第22章──追い込みⅡ
Ⅱ
広井善男と松本弘志は、雪島繁殺しの重要参考人として、警察に任意の同行を求められ、渋々取り調べに応じることになった。
広井は今になって後悔していた。松本のようなマヌケな男をどうして仲間に誘ってしまったのか──いくら考えても分からない。魔が差したとしか思えなかった。
今まで、天性のツキと手先の器用さを武器に仕事をしてきた広井には、警察などまったく恐れるに足らない存在だったのだ。それがどうだ──あろうことか窃盗ではなく人殺しの件で取り調べられるのだ。いったいどこから自分たちのことが浮上したのか──広井には皆目見当もつかなかった。
証拠は無いはずなので逮捕などあり得ないだろうが、決して居心地の良い場所ではない。さっさと解放してもらって、行きつけの飲み屋で冷えたビールを一気に飲みたい気分だった。
香神錫も大鳥舞子と一緒に同じ警察署内にいた。三日前、一松穣二刑事から連絡を受けていたのだ。ちょうど錫が最後の短文作成に必死で格闘していたあの時に鳴った携帯電話がそれだった。
一松から連絡をもらった錫は、真っ先に舞子の屋敷に足を運び、そこで半日を過ごした。何やら怪しげに密談をしていたのは、ほんのチョットの間で、大半は他愛もない雑談で盛り上がっていた。
「本当に信じていいんだね…?上司には内容を告げず、ただ〝僕を信じてください〟と言って任意同行させたんだ…ごめんなさいじゃすまないからな…」一松は右手で自分の首を刎ねる仕草をしてみせた。
「大丈夫ですよ!舞子さんともじっくり念入りに話をしましたからねぇ~」色の濃いサングラスをかけていた舞子は、そのやり取りを聞いて下を向いて口元だけで笑った。
「ね、念入りに?そ、そうか!それじゃ、行こう!」どうも落ち着かない一松だったが、座っていたイスから立ち上がると、広井と松本の待つ別の部屋へと二人を先導した。
舞子は錫に介添えされて車いすで部屋に入った。そこは取調室のような殺風景な部屋とは違っていた。広さからすると会議室を思わせるが、壁には絵が三枚飾られ、部屋の隅っこには大きな花瓶に色とりどりの花が生けてあった。
広井と松本は部屋の奥に用意されたイスに座って待機していたが、さすがに顔色は良くない。
舞子の車いすを押して部屋の中に入ってきた錫は、広井たちと距離を置いて向かい合った──危険を避けるための配慮だ。
まず口火を切ったのは一松刑事だった。「広井さんも松本さんも、彼女とは初対面ですか?」
「もちろん、こんな人は見たことありません…」さらっと答えたのは松本だ。
「本当に?…もう一度よく顔を見てください」さらに一松が突っ込んで問うた。
「見てくださいと言うならサングラスくらい取れ!」そう言ったのも松本の方だ。広井は口を開こうとしない。
「私は〝彼女とは初対面ですよね?〟とは言いましたが、サングラスがその彼女の方だとは言ってませんが…?」こんな古典的な罠に引っ掛かってしまう松本に、広井は心の中で舌打ちした。
「こ、こんな場所に車いすで現れたら、誰だってそっちだと思うだろう」松本は上手く躱した。
「そうですね…失礼しました。では反対に彼女に質問します──この人たちを見たことはありますか?」その質問に対して、舞子は錫を手招きして、自分の口元に呼び寄せた。錫はひそひそと話す舞子の言葉に、小さく何度も頷いてから顔を上げた。
「はい、あります!私の手に血のついたナイフを握らせました」錫がきっぱりと言うと、やっと広井が口を開いた。
「なんで車いすのお嬢さんは自分でしゃべらないんだ?」
「この人は恥ずかしがり屋なの」錫が代弁した。
「…お嬢さん、本当に俺たちを見たのか?じゃ聞くが、ナイフを握らせたのはどっちだ?」舞子はまた錫に耳打ちした。
