第26章──真堕羅のオロチⅠ
真堕羅のオロチ
Ⅰ
「蚣妖魎蛇が真堕羅のオロチを支配したなら、私が蚣妖魎蛇を取り込んでやる──それはつまり真堕羅のオロチを私が支配するということだ。伸るか反るか…。奴はどっちに転ぶ?」辰夜代は鋭い眼光で蚣妖魎蛇が飛び込んだ深い穴の中を覗き込んだ。真堕羅のオロチの鬼灯のような眼が辰夜代を睨んでいる。長い長い時間睨み合いは続いた。そして──徐々にその距離が縮まっていった。
「奴が出てくる…」辰夜代は一歩も退くことなく真堕羅のオロチを迎えた。
──「さぁ…どっちだ……………?」深い穴から抜け出した真堕羅のオロチと辰夜代との睨み合いが再び始まった────やがて、八つの頭を持つ真堕羅のオロチは同時に口を開いた。
「私だ辰夜代。とうとうこいつを支配したぞ」蚣妖魎蛇だった。
辰夜代は徐にひれ伏した。「蚣妖魎蛇様、おめでとうございます!これでどの国も蚣妖魎蛇様の思いのまま…」
「あぁ、そのとおりだ。だがオロチの霊力は凄まじい。自由に操れるまでにはもう暫く時間が必要だ…」真堕羅のオロチを支配した蚣妖魎蛇は、蛹の如くその時を待った。
Ⅱ
「じゃ、我が家で一番長老のおばあちゃんも歌舞伎を観たことないの?」
「そうなんだよ…。まぁ、冥途の土産に一度くらい行ってみようかね」
錫は家族で食卓を囲んで夕食を楽しんでいた。今夜のメニューはトンカツだ。錫は口いっぱいに分厚いジューシーなカツをほおばったまま、歌舞伎の講釈に余念がなかった。
「パパは歌舞伎観たことある?」
「パパは演劇の神様だぞ。歌舞伎だって何度も観たさ。今お前が垂れていた講釈だってパパは全部知っているぞ…ぐははっ」
「ホント?…嘘クサいなぁ……」錫は怪しげな目で龍門を睨んだ。
「あれ…娘に疑われるとは心外だな。…では付け加えて教えてやろう…コホン。例えばだな…」龍門はもったいぶるように間を置いてから口を開いた。「…舞台奥を北と考えて、向かって右側の上手は東、左側の下手を西という考え方もするんだ。まぁ、お日様が東から昇って西に沈む…これを上と下に当てたんだな」
「へ~~疑ってごめんなさい…。こういうところがパパなのよね!」
「なんじゃそりゃ…」龍門はどう受け止めてよいのか分からず、口をあんぐりと開けた。
一家団欒の夕食の後、錫は部屋に戻ってベッドに寝ころぶと、いしを相手に歌舞伎の話の続きに沸いていた。
「…こうしてみると歌舞伎なんて古臭いお芝居だと思っていたけど、結構おもしろいわね…」
「ご主人様はいつも過酷な生活をされていますから、たまにはお芝居でも観て息抜きをしたほうがいいですけん」
「私はいつも気ままに生活しているわよ、ふふっ」錫はそう言うと〝むっくり〟と起き上がり軽くため息を吐いた。「さぁ~てと…では文字替えといきますか…」錫は気が重そうに文字カードを並べると、にらめっこしたまま固まった。
大門の赤鬼は祠泉飲んで襲われる
【だ・い・も・ん・の・あ・か・お・に・は・ほ・こ・ら・い・ず・み・の・ん・で・お・そ・わ・れ・る】
「正解かどうかは別として、今のところ抜き出した文字は〝いずものほんでん〟よ。それに接続助詞の〝に・は・の〟を除くと──残りの文字は【だ・あ・か・お・こ・ら・い・み・お・そ・わ・れ・る】さてどうしましょう…?」
「ヒントとなる玉の絵をもう一度調べてはどうでしょうね?」
「うん…千木の付いた社…その中に描かれている大国主命──ここから〝いずものほんでん〟の文字を導き出した…。そして社の背後の山…その山の右側には沈みかけた太陽…」
「ご主人様…この太陽がどうして日の入りだと?…もしかすると日の出かもしれんです…」
「あ~…確かに!…太陽が半分山にかかっているから沈みかけだと思い込んでいたわ…。だけどここに〝ひので〟〝あさひ〟の文字はないなぁ…。何か別の例えがあるのかしら…?」
「ご主人様…この際、最後の〝お・そ・わ・れ・る〟それに〝あ・ら・わ・れ・る〟そして〝こ・わ・れ・る〟などの文字を抜いてみてはどうですか?これはわたしくの勘ですが、最後はそうした括りになるのではないかと…」
「いいわね。いったんそう仮定して、残りの文字を少なくするのは一手かも!」
「まず〝い・ず・も・の・ほ・ん・で・ん〟と〝お・そ・わ・れ・る〟それに接続助詞の〝に・は・の〟も抜いてみると──〝だ・い・あ・か・お・こ・ら・み〟たったこれだけになっちゃった!」
「けれど、これだけ少なくなっても抜き出す文字を当てるのは難しいですね…」
「…背景の山はどこかの名山かな…富士山…大山…御嶽山、はたまた三輪山磐梯山…。ん~…どれもダメ、抜き取る山の名前がない…」
「もしこの太陽が御来光なら、一般的には富士山ですよね…。でも富士山を文字では抜け取れない…」
「御来光かぁ…。この山と太陽の関係はなんだろう。…………ん?…ねぇ、この太陽は日の入りかも…」
「えっ!?…どうしてそう思われるたのですか?」
「ほら……社の左後ろに山でしょ…。太陽はその山の右側にかかってる…。右が上手なら左は下手…右が東なら左は西…」
「左が西なら日の入り…なるほど!この絵は太陽の位置に意味があるのかもしれませんね」
「う~ん…だとしてもそれに当てはまる言葉ってなんだろう…?」錫は結局先に進むことができなかった。
やがて年末で世間が慌ただしくなったある日──。
錫は龍門から大広間の大掃除を言いつけられ、ジャージ姿で御扉を必死に乾拭きしていた。
「この調子なら年末年始はのんびりとテレビが観られるわ…。いやいやこの際信枝と浩子を誘って、本当に御来光を拝みに行こうかなぁ…」
「はい…。どうせなら本物の御来光を拝みに行かれたらいいですけん」
「そうだね。年末年始はお山登りだ~!」錫は張り切って声を張り上げた。
と────そのまま錫が固まった──。
「ねぇ…いし……早く掃除を終わらせて、文字替えをしよう…」
「いきなりどうされたのですか…?」
「とにかく急ぐのよ!」錫はそれでも途中で投げ出さず、最後まで言いつけられた掃除をやり切ってから部屋へ戻った。