第31章──知られざる過去Ⅳ
Ⅴ
智信枝栄の胸に真堕羅のオロチの眼が触れたとき──最も忘れがたい人間界での映像が映し出された。
『山賊の子を宿してしまった母を助け、父親が誰かも分からない卑しい私たちを実の子以上の愛をもって育ててくれた…。──捨てられても仕方のない私たち姉妹を…。──お父様が許してくださるのなら、これからもお父様と呼べるのは…このお父様だけです!』
智信枝栄は誰にも過去を見られたくなかった。自分が盲目だったことを隠したかったわけではない。
遠い遠い、古い古い記憶──智信枝栄は父との絆を、秘密の小箱に大切に仕舞っておきたかったのだ。
〇
「あんたに同情されるなど虫唾が走る。さっきの映像のことは忘れてさっさと蚣妖魎蛇と共にくたばればいいわ…」智信枝栄は矢羽走彦を睨みつけて罵倒した。
「あぁ…そうするつもりだ…。だがその前に伝えておかねばならないことがあるのだ…………種女よ…」
「汚らわしい!あんたなんかにその名前を口にしてほしくない…」そこまで言って智信枝栄ははたと気づいた。「…………ど、どうして…その名を…。さっきの映像にその名前は出てこなかったはずなのに…」
「…そうだ…出てこなかった…。種女………その続きを覚えているか…?」
『それを聞いて安堵した。これで思い残すことは何もない。…だがお前のことは気がかりだ…。この体はもうじき朽ちる…。だがお前だけは霊となりて守り抜いてやる』
「お前の父はそう言った。霊となっても盲目のお前を守ってやると約束したのだ。…お前の父・箕耶鎚は二人の娘を心から愛していた…」
智信枝栄は頭の中が真っ白になった。父・箕耶鎚しか知らないやり取りを、矢羽走彦が知っている理由は一つしかない。
「そんな……あなたが………お…お……おとう…さま…?」智信枝栄はもう涙で目を開けていられなかった。「そんな…そんな…矢羽走彦………あなたがお父様だなんて…」膝を折り両手で顔を覆った。
「…本当に………お父様なの?」葉女も信じられない体で尋ねた。
「許してくれ。映像を見て我が目を疑った…。だがこんな恥ずべき私が今さら父と名乗ることなどできようか…。名乗れば我が子を落胆させ傷つけるだけだ。故にどうしても名乗る勇気がなかった。…だが目の前で無にされるお前たちを黙って見ている勇気はもっとなかった」
「ごめんなさい…お父様のことを汚らわしいなどと…。どうして気づかなかったのでしょう…」泣き崩れる智信枝栄に矢羽走彦は優しく答えた。
「お前は気づいていたのだ…意識下の中で…──そう…拗隠の国で初めて私と出会ったときから…。やっと分かった──上手く身を潜めていた私が、いつもお前にだけは簡単に見つかっていたその理由が…。…時代を経ても親子の絆は繋がっていたのだ」
そして矢羽走彦は箕耶鎚の姿となって現れた。「良かった…念だけの私がこの姿になるのは無理かと思ったが…」そこに立っていたのは間違いなく智信枝栄と文女之命の知っている箕耶鎚そのものだった。「この姿で伝えたかった──お前たちは何があろうとも霊神であることを忘れるな…。絶対に私のような邪悪に染まってはいけない…最後に待っているのは奈落だ。悪は絶対に栄えない──それが道理だ」
「………お父様…」
「この姿は長くは持たない。さぁ、オロチを押さえ込んでいる間に真堕羅の大穴へ突き落すのだ」
「だけど、そしたらお父様が…」
「良いのだ。これで良いのだ。父親らしく最後に果たしたいのだ──〝お前だけは守り抜いてやる〟というその約束を…」矢羽走彦は再び全霊気を集中させて真堕羅のオロチを押さえ込んだ。
「私の霊気もあと僅かしか持たない。錫雅尊が日・月・光を突き刺したら皆で突き落せ!」
今まで唖然として成り行きを見守っていた錫だったが、我に返って無言で頷いた。
「お願い日・月・光──その力を私に!」錫は再び日・月・光を真堕羅のオロチの背中の窪みに突き刺した。
急所を突かれた真堕羅のオロチは奇声を発しながら藻掻きまわった。