「とっさのことで覚えていないけど、おそらくあなただったと思うと…そう言ってます」
「そんなあやふやな…。いいか、俺たちはあんたなんか知らない。だいたい刑事さん、何を根拠に俺たちをここへ呼んだんです?」
一松はチラリと錫に視線を合わせた。ポーカーフェイスを装っていたが、内心はかなり焦っていた。一松から目でバトンを渡された錫は、またしても舞子とひそひそ話を交わした後、説明を始めた。
「舞子さんは車を見たらしいです。あなたたち二人が乗って逃げた車を…」〝そんなバカな〟と広井は思った。あの日、車は大島邸から少し離れた山道に止めておいた。目の見えない舞子が追いかけてきて確認できるはずがない。よしんば足音を頼りに追いかけてきたとしても、どうやって車のナンバーを確認するのか──広井には見当もつかなかった。
──「だったらなぜ俺たちはここに呼ばれたんだ…?」疑問符が残るまま広井は松本が反論しないことを願った。
「今のあなたたちの心中を当ててあげましょうか?──どうして足が付いてしまったのか?…その理由が分からなくて慌てている──そうでしょう?」一松は、さも分かっているかのように言い放ったが、本当は自分が抱えている疑問を、そのまま相手に置き換えただけだった。それが図星だった広井は、相手のペースに巻き込まれないように返答した。
「ふん、俺は早く帰ってビールが飲みたいと思っているだけだ」
「お二人は例の事件のあった日、レンタカーを借りてますよね?」一松はさらに突っ込んだ。
「確かにレンタカーは借りた。けどそれだけで犯人扱いとは、あまりにもずさん過ぎでしょう?」
「だから見たんだって!あなたたちが逃げてゆく車を…」錫が押して舞子の代わりに言った。
正直、一松にも錫の言っていることが理解できていなかった。目の見えない舞子がどうやって車のナンバーを知り得たのか謎だった。
──「やはりこの世にはおかしな力が存在するのか…?」一松は〝ぶるっ〟と震えた──。
「おい、お嬢さんたち、いい加減にしてくれ!でっち上げもいいところだ…」我慢できなくなった松本が口を開いた。「あんたたちグルになって俺たちを犯人に仕立てようとしているだろう?車いすのお嬢さんが耳打ちしているように見せかけて、本当は付き添いの目の大きな姉ちゃんが自分の思いをしゃべってる……違うか?」
「ち、違うわよ…」錫が慌てて否定した。
「おや!……焦ってるな。くっくっく…俺の目は節穴じゃないぞ」犯人は二人だったという舞子の証言をもとに、事件当日の時刻前後に、舞子の家の付近で二人組が乗った車がいなかったかどうか聞き込みをしていて、自分たちの借りたレンタカーをどうにかこうにか割り出した──どうせそんなところだろうと松本は察した。 それなら物的証拠はない。しらを切りとおせばいいだけだ。松本の気持ちに余裕ができた。
「本当はその車いすのお嬢さんは車なんか見ちゃいない。それどころか犯人の顔だって見ていない…」
「見たわよ!彼女はちゃんとあなたたちの顔を見たわ!」
「いいや、その目では見れるはずがない…」
「その目!?…その目ってどういうこと?」錫は透かさず突っ込んだ。広井は松本にそれ以上口を開いてほしくなかった。バカな松本がボロを出しそうでハラハラしていた。
「そ、その目はその目だ…。室内でサングラスをしているから目が見えないと思ったんだ…それに車いすだし…」
「車いすなのは足が不自由だからよ。それにこのサングラスは、あなたたちに顔を見られたくないからよ」
──「ふん、よくもそんなウソを飄々と…。目が見えないことは最初から知っているんだぞ」松本は暴露してやりたかった。だがそれだけはできない。さすがにそれくらいの判断はついた。
「まぁ、とにかくだ…このお嬢さんはあんたたちが真犯人だと言っている。これからじっくり取り調べるからそのつもりでいてくれ」一松が今までより強い口調で言った。
