第31章──知られざる過去Ⅱ
Ⅱ
矢羽走彦は霊力を使って真堕羅のオロチの眼を智信枝栄の胸元に当てた。
「まるで映画のようだわ…」智信枝栄の頭上に映し出される映像に信枝が呟いた。
やがて智信枝栄の人生の物語が進むと、智信枝栄は静かに目と閉じて下を向いてしまった。
──「これが──浩子の人間界での最初の人生…?」錫はその映像を言いようのない複雑な思いで見つめた。
映し出されていた記憶が幕を閉じても、誰一人として口を開く者はいなかったが、蚣妖魎蛇だけは甲高い声で笑った。
「悲劇のヒロインか?がははは…今更そんなお涙頂戴の記憶など思い出したくなかったということか?」
「うるさい!…あんたなんかに何がわかるの…」智信枝栄は蚣妖魎蛇を睨みながら言った。
「オ~…恐い霊神様だ…。矢羽走彦…お前も何か言ってやれ!…くふふ」
「……………」矢羽走彦は無言だった。
「何か言ったらどうなの?あなたが面白半分に見せたんでしょう?…黙っていないで笑ってみなさいよ──この薄汚い獣!」智信枝栄は珍しく強い口調で悪態を吐いた。
──「よほど封印しておきたかったのね…。こんな浩子初めて見たわ…」錫は目を大きく開けて驚いた。
「私は…………………何も言うことはない」矢羽走彦はそれだけ言って口をつぐんだ。
「そうだろう。こんな映像に何か言う価値などない。──さてさて寄り道が過ぎた。矢羽走彦、この哀れな霊神様を早く楽にしてやれ」
「………………はい。………ですがやはり蚣妖魎蛇様がこいつらを一掃してください」
「なんだ…さっきは自分で始末すると張り切っていたではないか?」
「やはり、折角なので蚣妖魎蛇様の真の力を見てみたいと思いまして…」
「なるほどよかろう…では私の真の力を見ておれ。こいつらをまとめて無にしてやるわ──がは~~~っ!」今や真堕羅のオロチと融合した蚣妖魎蛇は恐い者なしだった。堕羅の邪気をどんどん吸い取ると、みるみるうちに黒い霊気を纏った今までにない真堕羅のオロチへと進化した。ウロコは前より大きく硬さも増し、八つの頭にそれぞれ生えていた二本の角はシカの角のように枝分かれした見事なものに変化した。首、尻尾、牙や爪までもが長く太くなり、近寄るだけで弾かれてしまいそうな化け物だった。
「見るがいい──これが私の力だ!」オロチは首を無作為にくねらせがら八つの口から霊気を放出した。するとどうしたわけか、今度はその霊気が当たらずとも錫たちは徐々に霊力を失い始めたのだった。
「ダメ…力が抜けていく…」錫は脱力感に襲われ膝を折った。
「おぉ、オロチの邪気を帯びた霊気がこれほど素晴らしいとは!見ろ矢羽走彦…こいつらは神だぞ、霊神だぞ──それがこのザマだ…ふははは。これではあまりにもつまらん…。やはり一人ずつがいい──最初の計画どおり智信枝栄…お前からゆっくり無にしてやろう…ふっふふふ…」オロチは右から三番目の頭を智信枝栄の目の前に近づけ、ゆっくりとオロチの邪気を吹きかけた。
「あっあぁ──っ!」智信枝栄は今までにない叫び声をあげて苦しんだ。
「どうだ、オロチの邪気は?苦しいか?──無になるまで貴様の霊気をジワジワと吸い取ってやる。白の国の霊神め…」そうしてまたオロチの邪気を智信枝栄に浴びせた。
「お姉様~!」文女之命が叫んだ。「私も一緒に無にして──お願いだから!」文女之命は必死で蚣妖魎蛇に願った。
「それが望みか?──私とて元は霊神なのだ。そうしてほしいなら仲良く無にしてやる優しさくらいある…ぐふふふっ」オロチの一番左の頭が文女之命に近づいた。縛られて抵抗できない智信枝栄と文女之命には、オロチが吹きかける霊気を躱す術がなかった。
「うぅっ…あぁ──!」。「ぎゃ──っ!」立っていることさえできない二人は、倒れ伏してゴロゴロと転げ回った。それでもオロチは霊気を止めようとはしない。
「もうやめて!いい加減にして!」錫が叫んだが無意味だ。
このまま智信枝栄と文女之命が無になるのを黙って見ていたくはなかった──とはいえ、錫にはどうしてやることもできなかった。それは他のだれもが同じだった。
