その3。
なにが起きているのか、理解が追いつかない。
夫の欄はすでに記入済みのそれと、閉じられたままの襖を交互に見ながら、働かない頭で懸命に考える。
「俺このあと実家行って、母さんたちに証人欄書いてもらうから。今日は夕飯はそっちで食べて、なんならそのまま泊まってくる」
「えっとね、たかくん、ちょっと待って」
一方的に進んでいく話を、慌ててさえぎる。離婚を突きつけられるようなことを、私は無自覚にやらかしていたんだろうか。
「理由を、教えてほしいんだけど」
訊ねてみれば、少しの沈黙があった。
襖の向こうの天輝の様子はうかがえないけれど、どう言ったものか考えているのだろうか。
「えりさん、コロナに感染したでしょ」
「え、あ、うん」
「だから」
だから、と言われても。
当たり前だけれど、なにも好きこのんで新型ウイルスに感染したわけじゃない。
外出は仕事と必要最低限の食品・日用品の買い出しのときだけ。サービス業だから仕事中に不特定多数と接するのは仕方のないことだけれど、うがいや手洗い、マスクの着用は欠かしたことがない。職場では手指消毒なんて15分おきにしていたくらいだ。
それなのに今月に入って蔓延防止が解除されたとたん、マスク未着用の客が増えて、不安に思っていた矢先に感染してしまった。
この2年、個人でできる範囲の予防は徹底して行なっていたつもりだった。それでも感染するのだからどうしようもない。
これまで私がどれだけ感染に気をつけていたかは、天輝も知っているはずなのに。
それとも、PCR検査を受けた日に、自分が感染した可能性や天輝に移してしまう危険を軽視して、ふだん通りに過ごしていたことを怒っているのだろうか。重度になれば命にかかわる感染症だというのに。
そう聞いてみれば、「違う」と言われる。
「ええと、理由をもう少し、詳しく教えてくれる?」
「……コロナってさ、確実に完治するものなの?」
問い返されて、今度は私が言葉につまってしまう。
一度感染した人が、陰性になったあとふたたび陽性になった例があることは、確かにニュースかなにかで見た覚えがある。
再発したのか新たに感染したのかは、不明だったように思う。実際どうなのか、まだ断言できるほど実態が明らかにはなっていないのだろう。
陰性になっても、肺機能の低下や味覚・嗅覚障害が後遺症として長く続いている人もいる。
私自身、定められた自宅療養期間は今日で終わるけれど、咳や喉の違和感はまだ続いているし、頭も霧がかかったようにはっきりしないまま。これがいつ終わって元通りになるのかなんて、私が知りたいくらいだ。
「もしかしたら、一度罹ったら完治しない病気かもしれないでしょ。抵抗力や免疫力が下がるたびに再発をくり返す類いのウイルスかもしれない。この先、コロナを保菌しているかもしれないえりさんと一緒にいるの、怖いよ」
いつ移されるかと思うと不安になる。そばにいられない。だから離婚したい。
後半はほとんど絞り出すような震える声で、天輝がそう訴えてくる。まるであのときみたいに。
年明けに、天輝が思いつめた表情で「仕事を辞めたい」と言ってきたときに、よく似ていた。
天輝はもともと、いろいろなものに対して不安や恐怖を抱きやすい性質だ。そのくせ変に責任感が強いから、限界以上の精神負荷を抱え込んでしまう。
つらいことや苦しいことをかわしたり、逃げたりすることが上手くできないのだろう。良く言えば繊細、悪く言えば弱いひとだった。
そういう天輝を、私が支えて守ってあげられたら。少しでも生きやすく楽にしてあげられたらと、これまでそう思ってきたけれど。
思わず苦笑がもれる。
今の天輝にとって、遠ざけたくてたまらないほどの不安や恐怖を抱く対象が、よりにもよって私自身だなんて。