「ま、待ってくれ。もう少しだけ時間をくれ!」そう言ったのは広井だ。
「なぁ、お嬢さん…本当はこの松本が言うように見えてないんだろう?俺たちを見たっていうのはウソなんだろう?」広井の言葉に舞子が錫に耳打ちすると、錫は二人にきっぱり言い切った。
「見えている!…と言ってます」
「じゃ、お嬢さん…俺の指さした先にある絵は何の絵だ?」
広井は右手で壁の絵の一つをゆび指した。かごに果物が盛ってあるありふれた絵だ。またしても舞子の言葉を錫が代弁した。
「果物の絵だと言ってるわ!」
「くははは、嬢さんよ…とんだ茶番だな!やっぱりあんた一人が演じているんだろう?…ではこうしよう──今度は答えを書いてみてくれ」
──「さすが兄貴だ…これならごまかせない!」
「疑い深い人たちね…。私が代弁してるんだから、それでいいでしょう!?」
「ダメだダメだ。…それともこのやり方にされると困ることでもあるのかい?」広井は錫にそう言うと、メモ用紙とペンを舞子に渡すよう一松に指示し、今度は反対側の壁に掛かっている絵を静かに指さした。「さぁ、何の絵か当ててみろ…車いすのお嬢さん」その言葉に舞子は暫く黙って正面を見つめていたが、やがてメモ用紙を持つとすらすらとペンを走らせた。
錫は舞子が書き終わったメモ用紙を受け取ると、そのまま一松に手渡した。一松はそれを広井と松本の手元に渡してやった。
「ま、まさか…そん……な…」二人は互いに顔を見合わせて驚いた。そこには〝橙色の夕日に照り映えた海の上を飛ぶ数匹のカモメ〟と具体的に書かれてあったからだ。焦りを見せていた広井だったが、ふと何かに思い当たって余裕の表情に変わった。
「どこまでセコいお嬢さんたちなんだ……分かっちまえば簡単なカラクリじゃないか。あんたらこの部屋に飾ってある三枚の絵がどんな絵なのか最初から知っていたんだ。いいや…あんたらが飾ったのかもしれない。最初の果物の絵はもう用済みだとして、残る絵はたった今言い当てた絵と、山下清画伯のような昆虫の切り絵だ。俺がどっちかを選んだら、付き添いのお嬢さんが車いすのお嬢さんに何らかの合図を送る。例えば後ろから肩を叩くとか──右肩ならこの絵、左肩ならそっちの絵…という具合にな」
──「さすが兄貴だ、そうに違いない!」
このやり取りに一番慌てたのは──誰あろう一松刑事だった。絵を持参してこの部屋に飾ってくれと錫に頼まれたのは本当だったからだ。錫たちが徐々に追い詰められていくたびに、自分の首がゆっくりとノコギリで挽かれているような気になった。
「ということで付き添いのお嬢さんは少し距離を置いて立ってくれ」仕方なく錫は舞子から三歩左にずれた場所に立った。
「さて…今度はコレが何か当ててもらおう…」広井は大きな花瓶を指さして言った────舞子の手はピクリとも動かない。
「どうした…?早く答えを書いて俺たちに見せてくれ。それとも書けない理由があるのか?まさか付き添いのお嬢さんが張り付いていないと何も分からないとか?」舞子は広井の嫌味を黙って聞いていた。錫も拳を強く握ったまま相手を睨みつけるしかなかった。
「さぁ、どうするんだ…?〝本当は目が見えません〟と言ったらどうだ?」
「…分かりました!では正直に話します」死んだように固まっていた舞子が初めて口を開いた。「ごめんなさい…私、ウソをついていました…」
「そうだろう………最初から素直にそう言えばいいものを」広井がそう言うと、隣にいた松本も唇を歪めて笑った。
「本当は……私………………本当は…」広井と松本は次の一言が聞きたくて前のめりになっていた。そして一松刑事は、大鳥舞子の次の一言で、自分の首は完全に胴体から離れてしまうと覚悟した。