その1。
物音で、目が覚めた。目が覚めてから、自分が寝ていたことに気づく。
常夜灯のほのかな明かりに照らされた、見慣れない薄暗い部屋。ここはどこだろうと考えていると、こちらへと向かってくる足音が聞こえた。間もなく襖が開けられて、光が差し込んでくる。
「あれ、えりさん。寝てたの」
まぶしさに目もとを手で覆っていると、天輝の声がした。
ああ、そうだ。ここは先月引っ越してきた新居で、自分は寝室にと決めた部屋にいるのだと、ようやく思い出す。もう越してきてひと月になるというのに、いまだに寝起きは戸惑ってしまう。
手の陰から襖のほうを窺ってみれば、ぼんやりとしたシルエット。全体が黒っぽいから、スーツを着ているのだろう。仕事帰りだろうか。
天輝が帰ってくるような時間まで寝てしまっていたのだろうかと、枕もとに手を這わせて携帯を捜す。部屋に入ってきた天輝が、布団から落ちていた携帯を拾い上げて、手渡してくれる。
「ありがとう。もう、夕方?」
携帯を開いたけれど、表示された数字がぼやけて見えない。よく見ようと画面に顔を近付けると、バックライトに目がくらむ。携帯を近付けたり遠ざけたりしていると、天輝がこれまた布団から落ちていたらしい私の眼鏡を差し出してくる。
「まだお昼だよ。カーテン開けていい?」
うん、と返事をしながら眼鏡をかけて携帯を見てみれば、時刻は12時を少し過ぎたところだった。遮光カーテンが開けられると、部屋は一気に明るくなる。確かにまだ真昼らしい。
夕方ではなかったことにホッとするけれど、こんな時間まで寝こけていたことに変わりはない。天輝は朝から仕事に行っているのに、自分は転居を機に無職になったからといって、だらけすぎにもほどがある。
「ごめん。起きる」
うなだれながら起き上がると、歩み寄ってきた天輝の手が頭に置かれた。
「疲れてるんでしょ、引っ越しでずっと大変だったからね。無理しないでゆっくりして」
天輝の優しい言葉に、胸が痛む。寝坊は、ゆうべ夜更かしをしていたせいだ。
「ゆうべ、その、ちょっと遅くて……」
どう言ったものかとしどろもどろに言葉を継いでいると、頭に置かれた手にぽんぽんと軽く叩かれる。
「また書けなくて、寝れなかったの?」
「うん……」
「そっか。つらいね」
新型ウイルスに感染してから、思考力や集中力の極端な低下に悩まされていた。たぶん感染症の症状・後遺症のひとつとされるブレインフォグなのだろう。
考え事をしようとすると、なにかに阻害されるように頭が働かなくなる。まるで唐突にシャットダウンされるように、思考が途切れてしまう。
文章も絵もかけなくなった。創作をするためのプログラムファイルは確かにあるのに、そこにアクセスするための方法がわからない、そんな感じ。かくことだけでなく読むことも今は危うくて、たった数行の文章さえ、何度もくり返し読まないと内容を把握できない。
短文でさえそんな調子なのだ。長文になると、時間をかけてなんとか読み込んでも、読み終えたときにはなにが書かれていたか思い出せない、理解できていないこともしばしばだ。
ゆうべもずっとパソコンに向き合っていたけれど、これまでどうやって文章を綴ってきたのか、どんなふうに線画を引いていたのか、わからないまま夜が明けてしまった。
「そんなにしんどいなら、もうしなくていいんじゃない? 創作」
慰めるために言っているだろう天輝の言葉に、少しの苛立ちと、理解してもらえない悲しさが募る。
もともと、天輝は私が創作をすることをあまりよく思っていない。天輝が知りたくない私の暗部そのものだから、見たくないのだ。私が創作をしている姿も、できあがった作品も。
天輝の中にだけいる『綺麗で可愛くて、穏やかで優しい恵凛さん』という幻想が、時々ひどく恨めしい。
「たかくんは、ゲームでうまくいかないことがあれば、あっさり止められるの?」
思わず批判めいた言葉が口をついて出る。見上げれば、眉尻を下げた天輝が小さな声で「ごめん」と謝ってくる。
気落ちさせてしまったことに、自己嫌悪する。常日頃、つらいことやしんどいことからは逃げていいのだと、私自身が天輝に言っているくせに。
「お昼に帰ってくるなんて、珍しいね。今日はお仕事、もう終わり?」
空気を変えようと話題を振れば、天輝が思い出したように隣の部屋へと行く。