ふだん天輝は、自分から弱音や愚痴をこぼすことはめったにしない。こうしてわざわざ言葉にするときは、もう相当に追い詰められた状態だと思っていい。
私が応じなければおそらく、離婚しないままでも1人で出ていくのだろう。
「……うん、わかった」
ペン立てからボールペンを抜き取って、テーブルの上に用紙を広げる。
前のときは、離婚が成立するまでに数ヶ月を要した。元夫の不倫相手たちに対する慰謝料請求やら財産分与やらマンションの名義変更やら、もろもろの雑多な処理に時間がかかったせいだ。
今は賃貸住みで、親権問題や互いの不貞があるわけでもなく、合意さえしてしまえばあっさりすむものなんだな、と変なところで感心してしまう。
「名字は、変えなくていい? 蓮水姓のままで」
「いいと思う。たぶんうちの親も気にしないだろうし」
旧姓には戻りたくなかった。今は絶縁した兄と、元夫が名乗っているそれ。戻せば、せっかく断ち切った縁が、またつながってしまうような気がして、嫌だった。
書き終えて判を押した用紙を、襖の隙間から差し出せば、「ありがとう」という言葉とともに引き抜かれる。
「あと俺、三連休中に引っ越し準備するから、えりさんは家にいないでほしい。ここは今月いっぱいで契約解除になるから、それまでにえりさんはえりさんで引っ越し先決めて、出られるようにしといて」
「えっと、三連休のあいだに、不動産屋さんを回るつもりで……」
それは当初2人で、の予定だったけれど。今月中の退去がすでに決まっているなら、私も早く部屋を探し始めないといけない。
「えりさんは仕事してないんだから平日いくらでも動けるでしょ。三連休は俺に譲ってほしい」
べつに好きで無職になったわけじゃないんだけど。
というか、無職で病気完治してなくて次の就職も危うい状態の人間が、単独で新たに部屋を借りることができるんだろうか。
「……私、どこに行けばいい?」
急に心細くなって、そんなことを聞いてしまう。
「どこへでも。好きにしていいよ。じゃあ俺、行くから。明日のお昼には戻ってくるから、それまでにホテルかどこか移ってて」
玄関の扉が開閉する音。施錠されて、足音が遠ざかっていく。
少しだけ開けてみた襖の向こうに、当然だけれど天輝の姿はなかった。
今日で自宅療養期間が終わって、明日になれば10日ぶりにようやく天輝の顔を見れるのだと思ってた。
私の顔を見たい、触りたいと天輝が言ってくれたのは、つい先週のことなのに。
あれからほんの数日のあいだ、同じ家の襖1枚隔てた別の部屋で過ごしながら、天輝の気持ちはどう変化していってたんだろう。
1日も早く私のそばから逃げ出したくてたまらないのを、待機期間が明けるまで耐えていたのかと思うと、気づけなかった自分の鈍さが嫌になってくる。
「明日のお昼までに、ね……」
駅前のビジネスホテルなら、年会費との相殺で送られてきた宿泊券がけっこうたまっていた気がする。3日くらいならそれで事足りるだろう。
ネットでホテルの空室状況を確認してみれば、コロナ禍のせいか、三連休にもかかわらず空きがあった。
宿泊のための準備をしながら、どこへ行こうかと考える。
ここは出ることになっていて、職場も遠方への転居を理由に退職した以上、この辺りにはいられない。
実家や地元には戻れない。戻りたくない。頼れる親類縁者も、親しい友人知人もいない。
前の離婚のさいにそれまでのあらゆる人間関係をことごとく断ち切って、天輝だけを頼りにこの地にやって来た。
もともと、縁も所縁もない土地だ。天輝と離婚するなら、私がここにいる理由もない。
会いたいひとはもう誰もこの世にいない。最初の婚約者だった従兄も、母も、祖父も、父も、誰も。
ならもういっそ、と投げやりな気持ちになりかけるのを、深呼吸してどうにか抑える。
それなら、どこへ行こう。私はどこで生きていきたいんだろう。なんのために。