Ⅲ
種女は矢馬女の幽閉されている牢へ自ら足を運んだ。
「矢馬女様…」
「そうか…」矢馬女は処刑される覚悟を決めて、そう一言だけ呟いた。「種女…最後に言わせてくれ。…そなたを陥れ、人柱と称して箕耶鎚を亡き者してしまったこと…許してくれでは収まらないだろうが、この矢馬女の命をもって償うことで勘弁してくれ…」
「分かりました…」種女はそう言って横に立っていた牢番に合図をした。牢番は持っていた剣を矢馬女に向けた。
矢馬女は静かに目を閉じた。だが、その剣は矢馬女の肌には触れず、縛っていた縄を断ち切った。
「矢馬女様、今の言葉が矢馬女様の本心ですね…。それで充分です。矢馬女様は自由に生きてください」
「ゆ、許してくれるのか…?この私を…そなたに酷いことをしたこの私を…」
「矢馬女様がどれほど重い荷物を背負っておられたか、私なりに分かっているつもりです。その荷物を片時も下ろせず、一人で苦しい日々を送り続けたことに免じて許します…」
「種女…ごめんなさい。本当にごめんなさい…。私が愚かでした…」一番惨い仕打ちをした人間が、一番自分の心を理解してくれていた。矢馬女は自らの過ちを恥じ──後悔し──そして初めて神に心から詫びた。
一週間後──矢馬女は病で亡くなった。
民たちの間では〝神が罰を当てた〟とか〝何かの祟りだ〟など噂は後を絶たなかった。
幽閉を解かれてからの矢馬女は誰とも接することなく湖の畔で日を過ごしていたが、死を迎える三日前から原因不明の熱に侵され、そのままあっけなく逝ってしまった。
死の前夜──矢馬女を訪ねてきた人物がいた。誰あろう種女だった。
この夜、種女が矢馬女に会いに来たのには理由があった。実は種女は神から啓示を受けていたのだ。
《今お前がもっとも会いたい人物に会いにゆけ》
考えるまでもなかった。今の種女にとって、その人物は一人しかいなかったからだ。
矢馬女は高熱にうなされながらも種女の訪問を喜んだ。そして、朦朧とする意識の中で告げた。「人には生き地獄でも、私にとって最も安らげたのは牢の中だった。そして最も幸せだと感じたのは………私のことを理解してくれている宝物を得たことだ…」矢馬女は布団から右手を出した。その手は何かを握っていた。
「これは幼いころ見つけたものだ──触ってみるがよい」それは星形をした琥珀色の石だった。「この石を拾った場所は……今神殿を建てている場所だ。私はこれを拾ったときから、そこが神聖な場所だと信じてきた。これはそなたが持っていてくれ」
「こんな大事なものを……私に?──けれどそれは…」種女は手を伸ばすことを躊躇った。
「高価なものはたくさん手に入れた。今となっては、なんの値打ちもないガラクタばかりだ。けれど…この石だけは私に神聖な場所を示してくれた宝なのだ。頼む…私の大事な石は──もう一つの宝物であるそなたに持っていてほしいのだ…」
「…分かりました──矢馬女様…」種女は琥珀色の石を受け取りながら、矢馬女の手をしっかりと握った。矢馬女はうっすらと笑みをうかべた。
「もっと早くそなたとこうなっていれば…。私の人生も違っていただろう──全て自分の蒔いた種だが…」
「矢馬女様、自分を責めてはなりません。早く元気になって私に良き助言をしてください」
「いいや…そんな必要はない。………それに……私は長くない…自分で分かる。そなたもそう思って来てくれたのだろう?…いや…そなたの場合は神のお指図できたのかもしれんな…」そう言って矢馬女はまた笑みをうかべた。
種女は矢馬女が寝息を立てて眠ったのを見届けて帰った。
朝方──矢馬女はもう帰らぬ人になっていた。
種女は矢馬女の亡骸を湖の畔に埋葬してやった。
「幽閉を解かれて湖畔で過ごした数日が、私にとって一番自分らしく過ごせた時間だった」嬉しそうに枕元で語ったその言葉が、種女の耳から離れなかったからだ。
「矢馬女様…あの場所には必ず素晴らしい神殿が建つでしょう。だって神様があの場所に建てるよう矢馬女様に頼まれた神聖な場所ですもの…」種女は一人呟いて琥珀色をした星形の石を強く握った。