「ちょっと仕事で郵便局に行くことになって。確かえりさんが作ってくれた地図に、場所が書いてあったなと思って。そこ寄ったら午後は隣町に行って作業があるんだ」
ここは職場から近いから、こういうとき助かる。
そう言いながらカラーボックスの引き出しを探っている。地図を捜しているんだろうか。
「地図なら、このあいだ市役所に行くとき持っていって、リュックに入れっぱなしじゃない?」
「あ、そうか」
ええと、リュックはどこに置いたっけ。と、今度はリュックを捜し始める。カラーボックスの脇に置いてあるのに、なぜだか天輝の目には映らないのだ。
「そこにあるでしょ」
と指を差せば、私のところへと戻ってきた天輝が、私の指先に自分の指先を合わせて、空間をてんてんと辿っていく。
「違う。まっすぐ先。カラーボックスの横」
私が指差す方向を辿っているつもりで、てんで違う方向に曲がっていくから不思議だ。カラーボックスの横、まで指定してようやく天輝にも視認できたらしい。
リュックを探って地図を引っ張り出した天輝が、あったあったと喜んでいる姿を見て、そのうち私のことも見えなくなるんじゃないかと思ってしまう。
実際、長身の天輝からすると、150センチもない私は、近くにいればいるほど視界に入りにくくなるようだけれど。
「お昼ごはんは、もう食べたの?」
地図で郵便局の場所を確認している天輝に聞けば、帰る途中でコンビニに寄っておにぎりでも買おうと思って、忘れたと言う。大方、歩きながらこのあとの予定を頭の中で組み立てているうちに、家に着いてしまっていたのだろう。
ひとつのことを考え始めるとほかのことは忘れてしまう過集中という障害は、天輝にとっては悩みの種らしい。集中して物事を考えることができなくなってしまった今の私に、少し分けてもらえればつり合いが取れそうなのに。
「カ〇リーメイトかなんか齧ってく」
こないだ買ったのまだあったっけ、と聞かれる。仕事中に小腹が減ったとき用にと職場に全部持っていったことは覚えていないようだ。新型ウイルス感染後、記憶力も低下してしまった私の貴重なメモリをあまり頼らないでもらいたい。
それにしてもお昼ごはんがカ〇リーメイトだけだなんて。夕飯は汁物と肉・魚・野菜が揃っていないと不満そうにするくせに、朝・昼は適当でも平気なのはどういうことなのか。いやむしろ、朝・昼がそんなふうだからせめて夕飯はしっかり食べたいのかもしれないけれど。
キッチンに移動して冷蔵庫を覗き、すぐに食べられそうなものを見繕う。
「急がないなら、たかくんのも、ついでに用意するけど」
天輝のために用意すると言えば、「いらない、大丈夫」と無用な遠慮するだろうから、わざと自分のぶんのついでという体で聞いてみる。
「んーとね、バターロールと、卵とベーコン焼いて、あと昨日のミネストローネもあるよ」
ミネストローネと聞いて、天輝があからさまに目を輝かせている。具だくさんで食べ応えのあるスープは、天輝がとくに好むものだ。
「食べる食べる。いただきます」
「うん。じゃあ少し待っててね」
天輝が居間へと入っていくのを見送って、調理に取りかかる。
バターロールをトースターに入れて、フライパンにベーコンを敷いた上に卵を割って、スープを温めて。
やるべき手順をひとつひとつ確かめながら、行動に移していく。
以前はとくになにを考えるでもなく自然にできていたことが、今では意識して段取りを組みながらでなければできなくなった自分に嫌気がさす。
いつか元に戻ることがあるのか、それともこれから先ずっと、こうなってしまった自分に慣れていかなくてはいけないのか、それすらもわからない。
この感染症の症状は種類も個人差もありすぎて、感染した人が今後どうなっていくかなんて、きっとまだ誰にも確かなことはわからないのだろう。
私はたぶん、軽症ですんだほうだから、幸運だったと喜ぶべきなのだろうけど。
この先、こんなふうになってしまった私のせいで、天輝に迷惑をかけてしまうこともあるのかもしれない。天輝に面倒がられ、嫌がられてしまうときがまた来るのかもしれないと、不安になる。
あのとき、天輝の望み通りに、私から彼を逃がしてあげられていれば。
天輝が私という厄介な荷物から解放される機会を、私がふいにしてしまったのだと、時々考えずにはいられない。