それを待って天甦霊主が命じた。「共に力を合わせるのです!」その一声に全員が立ち上がった。天甦霊主は持てる力をふり絞り、できる限りの霊気を皆に分け与えて回復させた。
──「充分ではありませんが許しておくれ…」申しわけなく思う天甦霊主の霊気は、もうほとんど残ってはいなかった。
各々は分け与えられた霊気を溜めはじめた。
「今です!」天甦霊主の合図とともに、全員が一斉に霊気を放出した。波動となって放出された霊気は真堕羅のオロチをジリジリと大穴へと引きずっていく。
「やめろっ、くそぉ──っ!」怒りながら抵抗する真堕羅のオロチを、矢羽走彦は必死で押さえ込んだ。
──「お父様…」智信枝栄は心が折れそうになる。
「手を抜くな──種女!」真堕羅のオロチの口を借りて矢羽走彦が叫ぶ。「もう少しだオロチを押し込め!」
「お父様…まだ間に合う──抜け出して!」智信枝栄が悲痛な声で訴えた。
「封印前に抜け出せばコイツはまた逃げ出してしまう。最後くらい…父として…役に立たせてくれ!」
「お父様…お父さまぁ────っ!」
「種女…葉女────愛しい娘たち…最後に会えて私はもう思い残すことはない…」
箕耶鎚が人柱となって死した後、人間界の修行を終え、矢羽走彦となって白の国に戻ってきた。
そのとき矢羽走彦はどうしても忘れることのできない人間の女性の影を引きずっていた。できることならもう少し生き長らえ、自分の及ぶ限りのことをして守ってやりたかった──それほど愛しい女性だった。
それは妻でも恋人でもなかった。────その女性こそが種女だったのだ。父親として盲目の娘を一日でも長く見守ってやりたい──ただそれだけだった。
「矢羽走彦──あなたを高徳な霊神として称えます!」天甦霊主が大声で告げた。その言葉に矢羽走彦が笑顔で答えたように見えた。
真堕羅のオロチが完全に大穴に沈んだとき、矢羽走彦が叫んだ。「今だ!──錫雅尊、日・月・光を使え!」錫は言われたとおり日・月・光を真堕羅のオロチから抜き取ると真堕羅の大穴から飛び出し、透かさず大穴の入り口を横一文字に一振りした。「剣の霊神──私に力を!」たちまち眩い光の渦が巻き起こり大穴は封印された。
今までのけたたましさが嘘のように静まった──。打って変わった穏やかさに、誰一人口を開く者はいなかった。
やがて〝シィーン〟と静まり返った真堕羅にすすり泣く声だけが聞こえてきた。
「おとうさま…」他ならぬ智信枝栄だった。
矢羽走彦が誰に取り憑いていようとも、智信枝栄はその気配を感じて見抜いてきた。矢羽走彦にとって迷惑な話だったが、智信枝栄にとってもまた、それは望んでしたことではない不愉快なことだった。けれど矢羽走彦が父であったと知った今、その不愉快だと感じていたことが後悔へと変わった。
「矢羽走彦の気配だけを見抜けることにもっと疑問を持てばよかった。そうすれば、お父様だと気づいたかもしれなのに…」
「お姉様…ご自分を責めないで。疑問を持ったところでお父様だと判るわけがないのですから…」
「そのとおりです智信枝栄。人間界であなたの父だった矢羽走彦は──これから先、白の国を脅かす邪悪を見張る真の英雄として永遠に語り継がれるのです。あなたは父に誇れる白の国の真の霊神におなりなさい」天甦霊主が傷ついた智信枝栄に労りの言葉をかけてやった。
「智信枝栄殿──矢羽走彦は拗隠の国で抜け穴を塞いで戦いを終結させた。あなたのお父様は二度も白の国を救った英雄だ」錫も智信枝栄の肩を優しく撫でた。信枝は智信枝栄に同情し涙を浮かべながらも、少し羨ましく思ってしまった。
「綿……私も錫雅様にナデナデしてもらいたい…」
「信枝殿…………女ですね…」綿は呟いた。
斯くして真堕羅のオロチと蚣妖魎蛇は矢羽走彦と共に封印され、黒の国にも平和が戻った。
任務を果たした錫たち一行はそれぞれの場所へ帰って行った。言わずもがなだが、錫は堕羅の大門を封印するという門番の仕事も怠らなかった。
獄卒の鬼たちは何事もなかったように、また地獄に落ちた亡者たちを苛め続けるのだった。