第31章──知られざる過去Ⅰ
知られざる過去
Ⅰ
種女は三日三晩眠ることなく神に祈りを捧げた。
「種女様…民は交替しながら仕事をしていますが種女様は…」やつれた種女を気遣って里女が声をかけた。
「ありがとう…。ですが私は祈らねばならないのです…」
「お姉様…どうしてそこまでして?」葉女も心配そうに尋ねた。
「これから高い場所での神殿建築は過酷なものになるでしょう。誰一人死人を出してはなりません。それにたった一人で人柱となったお父様に寂しい思いをさせたくありません。ハニワを友として眠ってもらいたいのです。…これは何度も伝えたでしょう?」
「だからといってそんなになるまで…」
「もう少し…もう少しです。今日の夕刻には終わるでしょう」
「ですが種女様が倒れてはどうにもなりせん…」
「倒れません……倒れるわけにはいかないのです。民たちに私の最後の願いを伝えるまでは…」種女は強い口調で言った。
夕刻────ハニワは全て土中に収まり、そこは小山となった。種女は民を集め、心から労いの言葉をかけた。
「一つ…皆さんにお願いしたいことがあるのです」種女の閉じた瞼が、民たちには大きく開いているように見えた。それほどの願い事なのだと民たちは一同に感じていた。
「わしらは種女様のためならなんだっていたします」。「そうですとも。いつも私たちのことを一番に考えてくれている種女様の願いなら…」民たちは口々にそう言った。
「ありがとう皆さん…。では私の願いを聞いてください」冷静を装った種女だったが、胸の鼓動は痛いほど高鳴っていた。「皆さんにお願いしたいことは…………お願いしたいことは……………私を今の苦しみから救ってもらいたいということです」
「いったい何に苦しんでおられるのです?」民の長が尋ねた。
「私の苦しみの源は…矢馬女様です」その名を聞いた民たちはざわついた。
種女の一言に、民たちは声を揃えてこう言った。「矢馬女を殺せ!──矢馬女を殺せ!」
矢馬女は岩山の自然牢に幽閉されていた。処刑されるはずだったが、それでは一瞬で終わりだ。死ぬまで牢に放り込んでおくことを民たちは望んだ。
そこは自由を奪うだけの単純な場所ではない。たった一人、陽の当たらない狭く湿った牢に放り込まれれば、どんな人間でも三日で精神を病み始める。害虫がそこらを這いまわり、頭にはシラミがわき皮膚病を患う。最初はかゆみに耐えられす掻きむしっていても、そのうちその気力も無くなる。そうして廃人の一途を辿るのが自然牢の恐ろしさだ。
「種女様の苦しみは、わしらの苦しみだ。今すぐ矢馬女を処刑して種女様に安らいでもらおうではないか!」種女は矢馬女に虐げられてきた──民の誰もが知っている事実だ。種女の気持ちを知った以上、一刻も早く矢馬女を処刑して、種女を苦しみからを解放してやりたいと民の誰もが思った。
しかし種女は思わぬ言葉を口にした。「違うのです…違うのです…そうではないのです…」民たちは静まり、種女の言葉に耳を傾けた。
「私は今の矢馬女様を見ているのが苦しいのです…。私の願いは──矢馬女様の幽閉を解いてもらうことです」民たちは聞き違いではないかと耳を疑った。けれど種女の次の言葉がそれを打ち消した。
「どうぞ…どうぞ矢馬女様を許してあげてください!…私がこの座に就いて矢馬女様が幽閉されていること──それが辛いのです」民たちだけではない。葉女も里女も驚いてただ種女の言葉を聞いていることしかできなかった。「皆さんが言いたいことはよく分かっています。矢馬女様の神の啓示や予言はすべて偽りでした。しかし、矢馬女様はそのことを悟られないようずっと一人で苦しんできたはずです。やり方は間違っていたのかもしれませんが、地位を守るために必死で政をしてこられたのです」
「しかし…しかしあの女を自由にすれば、また何をしでかすか分かりません」民の長が言った。
「いいえ…もう何もできません。すべてを知られ守るものが無くなったのですから…矢馬女様は何もしません」民たちも意見が分かれざわついた。「どうか…どうか私を信じてください。私の命を懸けてもかまいません。どうか、どうか…矢馬女様を自由にしてあげてください…」種女は膝を折り胸元で手を組んだ。
「い、いけません。いけません種女様──わしら民たちにそんなことをしてはなりません」民の長が立ち上がって後ろを向いた。「皆聞いてくれ!──種女様のこの姿を見てどう思う?…これが今の種女様のお心なのだ。わしらは今までどれほど種女様に助けて頂いたことか…。今度はわしらの番だ。種女様の願いに応えようではないか──そして…今回も種女様のお言葉を信じようではないか」民の長の言葉に反論する者はいなかった。
「ありがとうございます!…皆さんありがとうございます」膝を折ったままの種女を、葉女と里女が脇を抱えて立たせた。
「種女様の思いが民たちに届いたようです。…ですが、本当にこれでよろしいのですか?…矢馬女様を許して…」
「…矢馬女様は知られてはならない秘密を守るために必死で生きてきたのです。ゆえに独裁を武器に突き進み、結果的に民たちに恨みを買うことになりました。矢馬女様は一日とて、枕を高くして眠ったことなどなかったでしょう。自業自得とはいえ、嘘偽りがバレる恐怖に怯えながら日を過ごしていたのだと思うと哀れでなりません。矢馬女様が犯した過ちは、その哀れな日々と相殺してほしいのです。里女も葉女もどうか分かってください…」
「種女さま…」。「お姉様…」二人はどこまでも透きとおった種女の心に胸を打たれ、共に手を取った。
「…そうした日々を過ごしてこられた矢馬女様は幽閉され…この私が女王の座に就いた──これが私には耐えられませんでした。牢中でみじめに過ごしている矢馬女様のことを見て見ぬふりをして過ごすことが私には辛すぎたのです…。なので…なので……これでやっと私は落ち着ける…。分かってくれてありがとう里女…葉女…」
自分だけ幸せになることが種女には耐えられなかった。矢馬女が自由になることで、やっと自分も安らかに眠れると種女は安堵したのだった。
「お父様…。お父様には私がそちらに行ったら報告します…。きっと優しいお父様は私のことを許してくださいますよね…?」種女は見えぬ目で天を仰いで父に祈った。




