、一息ついてから家へと足を向けた。
ホテルに滞在していた3日間で、この先どうするかを考えていた。
天輝の異動先について行く必要がないなら、転居はするにしてもこの街に留まって、退職を撤回して職場に復帰するという道もあるのではないかと、そんな考えを巡らせもした。
けれど10日ぶりに外に出て、体力がいちじるしく損なわれていることを実感した。感染前のようには体も頭も動かない。復帰が許されたとしても、以前と同じ働きはできそうにないと、そう思った。
学生バイトの子はお局の行動や言葉に憤ってくれたけれど、態度に表さずとも感染者に対して抵抗や忌避感を覚える人は、ほかにもいたかもしれない。
たとえ後遺症がなかったとしても、職場の人たちが私の感染を知っている状態で、それまで通りに働くことはできなかっただろう。
結果的に、この街に留まらないと決めたことは正解だったに違いない。
だけどこの先どこへ行こうとも、新型ウイルスに感染した人間だと知られれば、差別や偏見に晒されることもありえると、覚悟していないといけないのだろうか。
好きこのんで感染したわけじゃないのに。
日々は淡々と、けれど確実に過ぎていく。
すぐに疲れてしまう体に辟易しながら、部屋の片付けと荷造りを進め、転居にともなう諸々の手続きをする。
離婚届を渡した日から、天輝とは顔を合わせていなかった。私が就寝したあとに帰宅して、私が起床する前に出勤しているらしい。
私を避けているというよりは、自宅待機期間に溜まった仕事と引き継ぎ作業とに追われているようだった。天輝の物の荷づくりがほとんど済んでいないのが気がかりだったけれど、私にはどうしようもない。
3月ももう間もなく終わるという29日になって、天輝から電話があった。
『えりさん、久しぶり、です』
「うん、久しぶり。どうしたの?」
『今、異動先に、引き継ぎで来てて。これから帰るんで、9時くらいになるんだけど、起きて待っててもらえますか。話が、あります』
しばらくぶりに聞く天輝の声は、やけに硬くてたどたどしい。異動先でなにか問題でもあったのだろうか。
「それは、うん、いいけど。ええと、これから夕飯買いに行くとこだったんだけど、たかくん夕飯まだなら、家で一緒に食べる? お惣菜かお弁当でよければ」
調理器具は箱に詰めてしまったし、冷蔵庫も空にしなくてはいけなかったから、最近の食事はもっぱら出来合いの物ばかりになっていた。
けれど天輝が家で食事をした痕跡といえば、カップ麺の容器が捨てられているのを見かけた程度で、きちんとした食事をとっている様子がない。インスタント食品に比べれば、多少はマシだろう。
『あー……、うん、その、面倒でなければ、お願いします。たぶん2時間くらいかかるから、先に食べててもらっても……』
「二度用意するのも面倒だし、待ってる」
『あ、うん、じゃあなるべく急いで帰るから……』
「急がなくていいから安全運転して。じゃあ、あとでね」
『はい……。またあとで』
ふだんでさえ運転が得意ではないのに、見通しの悪い夜道を急いで事故でも起こされたらたまらない。慌てずに運転して無事に帰ってきてくれればいいけど。
それにしても、改まって話ってなんだろう。
同じタイミングで食事をするにしても、部屋は別にしたほうがいいんだろうか。
そんなことを考えつつ、携帯電話を布団の上に放って、夕飯を買いに出かけた。